見出し画像

【人物月旦 #20】😢再会しなかったふたりを想うはなし:台湾・日本統治時代

こんにちは。Bell noteです。
久しぶりに今日は人物月旦を書いていきます。
母の姉のことを、書こうと思ったのはずいぶん前のことです。
一枚の写真を見つけたときに「いつか書いておきたい」と思ったのですが、なかなか手が動かず、そのままになっていました。思い出すたびに書こうと考えて、また忘れてしまう。そんなことを何度か繰り返してきたように思います。

今回、ようやく少し腰を上げて書いてみようと思ったのは、今年のゴールデンウィークに台北の圓山大飯店に泊まったことがきっかけでした。
宿泊中に宋美齢という女性の足跡を調べる機会があり、彼女が生きた時代のことを追っているうちに、ふと母の姉のことが思い浮かびました。

直接のつながりがあるわけではありません。
ただ、同じ時代を生きた一人の女性として、どこか重なるような感覚があったのかもしれません。
そうして、母の姉のことを書いてみようという気持ちになりました。

私は、その人に会ったことがありません。話を聞いたのも母から少しだけです。でも、一枚の古い写真と、断片的な記憶、そして自分の台湾での経験をたどってみることで、ほんの少しだけ、その人の人生に触れられるような気がしました。

誰にも語られなかった記憶に、そっと言葉をあててみる。これは、そんな試みとして書いた記録です。

👇️本編要約
本作は、語られなかった「母の姉」の人生をたどる私的なエッセイです。語り手である私は、ある日ふと、母の遺品の中から見つけた一枚の写真をきっかけに、戦前に台湾・台中へ嫁いだという母の姉の記憶を辿り始めます。日本統治下の台湾という歴史背景の中で、異国の慣習や家制度に囲まれながら、孤独に生きた女性の姿が、母の断片的な記憶と重なって浮かび上がっていきます。やがて、母が果たせなかった「お墓参り」の思いを引き継ぐように、私は台中を再訪する決意を固めます。実際に会ったことのない母の姉の人生を、想像と伝聞を通して静かに描く本作は、記憶の継承とは何か、語るという行為が持つ意味を見つめ直す試みでもあります。失われゆく記憶に耳を傾けることは、今を生きる私自身への静かな問いかけにもつながっています。



第一章 母から聞いた“姉”の輪郭

母が、姉のことを話すことはそう多くありませんでした。けれど、ごくまれに、その話題が出ることがありました。食卓の何気ない会話の延長で、あるいは古い写真を見ていたときに、ふと思い出したように、母はぽつりぽつりと語ったものでした。

「姉さんはね、早稲田に来てた台湾の学生さんと結婚したのよ」
「台中ってところに行ったらしいけど、会ったのはそれっきり」

母自身も若かったため、姉が嫁いだ日のことをよく覚えていないのかもしれません。あるいは、その後のやりとりが手紙だけで、顔を合わせることもないまま月日が流れたことで、次第に記憶が遠のいていったのかもしれません。
それでも、母が語る姉の姿には、どこか哀しみのようなものが漂っていました。

「かわいそうな人だったのよ」

あるとき、母がそう言ったのを覚えています。理由を尋ねると、こう続けました。

「姑さんや小姑さんにずいぶんいじめられたみたい。旦那さんは庇ってくれなかったって」

その言葉の裏には、母自身がどれほど心を痛めていたかがにじんでいました。
もっとも、この話がどの程度まで事実だったのかは、今となっては正確にはわかりません。手紙にそう書かれていたのか、それとも母が話を大きく受け止めてしまったのか、あるいは姉自身が何かしら誇張して書いていた可能性もあります。当時の社会的背景や言葉のニュアンスの違いを思えば、慎重に受け止める必要があるのかもしれません。

また、母から聞いた話の中には、母の姉が心を病んでしまい、最終的には家の奥の部屋のような場所で静かに暮らすようになった、というものもありました。当時の言葉で言えば“座敷牢”のような印象を与える言葉でしたが、それが実際にどのような状況だったのかは、今となっては確かめようもありません。

もしかすると、それは療養のための措置であったのかもしれませんし、家族の中でできるかぎりの配慮の形だったのかもしれません。いずれにしても、外から一方的に判断できるようなことではなく、今の私にできるのは、想像と敬意をもってその一片に触れることだけです。

私はその話を聞いたとき、どこか現実離れした出来事のように感じました。けれど、戦前の台湾という、今の私たちからは遠い社会構造の中では、家制度や慣習が、そうした過酷な状況を生み出すこともあったのでしょう。日本人として台湾に嫁ぎ、家族も友人もいない土地で孤独を抱えながら生きた人の人生が、想像の中にゆっくりと立ち上がってきました。

私は、その「母の姉」に会ったことがありません。けれど、母の語り口のなかに、たしかに“姉”という人の体温が残されていたことを、今あらためて感じています。


第二章 歴史のなかの母の姉

第一節 「日本統治下の台湾」という舞台

母の姉が生涯を過ごした台湾、なかでも嫁いだとされる戦前の台湾は、当時、日本の統治下にありました。いわゆる「外地」と呼ばれた地域のひとつです。日本が台湾を統治していたのは、1895年から1945年までのおよそ50年間。日清戦争後に結ばれた下関条約によって清から割譲され、日本は台湾を「模範的な植民地」として開発していこうとしました。

鉄道や上下水道、病院、学校といったインフラの整備が進められ、とくに都市部では近代化された生活が実現しつつあったようです。台中もそのひとつで、市庁舎や駅といった洋風建築が並び、街並みも日本本土とそう大きく変わらない様子だったといいます。

ただ、それはあくまで“表向き”の話です。

実際には、日本人と台湾人のあいだには明確な身分差が存在し、台湾人には参政権がなく、日本語教育も支配の手段として用いられていました。学校でも役所でも裁判所でも、使われるのは日本語。一方で台湾語や客家はっか語、中国語といった現地の言葉は“家庭内の言葉”という扱いに押し込められていった時代でした。

母の姉が嫁いだころの台中は、鉄道の要衝であり、商業の街としても発展しつつあったと言われています。さまざまな文化が入り混じる、活気のある町だったことでしょう。

けれど、家庭の中に目を向けると、そこには別の緊張感があったはずです。

当時は家父長制が当然のように機能していた時代で、長幼の序ちょうようのじょや男尊女卑の価値観が根強く残っていました。そこに、文化も言葉も異なる日本人女性が嫁いできたとなれば、軋轢あつれきがなかったとは言えなかっただろうと思います。

母の姉がどのような暮らしをしていたのか、詳細はわかりません。ただ、こうした時代や社会の背景を少しずつたどっていくことで、彼女が置かれていた状況の輪郭が、ほんのわずかでも見えてくるのではないか。そんな思いから、ここではその「時代の空気」をできるかぎり丁寧に拾い上げてみようと思います。


第二節 早稲田の台湾人留学生と母の姉の出会い

母の姉が出会ったという台湾人の青年は、早稲田大学の薬学部で学んでいたそうです。昭和初期の日本には、台湾や朝鮮から多くの留学生が来ていて、なかでも早稲田は比較的自由な校風があったからか、外地出身の学生にも門戸を開いていたようです。

当時の台湾人学生は、日本語教育を受けて育った世代が中心で、会話も文章もとても流暢だったといいます。それに加えて、勉学に熱心で礼儀正しい学生が多かったことから、教師や日本人学生からの信頼も厚かったと聞きます。母の姉が出会った彼も、そうした人物のひとりだったのではないかと思います。

東京で、台湾人留学生と日本人女性が知り合うきっかけは、授業や学外の活動、あるいは同じ下宿で偶然顔を合わせたことなど、さまざまだったはずです。珍しいことではなかった一方で、当時の社会からは、やはり“異国間の結婚”としての視線があったことも否めません。

母は、姉がその青年とどうやって出会い、どのような思いで結婚を決めたのかを、あまり詳しくは語りませんでした。でも、想像するに、そこにはきっと、当時の東京にあった少しだけ自由な空気が流れていたのだろうと思います。戦争の影がまだ色濃くなる前の、学生たちが夢を語り、理想を描けた時代です。

母の姉は、その青年にきっと、知性や誠実さ、そして異なる文化へのまっすぐな関心のようなものを感じたのではないでしょうか。日本語を自在に話し、穏やかに未来を語る青年に、自然と心を寄せていった。そんな情景が、頭に浮かびます。

けれど、「出会った場所」が東京だったことと、「暮らす場所」が台湾だったこと。この二つの違いが、彼女の人生にとって大きな転機になったのかもしれません。

当時の台湾は、たしかに“日本”ではありましたが、“日本本土”とは異なる空気をまとった土地でもありました。制度も文化も違い、言葉は通じても、心を訳してくれる存在はいない。そうした場所へ嫁いでいくということが、どれほどの決意を伴うものだったのか。その旅立ちの背中に、当時の彼女が抱えていた覚悟や不安を思うと、言葉にならない思いが胸に広がります。


第三節 台中へ嫁ぐということ

結婚を機に、母の姉は台湾中部の都市・台中へと渡りました。相手の青年の故郷であり、当時すでに街の中心部には日本式の官庁や学校、病院、商店などが立ち並び、都市として整備が進んでいたようです。

ただ、町の見た目が日本風に整えられていたとしても、生活の中にある慣習や言葉、日々のやり取りの感覚には、やはり異なる文化の空気が流れていたはずです。暮らしてみて初めて気づく小さな違和感や、言葉にならない距離感。そうしたものが、じわじわと彼女の中に積もっていったのではないかと思います。

母の姉が嫁いだ家は、台中で代々薬屋を営んでいたと聞いています。地元でも知られた家であったなら、家の中の決まりごとや、嫁としての振る舞いに求められるものも、それなりに多かったのではないでしょうか。

しかも、彼女は「日本人」としてそこに入っていきました。当時の台湾において日本人は支配者の側にあったとはいえ、戦争が進むにつれて世の中の空気が変わっていった時代です。家庭の中で日本語を話す嫁に対して、無意識のうちに距離を置くような雰囲気があったとしても、不思議ではなかったかもしれません。

言葉や味付けの違い、季節の行事、親戚づきあい……。家族の中でただひとり、異なる文化圏から来た存在として、彼女は常に「内側」ではなく「外側」に立たされていた。そんな居場所のなさのようなものが、いつしか心に影を落としていったのではないかと想像します。

母がぽつりと語った「庇ってくれる人がいなかった」という言葉には、その孤独がにじんでいました。結婚のときには心強く見えた夫も、家という大きな枠組みのなかでは、息子としての役割に縛られていたのかもしれません。

その後、心を病んでしまったという話を、私は母から断片的に聞きました。「座敷牢のような場所で暮らしていたらしい」といった表現が使われたこともありましたが、それが事実としてどういう状況を指していたのかは、今となってはよくわかりません。ただ、手紙や語られた言葉のなかにそのような描写があったということは、彼女が長いあいだ大きな心の負担を抱えていたことのひとつの表れだったのかもしれません。

もし、台中という土地が彼女にとってもっと安心して暮らせる場所だったなら。もし、彼女の声にならない思いに、そっと耳を傾けてくれる人が近くにいたなら。そんなふうに考えてしまうことがあります。


第四節 戦争と喪失の影

1941年に太平洋戦争が始まると、台湾もまた戦時体制のなかに組み込まれていきました。徴用や物資統制、そして空襲への備えといったものが、徐々に日常生活に入り込んできます。台中のような地方都市でも、警報の音が空を裂き、防空壕が暮らしの風景の一部になっていったことでしょう。

日本本土と同様に、台湾で暮らす人々もまた、戦争の重みを背負わされました。徴兵の拡大、食糧の配給制、言論統制や国民総動員体制といった仕組みのなかで、生活のすべてが「勝利のため」に塗り替えられていきました。家庭の中の時間や空気さえも、戦争の色に染まっていったのだと思います。

そのような時代に、母の姉がどのような日々を過ごしていたのか、詳しい記録は残っていません。ただ、戦争が人の心から余裕を奪い、やさしさや思いやりを押し流していったのだとすれば、家庭の中の空気もまた、次第に冷たく張りつめたものになっていったのではないかと想像します。

そして1945年、日本は敗戦を迎えます。

この瞬間、日本人として台湾に暮らしていた人々の立場は、大きく揺らぐことになりました。日本による統治は終わりを告げ、大陸からやってきた国民党政府が新たな支配者となります。台湾の人々にとって、日本人は「昨日までの支配者」であり、敗戦国の国民であり、さまざまな感情の対象でもあったはずです。

そのなかで、日本人女性として台湾に残った母の姉が、どのような視線を受けていたのか。考えるたびに胸が締めつけられます。家の中での立ち位置、地域の中での居場所、それらがどのように変わっていったのかはわかりません。ただ、その変化が決して小さなものではなかったであろうことは、想像に難くありません。

喪ったうしなったのは、国籍だけではなかったと思います。頼ることのできる制度や支え、心を開ける人とのつながり、そして自分の存在を支える言葉、そうしたものが、一つずつ静かに彼女の足元から失われていったのではないでしょうか。

戦争は、個人の努力や願いをあっさりと踏みつけていきます。母の姉にとってあの時代は、口に出せない喪失が、静かに、けれど深く刻まれていく時間だったのかもしれません。


第三章 叶わなかった再会、探し出せなかった姉

第一節 叶わなかった再会

母とその姉は、結婚を機に離れてから、ついに一度も再会することがありませんでした。手紙のやりとりはあったと聞いていますが、それもどこまで続いていたのか、はっきりとしたことは分かりません。姉が台湾へ渡った時代を考えると、戦後の混乱や国交の問題もあり、手紙ひとつ送るにも簡単ではなかった時期があったのでしょう。細く続いた往復書簡も、少しずつその間隔を空けながら、やがて自然と途絶えていったのかもしれません。

「会いたかったんだけどね」

母がそうぽつりと口にしたことを、私は覚えています。その声には強い感情は込められておらず、むしろ自分にそっと言い聞かせるような、静かな響きがありました。

遠い台湾で暮らす姉が、どんな日々を送り、どんな気持ちで生きていたのか。母は、その断片を手紙から読み取るしかありませんでした。でも、年月が経つにつれ、やりとりは徐々に形式的な内容になっていったようで、次第に“元気でいます”という挨拶のようなやりとりだけが残されたとも聞いています。

そのせいか、母が語る姉の姿は、どこか輪郭がはっきりしないものでした。話の中の登場人物のようでもあり、実在の家族というより、遠くの世界にいる誰か、そんな印象を私は子ども心に抱いていたように思います。

それでも、母の心の奥にはずっと、割り切れない想いが残っていたのでしょう。「一度でいいから、お墓参りに行きたい」そんな言葉を、母は何度か口にしていました。

けれど、それを実際に行動に移すことは、母には難しかったようです。遠くへ出かけること、飛行機に乗ること、言葉の通じない土地を訪ねること、そのどれもが、母にとっては簡単ではないハードルだったのでしょう。私の記憶では、母が自分でパスポートを申請したことは一度もなかったように思います。

それでも、「行きたい」という言葉には、再会できなかったことへの寂しさや、姉に対して“なにもできなかった”という、静かな悔いのような気持ちが込められていたのではないか、今ではそんなふうに感じています。

会えなかったことが、母にとって本当に不幸だったのかどうか、それはもうわかりません。ただ、「会いたい」と言ったそのひと言の奥には、再会そのものというよりも、どこかで生きた姉の人生を、そっと受け止めたいという気持ち、祈りにも似た想いがあったのではないかと、今はそう思っています。


第二節 台湾での“探訪”

2000年代に入り、私の姉たちは母を連れて台湾を訪れる機会をつくりました。母にとってそれは、長年「姉のお墓参りをしたい」と口にしていた思いを、初めて現実の行動に移す、最初で最後の機会だったのかもしれません。

ただ、母の姉が実際にどこで暮らしていたのか、どんな姓で、どんな家族とともに過ごしていたのか、その詳しいことを知る者は、家族の中には誰もいませんでした。唯一の手がかりは、「台中で、薬屋を営む家に嫁いだらしい」という母からの伝え話。それだけでは、さすがに探しようがないだろうと、正直なところ私は思っていました。

それでも、姉たちはできるかぎりのことをしました。宿泊先のホテルで、日本語の通じる台湾人スタッフと出会えたことが幸いし、事情を説明して協力をお願いしたのです。地名を頼りに、古地図を調べたり、電話帳や今も営業している薬局の記録に目を通してもらったりと、あらゆる手を尽くしてくれたそうです。

けれど、結果として、はっきりとした手がかりは得られませんでした。

台中の町並みは戦後の再開発で大きく姿を変えており、日本統治時代の地名や通りの名称はすでに残っておらず、当時の住民記録のようなものも、個人で簡単にアクセスできるものではありません。もしも戦後まもなく亡くなっていたとしたら、あるいは姓が変わっていたとしたら、その足跡はあまりにも遠く、ぼんやりとしか見えてこなかったのだと思います。

それでも姉たちは、台中のいくつかの薬局を訪ね、店の方に話を聞いたりしたそうです。まるで手がかりのない中での探訪ではありましたが、母にとっては、それがひとつの“区切り”になったのではないかと、今では思います。

「これで、少し気がすんだ」

帰国後に母がぽつりとそうこぼした、その言葉の響きが、私の記憶には今も残っています。探し当てることはできなかったけれど、少なくとも、母はあの場所を訪ね、あの空気を吸い、かつて姉が生きたかもしれない街に、自分の足で立った。そのこと自体が、母の中に残っていた未練を、少しだけ静かに和らげてくれたのではないでしょうか。

再会は叶わなかったけれど、その旅は、長く続いていた姉とのあいだの沈黙に、わずかでも温もりを届けてくれたのかもしれません。


第三節 記憶をつなぐ者としての私

母が亡くなり、姉たちが母を台湾に連れて行ったあの旅の記憶も、私の中で少しずつ遠ざかっていった頃のことです。私は思いがけず、台湾という土地と深く関わるようになりました。仕事で台湾の事業を担当することになり、自然と現地の文化や社会、歴史に触れる機会が増えていったのです。

それまでの私は、台湾についてほとんど何も知りませんでした。恥ずかしながら、中国の一部だと考えていたことさえあり、日本との関係や統治の歴史にもまるで関心を持っていませんでした。姉たちが母を連れて台湾へ行ったと聞いたときも、「へえ、行ったんだ」と、それこそ他人事のように受け流してしまっていました。

けれど、仕事を通じて台中や台北を何度も訪れるようになるうちに、少しずつ何かが変わっていきました。町のあちこちに残る日本統治時代の建物や古い日本語の表記、そして地元の方が語ってくれる「おじいさんは日本語を話せたよ」というような記憶。そこには、私がかつて考えたこともなかった“つながり”が、確かに息づいていると感じました。

ある旅の途中、ふと「母の姉も、この空の下で暮らしていたんだ」と思ったとき、その実感は、静かだけれど確かな衝撃として胸に残りました。どこかに、あの人が歩いた道があり、誰かと話した場所があり、手紙を書いた部屋があった。そう想像したとき、台湾という場所は、私にとって過去と現在が重なりあう特別な土地へと変わっていました。

今では、母の姉の痕跡をたどることが、私にとって自然な営みのひとつになっています。たとえはっきりとした足跡を見つけられなくても、この土地を歩き、その歴史を知ろうとすること、それ自体が、かつてそこに生きた誰かの証を、自分の中に受け継いでいくことになるのではないかと、そう思うようになりました。

以前は無関心だった私が、今こうして記憶をつなごうとしている。そのこと自体が、母や母の姉に向けた、ささやかな供養になっているような気がしています。


第四章 一枚の写真から始まる巡礼

その写真を見つけたのは、母が亡くなってから、何年も経ったある日のことでした。季節の変わり目にふと物置の奥を整理しようと思い立ち、長い間開けていなかった箱を開けたときのことです。中から出てきた封筒の中に、一枚の厚手の台紙が挟まれていました。手に取った瞬間、どこかで見たような、けれど思い出せない不思議な引っかかりを感じました。それが、母の姉へとつながる“最後の糸”になるとは、そのときはまったく思いもよりませんでした。

写真はスナップではなく、写真館で撮影されたきちんとした記念写真でした。台紙には「高賓照相禮服」と印刷され、その下には「彰化県北斗鎮五權里宮前街81」という住所が記されています。写っていたのは、スーツ姿の年配の男性、年老いた老女、若い夫婦、そしてその子どもと思われるふたりの子どもたち。背景には屏風や観葉植物が配され、スタジオ特有の整った構図の中に、整然と家族が並んで写っていました。写真はカラーで、おそらく撮影されたのはここ二十年ほどの間だろうと思われました。

この写真が、なぜ母の遺品の中にあったのか、今となってははっきりしません。形見分けのときに受け取ったものに混ざっていたのか、それとももっと以前に、母が黙って私に託していたのか、その記憶もあいまいです。

けれど不思議なことに、私はその写真を見た瞬間、「これは、母の姉の家族ではないか」と、どこか直感的に感じていました。台中のすぐ南に位置する彰化という地名、家族構成、そしてこの写真が母の遺品の中から出てきたという事実、そうした断片が、少しずつ一つの物語として心の中に立ち上がってきたのです。

母がこの写真をどうやって手に入れたのか、それは今もわかりません。生前、母がこの写真について話すことは一度もありませんでした。ただ、もしこれが本当に母の姉の家族だとすれば、母は亡くなる前に何らかの形で、母の姉の家族と接触していたことになります。けれど、そのことを私は知ることはありませんでした。

もし、母が生きているうちにこの写真を見つけていたら、もっと早く行動に移せていたかもしれません。でも、それはもう叶わないことです。

だからこそ、私はこの写真をきっかけに、もう一度台中を訪れてみようと考えるようになりました。観光でも、仕事でもない、自分の意思で向かう旅です。そこに母の姉が眠っているかどうかはわかりません。けれど、何も知らないままにしてしまうことだけは、避けたいと思ったのです。

一枚の写真。そこに込められていた静かな記憶が、時を越えて、今また私を台湾へと導こうとしています。


第五章 記憶という名の遺産

第一節 私がこの物語を書く理由

これまで私は、いくつかの「人物」について文章を書いてきました。若い頃に出会った友人たち、仕事を通じて知り合った人たち、そして、近くにいながらも長いあいだ意識の外にいた身内たち。どの人にも、それぞれの時間があり、思い出があり、振り返ることでようやく見えてくる輪郭がありました。

けれど、今回ばかりは少し違っていました。知らないことばかりで、書こうと思ってすぐに書けるような内容ではなかったのです。むしろ、心のどこかで「想像を交えて書いてもいいのだろうか」というためらいがあり、筆を取るまでに、長い時間がかかりました。

母の姉。私にとっては「想像の中の記憶」とでもいうような存在でした。母から聞いた話も断片的で、手紙も写真もほんのわずか。ましてや、実際に会ったことは一度もありません。けれど私は、どうしても彼女の人生を“書いてみたい”と思ったのです。

それは、もしかしたら供養のような気持ちだったのかもしれません。あるいは、母のために、私が成し遂げられなかったことへの、静かな懺悔だったのかもしれません。生きているうちにもっと母と話しておけばよかった。そう思うことが何度もあります。母の姉について語る声を、どこか他人事のように聞き流していたかつての自分に、今になって向き合いたくなったのだと思います。

けれど、これはただ悔いを綴るためだけの文章ではありません。

記憶というものは、誰かが意識して受け継ごうとしなければ、いつの間にか静かに消えていきます。どれほど真摯に生きた人生であっても、語られなければ、やがて誰の記憶の中からも消えてしまう。

私は、母の姉の人生が「記憶のなかになかったこと」になってしまうのが、どうしても耐え難かったのです。たとえ実像に届かなくても、伝え聞いた言葉や想像の力を借りながら、その輪郭を少しでも描き出したいと思いました。そして、そうして生まれた文章が、自分自身の中にあった無関心や鈍感さを、ほんの少しでも超えていく“橋”のようなものになれば——そう願いながら書いています。

 この文章は、母の姉について綴ったものですが、同時に、私自身のための文章でもあります。


第二節 受け継がれるもの、語り継がれるもの

血のつながりだけが、家族を定義するわけではありません。同じように、姓が残っていなくても、戸籍に記録が残されていなくても、人の人生は、誰かの記憶のなかに宿ることで“受け継がれて”いく。今の私は、そう信じています。

母の姉は、おそらく自分の人生について多くを語ることがなかったのだと思います。語らなかった、というよりも、語れなかった。異国の地で、文化も慣習も異なる環境のなかで、家族や故郷から遠く離れた日々を、たった一人で生きていくということ。その時間の重さは、言葉にできるものではなかったのでしょう。

そして母もまた、それを正面から問うことはできなかったのだと思います。たとえ手紙を通じて気遣い合っていたとしても、心の奥底にある痛みや孤独には、きっと触れることができなかったのだろうと思います。

けれど、語られなかったからといって、その人生が「なかったこと」になるわけではありません。むしろ語られなかった人生こそ、誰かが想像の力を通じて語り継ごうとする営みが必要なのではないか。書くこと、想いを寄せること。それによって、その人の存在を未来に手渡していく。それが、私にできる、ごくささやかでありながらも確かな行為なのではないでしょうか。

母の姉の人生が、歴史の教科書に記されることはありません。誰かに語り継がれたり、顕彰けんしょうされたりすることもないかもしれません。けれど、それでも彼女は確かに、あの地で生きていた。懸命に、静かに、その時代を生き抜いていた。

そして、その記憶の小さなかけらを、母は私に託してくれました。今、私はそれをこうして言葉にしています。たとえそれがどれほど不確かで、想像に支えられたものであったとしても、誰かの心にそっと届くのであれば、それは彼女の人生が今もこの世界のどこかで息づいている証になるのかもしれません。

語り継ぐという行為は、記録というより、物語に近いものなのかもしれません。語られなかった誰かの人生に、自分の声をそっと重ねてみる。そしてそれがまた、誰かの中の記憶と響き合い、思いがけない継承のかたちを生んでいく。そうした連なりの中に、「記憶という名の遺産」は静かに受け継がれていくのだと、私は信じます。


第三節 今を生きる自分へ

時代は移り変わり、いま、かつてとは比べものにならないほど多くの便利さと選択肢に囲まれて暮らしています。けれど、どれほど時代が進んでも、人が誰かと関わり合い、そこで時に傷つき、時に癒されながら生きていくという営みの本質は、きっと変わらないのだろうと思います。

母の姉が生きたのは、制度や文化の境界が今よりもずっと厳しく、異なる背景を持つ者同士が理解し合い、支え合って生きていくには、並々ならぬ覚悟と努力が必要だった時代でした。しかも、孤独や偏見の中で心を病み、それでも誰にも頼れず日々を過ごしていたかもしれない彼女の姿を思うと、「語れる今」を生きることの意味を、あらためて考えさせられます。

もし、あの時代に、たったひとりでも彼女の声にならない声に気づき、耳を傾けてくれる人がいたなら。もし、社会の中にほんの少しでも、異質なものを受け入れる柔らかさがあったなら、そんな「もしも」が、いくつも胸をよぎります。それでも私は、だからこそ今を生きる私が、その届かなかった想いを、未来へと引き継ぐ役割を担っているのではないかと信じたいです。記憶は、人の中に生きる小さな物語だとおもいます。そしてその物語は、誰かにとって、灯りあかりのようなものになることがきっとあるはずです。

これから写真館の住所を頼りにお墓参りができるその時まで、辿っていこうと思っています。


🔔Bell


いいなと思ったら応援しよう!

🔔Bell note いただいたサポートは、noteの有料記事の購入や他のクリエイターの方へのサポートなど、何かしらnoteに還元する形で使わせていただきます。

この記事が参加している募集