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ははうえ

  目次

 不意によぎったその思考に、フィンは絶望した。自覚してしまった以上、さきほどのように自閉の殻に籠ることもできない。
 そんなことをするくらいなら死んだ方がましだった。
 そんなことをする以外に、義務を果たすすべはなかった。
 狂ってしまう。どこにも逃げ場がない。

「いやだ……たすけて……だれか……ちちうえ……ははうえ……! こんなのやだ……やだやだやだ……もうやだよぅ・・・・・・……!」

 瞬間。
 その場のどちらにとっても予想外の事態が発生した。

「え……」

 フィンは、胸元に振動を感じた。硬い感触が、音もなく震えている。
 そこには、フィンの拠り所の一つが収まっている箇所で。
 首にかかった鎖をたぐり、それ・・を取り出す。
 ロザリオだったはずのものを。ははうえが、フィンのために用立ててくれた、お守りを。
 形が変わっていた。十字架の交差部分が開き、内部の機構を露出させている。
 思わず目を見開く。ただの綺麗なロザリオだと思っていた。こんな仕掛けがあったなんて。
 露わになった金属部位は、戦術妖精にデータを伝達するコネクタであった。

「――みんな!」

 即座に呼んだ。今このタイミングで開いたコネクタ。これは明らかに誰かの意図によるものだ。
 〈哲学者の卵〉より、七体のホムンクルスらが飛び出てきた。半透明の翅から、輝く粒子を撒き散らしながら。
 戦術妖精のひとり、〈カビタス〉がみんなを代表して、ロザリオの接続子に、手を触れた。
 瞬間、内部に蓄えられていた音声データが〈カビタス〉の翅によって再生される。

〈このメッセージを残すことを、神はきっとお許しにならないでしょう。だけど、このまま終わってしまうことだけは、どうしても耐えられなかったのです〉
「ははうえっ!」

 フィンは眼を見開いた。多少ノイズが入っているが、紛れもなくフィンの母、フィトナ・インペトゥスの声であった。

〈フィン。こうしてあなたにあげたロザリオが開いたと言うことは、あなたはきっと追い詰められているのだろうと思います。ともに戦う人たちが、凶刃に斃れたか、自分が惨い目にあっているのか……それはわかりません。そのロザリオは、あなたの声紋で、かつある程度大きな声で「もうやだよ」という音を検知したときにだけ開くよう、プログラムされています〉

 フィンは、一言も聞き漏らさぬよう身を乗り出した。
 追い詰められ、打ちのめされたときにだけ聞けるようになる音声メッセージ。きっとははうえは、フィンに力をくれる。もう一度、心を戦士の規律で鎧うすべを教えてくれるはずだ。

〈母は……このメッセージが届かないことを祈っています。あなたが最後までセツの大義に殉じ、カイン人との戦いの中で慈悲深い死を迎えられることを。あの人の――アバツのそばで、最後まで誇りを持って前を向き続けられることを。きっとあなたは根を上げたりしない。最後の最期まで軍規で心を守り続けることができる。だけど……このメッセージを聴いていると言うことは、何か想像もしなかったことが起こり、あなたは心底から打ちのめされてしまったのね。フィン……母を赦して。いますぐあなたのそばに駆け寄って、抱きしめてあげられない母を赦して〉
「そんな……こと……」

 声が詰まった。
 〈カビタス〉の翅からは、すすり泣く声がしばらく続いた。
 ははうえが、泣いている。

〈あの人の言っていることは正しい。戦闘改造をするなら幼い子供のほうが望ましく、最初から的確な遺伝資質を持つ母体から生まれた子ならば、適合率はさらに高まる。あの人と私の結婚は、つまりはそういう事情からのものだった。だけど――母は、知っています。あの人がどれほど苦しんでいたかを。一緒になった理由がどうあれ、紛れもなく私とフィンを愛していてくれたことを。だから――何も言えなかった。あの人がどんな気持ちであなたを戦場に連れて行ったのか、よくわかっていたから。何かを守るために何かを切り捨てつづけ、すり減ってゆく苦しみを、知っていたから。今の時代、犠牲を払っていない人なんかいないの。献身や自己犠牲を称美する軍規だって、カイン人という絶望の中で、それでも未来に少しでも多くのものを残そうとする必死の足掻きだった。決して、薄っぺらな感情論なんかで否定していいほど軽いものじゃない。それは――わかってた。だから、英雄アバツ・インペトゥスの妻として相応しい振る舞いを今まで自分に課してきた〉

 フィンは――何か、不安を覚えた。
 ……どうして、それを、過去形で言うのか。

〈でも……でもね、フィン。もうやめましょう。私はずっと、ずっと我慢をしてきました。小さなあなたを、笑顔で戦場に送ることが、耐え難かった。あなたがどこか遠い地で、ひどい目に遭ったり、死んでしまったりすることを想像するだけで胸が張り裂けそうだった。そして今、あなたは片目と片腕がなくなった姿で私の前にいる。まるで棺桶のようなカプセルに入って、眠っている。あなたをこんな目に遭わせたすべてを、憎まずにいることができないの。あの人も、軍閥も、カイン人も……!〉

 いつも、哀しみを押し殺している人だった。それは、カイン人による惨禍に心を痛めているものだと思い込んできた。
 夫と息子が惨劇に立ち向かっていることは、彼女にとって誇りであり、喜びであるはずだった。
 そうではなかったのだとしたら。
 ははうえを泣かしているのが、カイン人などではなく、フィン自身なのだとしたら。

 ――あなたのことが大好きだから。あなたに笑っていてほしいから。

 そう思いながら、死力を尽くして戦い続けてきた。
 だけど、それは。
 なのに、それは、

〈私たちは、いったい何の罰を受けているのかしらね……フィン、あなたには想像しづらいと思うけれど、母が子供のころは、まだ郊外には緑が残っていたの。風にざわめく枝葉がきらきらと煌めいて、とてもきれいだったのよ。木漏れ日が草花を撫で、虫たちが蜜を集め、小鳥の声がさざめいていた。この世界は神の愛で満ちているんだって、あのころは信じられた。アルコロジーなんてなくて、ちょっと車を出せばそんな場所に行くことができたのよ。あなたとそこを歩きたかった。美しいものの名前を、たくさん教えてあげたかった。昔の親子なら、当たり前にできていたこと……なのに……〉

 声が震え、すすり泣きがしばらくつづいた。
 フィンは、足元が崩れ落ちるような心地だった。
 そう願うのは悪いことだと。もしははうえに知られたら、きっと失望されてしまうと。
 そう思って、押し隠して、今まで頑張ってきたのに。
 ははうえに甘えるのを、我慢してきたのに。
 いったい、自分は、なにをしてきたのだろう。何のために、戦ってきたのだろう。

〈こんなメッセージを残す気になったのは、このまま終わってしまうのが耐えられなかったから。あの人からはきつく口止めされていたけれど、もう関係ないもの。あなたがこのメッセージを聴いているということは、あの人の用意した救いが、あなたを救えなかったということだもの。いい? フィン。よく聞きなさい。あなたがこのメッセージを聴いている頃には、セツ防衛機構はすでに崩壊しています
「え……?」
〈あなたは戦局について、どのくらい知っているかしら? 広報部の戦勝発表が誇張だってことはわかっていると思うけれど――まだたくさんアルコロジーが残っていて、セツ人は各地で奮戦しているって、そう教えられてきたんじゃない? 苦しい状況だけど、まだ文明が崩壊したわけじゃない。黄金錬成クリュソペイアの解析まで耐えれば、逆転の目はあるって〉

 そうだ。アバツ連隊のみんなは、口を揃えてそう教えてくれた。
 だから気張ろうぜ、とフィンの肩を乱暴に叩いてくれた。

〈――嘘よ。本当はもう、戦争なんて終わっているの。勝ち目なんて、とっくにないのよ。まだ無事なアルコロジーは、〈統一神話無限螺旋塔マルドゥク・エテメナンキ〉を除けばもう片手で数えられる程度。そして、ついさっきあの人から連絡があったわ。衛星軌道上の腫瘍要塞から、無数の腫瘍艦が降下してきているって。私たちを滅ぼし尽くす最後の一撃が、振り下ろされているんだって。フィン、あなたは意識を取り戻し次第、緊急の出撃命令が下るはずよ。だけど、それは出撃じゃない。ただの脱出作戦。あてもなく、希望もない、ただの逃避〉

 なにを――
 なにを、言っているのか。
 思考が追い付かない。
 戦争が……終わっている? セツ人は、すでに負けた……?
 それだけでも理解が及ばないのに、さらにわけのわからないことを言われた気がする。
 ええと。なんだっけ。

〈フィン。きっと、こんなことを急に言われても理解できないと思うけれど、落ち着いて。ゆっくりと、何度でも再生してちょうだい。とても、とても大切なことだから。これからあなたに移植される生体義肢と生体義眼には、黄金錬成クリュソペイアの研究・解析データのすべてがチップとして埋め込まれているわ。セツ人の希望が、その腕と眼には宿っているの。希望、だなんて……おかしいわよね。十歳の子供にそんなものを託して、いったいどうするつもりだったのかしら。だけど、そんなことをして現実から目を背けなければならないほど、みんながみんな追い詰められていたの。だけど、あなたの前でだけは、カッコいい大人を装って、なんでもないフリをして、みんなで口裏を合わせて……〉

 沈黙。
 次に声がした時、距離が近くなっていた。

〈だけどね、私だけは本当のことを言うわ。フィン、今すぐ逃げて・・・・・・! 軍務なんてもう放棄して! あの人はきっと、守るべきものを庇って、軍人として死ぬことが、あなたにとっての救いになると考えている。私も……本当のことを知るくらいなら、そっちのほうがまだマシだろうかと思っていた。でも……あなたは「もうやだよ」と弱音を吐いた。いいのよ! できれば、母に対して直接言ってほしかったけれど、あなたは我慢強い子だから、きっと言えなかったのよね。何にも言ってくれなくて、母は辛かったけれど、あなたはもっと辛かったのよね。だけど――心を殺す理由に、母を使っちゃだめ。なぜなら、母はもう、いないんだから!〉

 呼吸が止まった。
 ははうえは、いま、なんといった?

〈脱出作戦、といったわね。より正確に言うなら、あなたひとりを脱出させるためだけに、残存人類すべてを囮にする、陽動作戦よ。あなたとアバツ連隊の出立直後に、カイン人はここを強襲してくる。これは確定事項。あなたがこのメッセージを聴くころには、母はもう、この世にいないの。守るべき人なんて、もういないのよ!〉

 肺腑が震えて、止まらなかった。丹田から虚無が広がって行って、体内を食い潰してゆくようだった。
 だって。だってそれは。

〈ぜんぶぜんぶ、カイン人に殺されてしまうわ! 私たちが営んだ暮らしも、抱いた想いも、ささやかな願いも、あなたを愛するこの気持ちさえも、なにもかも……! ひどい……ひどいよ……怖いわ……!〉

 元の世界に帰ったら、ははうえに会いに行こうって。
 かわいい編みぐるみをプレゼントしようって。
 ずっとずっと、そう思って。

〈きっと私は、目を覚ましたあなたとアバツを、完璧な笑顔で見送るのでしょう。いってらっしゃい。神のご加護を……なんて言いながら、あなたとアバツにキスをして、早く帰ってきてね、待ってるわ……そんなウソを最後に、あなたたちと永遠のお別れをするの……っ! そんなの、ないよ……! あんまりよ……!〉

 声を上げて、ははうえが泣いている。
 それだけは、阻止したかったのに。笑っていて、ほしかったのに。

〈……ごめんなさい。あなたを元気づけてあげたかったのに。ひとりぼっちで苦しんでいるだろうあなたを、慰めたかったのに。母親失格ね、わたし〉

 そんなこと、ない。ぜったいぜったい、そんなことない。
 今でも思い出せる。最後の出撃を見送る、ははうえの輝く笑顔を。
 ほんとうは、心の中で泣いていたのに、フィンが不審がらないために、フィンを逃がすために。
 どれほど苦しかっただろう。どれほど怖かっただろう。どれほど悲しかっただろう。

〈だからこれは、母の最後のお願いです。生きて、フィン。自分のために。責務なんてもう無意味なの。存在しないの。だから、お願い。逃げて。カイン人に戦いなんて挑んでは駄目。逃げて、逃げて、逃げ続ければ、ひょっとしたら世界のどこかに、カイン人の汚染に沈んでいない場所があるかも知れない。そこで一分でも、一秒でも長く生き延びて。母が生きたかった一秒を、あなたが噛み締めて……!〉
「ははうえ……ははうえ、ははうえぇ……っ!」
〈かわいいフィン。私の天使。母はあなたを愛しているわ。たとえ何が起ころうと。世界が滅びようと。永遠に、愛しているわ。……これで本当に、さようなら。母は、このメッセージが届かないことを祈っています。だけど、届いてほしいと焦がれています。どうすればいいのか。何をすればあなたの救いになるのか、私にはわからなかった。だから、わがままを通します。さよなら、フィン。さよなら〉
「あ……あ……あ、あ……待って、待ってははうえ……!」

 ロザリオを両手で持つ。まるですがりつくように。
 だけどもう、〈カビタス〉の翅は何の音も紡がなくて。
 ははうえはもう、この世にいなくて。
 フィンはひとりぼっちで、取り残されて。
 心が、ひび割れる音がして。

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