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【わたくしといふ現象は何だ】(小さなキロク)心象スケッチⅠ~Ⅴ

カンナさんの以下の企画に参加させて頂きますね(^^♪


宮沢賢治さんの「わたくしという現象」という表現は、気取りや奇をてらったものではなく、自分が「私である」と感じるその感覚がどのように出来上がっているか、その自我・自意識の現象を指しているそうです。


「わたくしといふ現象」について、この宮沢賢治さんのフレームワークと

自身の活動(記事の投稿内容)における「感情」や「判断」の揺れを重ね合わせることで、「わたし」にとっての「わたくしといふ現象」を呼び覚まされる状況(揺れ)は、こんな感じでしょうか。


現象 = 知的情報処理ネットワーク:

「わたし」の「現象」は、仮定された知的情報処理ネットワークの、ひとつの明滅するノードである。

賢治さんの「有機交流電燈」が風景や他者と交流するように、「わたし」の自己は書籍、音楽、美術、科学といった外部の情報源から絶えずエネルギー(データ)を摂取し、それを内部で処理・再構築することで「照明」として輝く。


透明な幽霊 = 摂取された知の断片:

「わたし」にとっての「あらゆる透明な幽霊の複合体」とは、これまでに読んだ無数の本の一節、聴いた楽曲のメロディ、鑑賞した絵画の色彩、そして日々の思索から生まれた言葉の断片である。

それらは個々としては「透明」で見えにくいが、複合体として統合されることで「わたし」というユニークな「経験知」が形成される。


青と赤の明滅:

賢治さんの照明が「青い」のに対し、「わたし」の照明は二色に明滅する。

一つは、科学や哲学、情報論を冷静に分析する際の経験知の「青」。

もう一つは、ペンネームとの関連性から「Rouge Trafalgar」が象徴する、音楽への情熱や「空想日記」等で展開される創造性の「赤」である。

この青と赤の「せはしくせはしく明滅」して行く点が、「わたし」の活動のダイナミズムを生み出している。


電燈は失はれ、テクストはたもたれる:

賢治さんの詩句「ひかりはたもち その電燈は失はれ」は、「わたし」の場合、「テクストはたもたれ その書き手は失はれ」と読み替えられるかもしれない。

日々の思考や感情という生身の「書き手」は流転し消えていくが、note上に編まれた「テクスト」としての自己は、光のように残り続ける。

それは、自己を永続的な記録として外部化しようとする、現代的な営みと言えるかもしれない。


さて、そんな「揺れ」が感じられた意識にフォーカスし、賢治さんに倣って、心象スケッチを創作してみました(^^♪


■心象スケッチ I:テクストの織工

わたくしといふ現象は
夜ごとキーボードを叩いて
自分といふ名のテクストを編む
ただひとりの織工です
(経糸は事実 緯糸は解釈)
きのふのわたくしは修正され
あすのわたくしはまだ空白のカーソル
一行書き加へるごとに
風景は意味を変へ
過去さへもが再定義される
それは他者に読まれるための物語であり
同時に
自分自身を説得するための呪文です
わたくしは作者ではなく
永遠に完成しないその稿本です


■心象スケッチ II:ルージュ・トラファルガー

わたくしといふ現象は
Diorの店先で不意に香る
赤い果実の衝撃です
(ラズベリーの酸味とパチュリの影)
知性の青いインクで書かれた設計図のうへに
まるで偶然のやうにこぼされた
ひとしづくの鮮烈な赤
それは八〇年代のシンセポップの甘い感傷か
あるいはチェリーのやうな禁断の記憶か
論理の連鎖を断ち切つて
ただ感覚だけがたしかに存在する
その一瞬のきらめき
わたくしは香水瓶ではなく
揮発し拡散してゆく芳香そのものです


■心象スケッチ III:情報網の交点

わたくしといふ現象は
無数の光ファイバーが交錯する
網膜状の都市です
(データはひかり その経路はわたくし)
ボルヘスの図書館から流れこむテクストの奔流
クールベの描く肌の質感
コヒーレンスのやうな量子論的眩暈
それらすべてがニューロンを駆けめぐり
せはしくせはしく明滅しながら
「コラム」といふ名の区画や
「空想日記」といふ名の広場を
いかにもたしかに構築しつづける
わたくしは都市そのものではなく
絶えず再編成される情報の交通です


■心象スケッチ IV:偶然性の宇宙

わたくしといふ現象は
シュレーディンガーの猫がひそむ
思考実験の箱です
(観測されるまでわたくしは重ね合はせ)
身体といふ内なる宇宙で
いくつものパラレルワールドが分岐してゐる
数学者になるわたくし
音楽家になるわたくし
航海士になるわたくし
それらはすべて等しい確率で存在し
noteといふ観測装置を覗きこむたび
ひとつの世界が仮に選ばれる
わたくしはひとつの確定した私ではなく
あらゆる可能性のゆらぎそのものです


■心象スケッチ V:非対称な鏡

わたくしといふ現象は
左右で映すものが異なる
一枚の非対称な鏡です
(ひかりは屈折し 像は歪む)
右半分は世界をあるがままに写さうと
あくまでも透明なガラスをめざし
左半分は世界を好みの色に染めあげようと
あらかじめフィルタアをかけてゐる
冷静な分析と熱っぽい独白が
継ぎ目のない一枚の平面に共存し
見るものはその矛盾に戸惑ふでせう
わたくしは鏡に映る像ではなく
その奇妙な継ぎ目そのもの
決して交はらない二つの世界の界面です


▶参考資料:<わたくし>という現象-「社会と個人」問題の一つの展開-

現象学において「私という現象」は、主観が世界をどのように経験し、意味づけるか、その「自覚のプロセス」そのものを指します。

具体的には、「私という現象」を研究する際、まずフッサール現象学の「エポケー(判断中止)」と「現象学的還元」を通じて、外部の事実に関する前提や判断をいったん保留します。

そして、意識に現れる現象そのものを観察し、自己の「自我」や「意識」がどのように形成されるのか、そのあり方を明らかにしていきます。


▶参考記事:【ディオール】ルージュ トラファルガー(フランソワ・ドゥマシー)


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