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【連載小説】記憶の星暦盤 第一話「氷の城」

終戦直後、信州の天文台。そこで再会した二人の学者の友情は、やがて「記憶を喰らう盤」によって揺らぐ。「記憶の星暦盤」序章に続き、第一話「氷の城」を公開します。



終戦後、信濃の山あいに白亜の天文台が建てられた。
雪に沈む谷間で、その建物だけが星の光を吸い込み、夜ごと氷の城のように浮かび上がっていた。

相馬輝朗そうまてるあき水沢敦史みずさわあつしは、同じ年の冬、教授たちと共にその天文台へ配属された。
二人は東京の大学時代からの親友で、同じ研究室の机をはさみ、顔を合わせない日のほうが珍しかった。

食べ飽きた学食の皿を前に、未来の論文名や望遠鏡の口径で夢を競い合った仲だった。
どちらが先に新しい変光星を報告できるか賭け合った夜もあったし、望遠鏡の足場で凍えながら「星が落ちてくる音」を録ろうと、本気で語り合ったこともある。

活発な輝朗とは対照的に、敦史は色白で痩せ型、ひとたび咳をすれば長引く体質だった。
だが彼は、身体の弱さを補うほど研究熱心で、仲間を支えるだけの頼もしさを秘めていた。


しかし戦火は、二人を引き裂いた。

輝朗は徴兵され、上海に降り立ったのち、大陸戦線の泥濘へと送り込まれた。
泥濘と飢えと炎の中で仲間を失い、自分自身も幾度も死に損ねた。

生還して戻った彼の眼差しには、冬の星座の輝きを思わせる冷ややかさが宿っていた。

敦史は病弱を理由に兵役を免れ、大学に残って研究を続けていた。
帰還した輝朗が研究室の戸を押し開けたとき、敦史は堪えきれず泣き、子どものように親友の肩を叩いた。

「よく戻ってきてくれた。お前が戻らなければ、俺は自分を嫌いになるところだった」

「敦史……。元気でいたか? 変わりはなかったか?」

「ああ。お前が無事でいてくれて、本当に良かった」

敦史の言葉に、輝朗はほっとしたように微笑んだ。
その微笑みは柔らかかったが、疲労を覆い隠した仮面のようでもあり、瞳の奥には薄氷が張りつくような冷たさが潜んでいた。


二人が配属された谷の村では、天文台の若い学者は単なる理学士ではなく、「星を読む人」として迎えられた。

古くこの土地では、星を読む者は暦を作り、吉凶を告げると信じられていた。
医者も僧も遠い山村にあって、人々が頼れるのは空を覗く学者だった。

吹雪の夜、氷の城に赤い燈火が灯るたび、村人は不安を抱えて戸を叩いた。
特に輝朗は、天候の行方から家の不安ごとまで、どんな相談にも真摯に応じていた。

だが敦史は、相談に応じる彼の左手に握られた黒ずんだ金属盤を見て、胸の奥を冷たくする感覚を覚えた。
掌に収まるほどの円盤。盤面には星座を結ぶ細い線が刻まれ、裏には虫の這うような古文が彫られている。

「輝朗……その盤は何だ」

「これか? 上海で手に入れた。記憶と運命を映す盤らしい」

「お前は占術など信じなかったじゃないか……」

「退却の混乱で、ある老翁がくれた。戦地の土産みたいなものだ」

その声は、白い息よりも乾いていた。


その冬最初の吹雪の夜、天文台の重い扉が叩かれた。

現れたのは頬骨の尖った農夫で、戦場で片足を負傷した彼を、妻が支えるように寄り添っていた。

「先生……助けてください。冬の長い夜は、特に戦場の夢にうなされて、眠れやしません」

輝朗は観測帳を閉じ、棚から例の盤を取り出した。
燈火に照らされた刻印が、心臓の鼓動のように微かに脈打つ。

「戦場の記憶ですか。私もわかります……。ならば、その記憶を獣に喰わせましょう」

「……獣?」

「心配はいりません。目覚めれば、苦しみは消えているでしょう」

その夜、農夫の夢に黒煙を纏う獣が現れたという。
泥濘、砲煙、耳を裂く叫び――それらを獣は噛み砕き、喉奥へと呑み込んだ。

翌朝、農夫は足を引きずりながらも、晴れやかな顔で訪ねてきた。

「先生。あの光景を忘れることができたんです! 一度も目を覚まさず眠れたのは何年ぶりか……」

礼を述べる彼の目の底には、静かな湖のような空白が漂っていた。
彷徨う視線に、どこか落ち着きがない。

心配になり、敦史はふと尋ねた。

「あの……奥様は、今はどちらに?」

農夫は首を傾げ、少し笑った。

「俺に、妻なんかいたかねえ……。どうも、この頃は記憶が曖昧で」

その瞬間、盤の縁が小さく鳴ったように感じられた。
輝朗は確信を得たように頷き、敦史は思わず目を逸らした。

遠雷が尾を引き、霙は次第に雪へと変わりつつあった。

窓の外を見つめながら、敦史は低い声で問いかけた。

「その盤を……学会に見せる気はあるのか」

「ない。学会は証拠を求める。これは証拠ではなく、“結果そのもの”を示す。学者には到底扱えぬ領域だ」

「……だが敦史。お前なら、この呪式が理解できるはずだ」

「俺には……必要ないものだ」

「そう。この盤を扱うのは、俺一人で十分だ」

輝朗は再び相談者の記録帳に視線を戻した。
敦史は、言葉の膜を剥がされたような不安に身を震わせた。

盤は掌に触れるだけでなく、部屋の空気をも凍らせるように、深い闇の匂いを漂わせていた。

「輝朗……お前は、人の記憶を弄んで、何をしようとしている?」

ようやく窓から目を外した敦史は、まっすぐな眼差しを親友に向けた。

「つらい記憶を消すことだ。怨みも悔恨も、戦の傷も――すべてを無かったことにする。それが人間にとって、最も正しい救いだと思わないか」

「……だが、人には失いたくない過去の記憶もある」

「ここへ来る者は、つらい過去に縛られている。だからわざわざ足を運ぶんだ。記憶が消えれば、惑わされずに済む」

敦史は返す言葉を失った。

輝朗の横顔は石像のように美しく、瞳に動きはなかった。
灯の赤を浴びても影ばかりが濃くなり、その微笑は、氷と闇を宿す悪魔のように見えた。

第二話「夢に現れた獣」に続く

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