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【連載小説】記憶の星暦盤 序章「上海ー星暦盤の邂逅」

――星を読む者は、いつか獣を見る。

戦場から戻った若き理学士・相馬輝朗そうまてるあき
彼が上海で出会ったのは、人の記憶と運命を喰らう「星暦盤せいれきばん」だった。
白と黒が混じり合う予兆のなか、彼の友情と未来を試す物語が始まる



相馬輝朗が上海に降り立ったのは、学位のためでも、任地の栄転のためでもない。
徴兵を経て復員の途上、流れ着いた港には、遠雷のような砲声の残響と、人心のざわめき、そして香と油の匂いが渦を巻いていた。

夏の終わり、黄濁した河は重く流れ、英字と漢字の看板が肩を寄せ、露店の赤い幌が海風に震えている。
敗戦の影はまだ語られぬままに、人々の顔に刻まれていた。

夜、宿の小窓から覗く星は、見慣れた配列のはずだった。
だが、どこかで一つがずれているように思えた。

――戦場で、自分はいくつかの星を失ったのだろうか。

そう考えた途端、胸の奥に冷たいものが忍び込んだ。


出航を翌日に控えた晩、輝朗は港の外れの裏路地に迷い込んだ。
雨上がりの石畳は煤けた灯を複写し、胡弓こきゅうの音が遠い波間に混じる。香炉の煙は白い糸となり、路地に絡みついていた。

その奥まった一隅、卓の前に老翁が坐していた。
衣は薄く、皺は砂漠の地図のように刻まれ、乾いた眼差しには風化した鉱石のような光があった。

卓上には掌ほどの円盤が一枚置かれていた。
黒檀に似た材に細い刻線がめぐり、外周には西洋の十二宮、内側には東方の二十八宿が重なり合う。
中心の米粒ほどの水晶が淡く脈を打ち、灯の明滅に呼応して呼吸をしているようだった。

輝朗が盤を見つめていると、老翁が声をかけた。

「ほぅ……星が読めるのか」

日本語とも中国語ともつかぬ響きだった。

「待っていたぞ」

輝朗は肩をすくめた。軍籍を示す札は外したはずだが、匂いはまだ残っているのか。

「私は……ただの理学士です。占術は何もわかりません」

「それでじゅうぶんだ。星は学問も祈りも選ばぬ」

視線を円盤に落とすと、刻線が小舟のように揺らめき、逆波に揉まれるかのように力が行き来していた。
指先が勝手に伸び、触れた瞬間、掌に氷刃の冷たさが走る。

「それは星暦盤という。東と西が交わる場所でのみ目覚める」

「……用途は?」

「記憶と運命を映す。いや――喰うこともある」

老翁の笑いは、乾いた紙を擦るように細かった。

「人は軽さを望む。だが、記憶は重い。だから星は、それを喰うのだ」

輝朗は懐から銀貨を差し出した。復員の途上で残った最後の財だった。
老翁は数も確かめず頷き、円盤を布に包んで差し出した。

「約束しよう。星を読む者はいつか、獣を見る」

「獣……?」

「白き虎は西を守る。だが黒き影は記憶を守らぬ。寒冷の地には、白と黒が混じるのだ」


老翁は、ふと声を低めた。

「急げ。お前の船は予定より早く出るぞ。立ち止まれば、二度と帰れぬぞ」

「私は操縦補佐を務める身です。私が帰らぬうちは……」

「これを持ってすぐ港に向かえ。干物もビンもある。少しは凌げるだろう」

老人は複数の麻袋を差し出した。

「外を制するより、内を支配できる者こそが真の勝者だ」

その言葉の響きに、返すべき声を探した。
だが、輝朗が顔を上げた時には、老翁の姿はすでに掻き消えていた。
卓も灯も、まるで潮に攫われた幻影のように跡形もなく無くなっていた。
残されたのは冷えた石畳と、雨に溶ける胡弓の余韻だけだった。

ふと鼻腔をかすめたのは、焦げた匂い。
――街のどこかで火が近づいているのかもしれない。

闇の奥で赤いものが揺らめいた気がして、輝朗は麻袋を胸に抱きしめた。


港に向かうと、船が出発しようとしていた。

「すぐに日本に戻るぞ!」

指揮官に腕を取られ、輝朗は船に乗った。

「出発は明日だったはずだ……いったい」

まるで見てきた出来事のように、老翁が告げた未来が待ち受けていた。

窓外の星は、さきほどより近く見えた。
円盤の中心の水晶が脈打ち、耳の奥には遠い潮騒のような、獣の呼気のような低音が響いている。

眠りに落ちる前、彼は夢を見た。

雪原を横切る大きな虎の影。
白であるはずの毛並みは煤に覆われ、光を吸い込んでいた。
振り向かぬその足跡が、星々を踏み砕き、凍てつく川面へと消えていく。

目覚めても夢の匂いは残っていた。
鉄と冷水の匂い。

円盤の冷たさは胸の奥に根を下ろし、外気を測る器官のように、彼の歩みに針を差し込んだ。

――日本に戻ったら、星を見よう。

そう言い聞かせる声は、かつてより静かで、どこか冷えていた。
彼はまだ知らない。
氷の城と呼ばれる天文台で、この盤がどんな音を響かせるのかを。

波は規則正しく船腹を叩き、夜明けの光が空を染め始める。
水晶はかすかに脈を打った。

まるで、遠い雪の気配を、すでに知っているかのように――。

第一話「氷の城」に続く

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