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【連載小説】記憶の星暦盤 第六話「記憶を差し出す者」

輝朗てるあきの選んだ道に、敦史あつしは祈るような想いで手を伸ばす――。敦史は輝朗を救う最後の道を選んだ。



敦史は天文台を背にして坂を下っていた。
氷を噛む風が頬を切り、靴底の下で雪がぎしりと鳴る。白い息は夜気にほどけ、たちまち闇に呑まれた。

振り返れば、頂に建つ天文台の窓に赤い灯が揺れている。
かつて憧憬だった灯は、いま胸の奥で空洞を広げるばかりだった。

敦史は、初めてこの館に来た日を思い出していた。
星を記録し、論文の題を夢のように並べた。わずかに輝朗の瞳に希望の光が宿ったのを見た。

しかし今の輝朗は、記憶を奪い、人の心を空にしてなお「救い」と言う。
彼は悪魔に堕ちたのかと絶望した日々だった。

――だが、違った。
彼は、夢の獣に寄り添わされている「器」を無理に演じていた。

もし自分が決別を告げれば、輝朗は自分を逃がすだろう。
だがその先で、彼は夢の獣とともに、自分ごと消えようとするはずだ。

――だったら、俺がここで終わらせる。

彼を救えるのなら、自分の命も記憶も惜しくはない。
その決心は、ずっと前から敦史の胸の底に置いてあった。


敦史は、密かに持ち出した盤を取り出した。
輝朗の眠りが深くなっている間に、箱の鍵を少しずつ緩めていた。

盤の呪式をなぞる。
鉛の冷たさが皮膚に吸い付く。盤面に刻まれた星の線刻――今夜、この谷を渡る星の順列に指を合わせ、薄い声で呪式を唱える。星を読む者にのみ開く扉。

その瞬間、一瞬吹雪が舞い、風の縁で声が砕けた。

――敦史さん――

振り向く。
吹雪が切れ、闇の向こうに白い影が立っていた。

「……葉子?」

細身のコートに白いワンピース。腰まで届きそうな黒髪が雪を散らし、青白い光を抱く。
見紛うはずもない、恋人の姿だった。

――あなたを待っていたの――

澄んだ声が冬の夜を切り裂く。
だが半歩手前で、敦史の足は止まった。

吐息は白く立ちのぼるのに、その白が夜に溶けない。
優しげに微笑む瞳の奥に、氷の結晶のような無色の光――温もりが欠けていた。

「……君は、東京にいるはずだ」

葉子は微笑みながら一歩近づく。
雪を踏む音が近づくたび、背に冷気が這い上がった。

――忘れないで。私はいつでも、あなたのそばにいる――

「姿を見せたな。お前が輝朗に憑いている獣か」

その言葉が合図だった。

胸もとがわずかに膨らみ、布が裂ける。白い裂け目から煤をまぶした黒い毛がざわりと噴き出した。骨が軋み、肩がせり上がる。巨大な虎のようなかたちを成し、指先は鉤爪へ変じ、口元は耳の根まで裂けた。

鉄錆の匂いが吹雪に混じり、耳を刺す金属音の唸りが雪片を逆巻かせた。
世界全体が、薄い血の膜を被ったみたいに赤く歪む。

――呪式が使えるのか。なぜ私を呼び出した?――

敦史は一歩も退かなかった。凍る唇を開く。

「輝朗を解放しろ。器が必要なら、俺に取り憑け」

――お前に、何ができる――

低い声が、地の底から響いた。

「俺は星暦盤を調べた。この呪式は星の配列を読める者にしか開かない。そしてお前は呪式で呼び出され、器がいないと、人の夢にしか移動できない。自由自在に人の心へ潜ることはできないはずだ」

獣の怒りの唸りが谷を震わせ、木々がきしむ。
敦史は怯まず続けた。

「知ったのはそれだけじゃない。俺は、残り二つの呪式を解明した」

――残りだと?――

「呪式は四つあるはずだ。輝朗が使った開始の啓明式けいめいしき、呼び出しの顕現式けんげんしき。そして、残り二つは崩滅式ほうめつしき永封式えいふうしきがある」

獣の怒気が地を揺らす。

「星暦盤があっても、お前は星並びや方位に縫い留められている。違うか」

――……貴様。他に、何を知った?――

「知りたいなら条件がある」

敦史の声は冷たく、その瞳は決して逸らさなかった。

「お前が宿る器となる人間は一人のはずだ。輝朗を解放し、俺を器としろ。俺の解明した呪式が正しいか知りたいのなら、俺の記憶を喰うしか方法はないはずだ」

敦史は息をつく。

「……相談者たちの証言でも知っている。人への想いの記憶から先に喰らうのだろう。その時間を、今からお前にくれてやるぞ」

――人間ごときが私に取引を持ちかけるか。愚かなことだ。だが……お前のその言葉は偽りではない――

黒い獣が呻き、体が大地を揺らすほどにうねった。雪煙が巻き上がり、瞬きの間に影が飛びかかる。鉤爪が胸を抉り、焼ける鉄のような熱が肌を裂いた。

刹那、胸の奥から何かが剝ぎ取られた。

白に視界が開き、過去が走馬灯の速度で流れ出す。研究室の灯。夜更けの屋上。輝朗の笑い声。恋人の手の温もり。雪解けの小さな花。

それらがひとつずつ暗闇に呑まれ、音も色も匂いも消えようとしていた。

声は雪に埋もれ、涙は氷に閉じ込められた。
やがて瞳から光が抜け、空洞だけが残るような感覚に陥る。

獣は彼の背に入り込み、血と硝煙の匂いとともに溶けた。

風が止み、足跡は吹雪に均された。
あったはずの声は、音のない氷の下に沈む。


夜更け、山上の天文台で赤い灯がまたたいた。
扉が音もなく開き、無表情の敦史が入ってくる。雪を払う仕草ひとつない。見えない糸で操られる人形のように、動きだけが正確だった。

観測室の奥、敦史の机でノートが開かれる。
そこは、かつて輝朗が「星図の死角」と呼んだ方位にあった。獣が干渉できぬ角度を、輝朗は知っていたのだろう。敦史を獣から守るために。

まるで、ここだけ結界が張られているかのように、一瞬だけ獣の気配が軽くなる。
紙の上に、細いペン先が静かに走る。

わずかな記憶……まだ、書ける。これは、まだ俺の手だ。
獣が盤の奥で呻くたび、意識が遠のいた。だが、そのわずかな隙に、まだ敦史の手の感覚は残っていた。

しかし、震える指で走らせた線は、すぐに滲み、獣が抗い、手の動きを阻む。
それでも角に刻んだ小さな印は、かろうじて消えずに残った。

ページを繰る指先が震える。最終頁に辿り着く。
そこには、既に輝朗へのメッセージが記されていた。

その下に、自分の筆跡で、数式と古文が交錯する奇妙な図を示す。星の印、結び目、封じの楔。

――四つ目の呪式「永封式」。

敦史は、その後に続くもう一つの式を今記す。
それだけは、未だ敦史でも完全には読み解けていなかった。だが、今ならわかる。命を代償にすれば、封じられる。

インクが滲み、震えが痕跡として残る。
線は獣を縫い止める楔であり、同時に器となった己をも焼き尽くす火種だ。

――時間を稼げ。

ペン先が止む。息が浅くなる。
獣が内側から、すべての記憶を擦り消そうとしている。

薄闇の中、ノートの角に小さな印を重ね、紙片を一枚、そっと折り込んだ。
そう、大切な「誰か」が見つけられるように。


そのとき、背後で足音がした。

「敦史! なぜ戻ってきたんだ!」

輝朗が駆け込んでくる。声の温度が部屋の空気をわずかに融かす。
懐かしい声を聴きながら、敦史はもはやその声を認識できずにいた。顔立ちは端正なまま硬質に凍り、目の奥に揺らぎが無くなっていた。

輝朗は肩に積もった雪を払い、その瞳の底に言葉にできない影を浮かべる。

「何があった、敦史。言え……言ってくれ!」

薄く開いた唇からも、もう白い息は零れなかった。
窓の外で、遠い野犬の遠吠えがこだまする。

ただ一つ、敦史の机上には鮮やかに残るノートに折り込まれた小さな紙片。
それは、封印の図式を解くための、もう一つの鍵。

灯が揺れ、紙片がかすかに鳴った。
この夜に刻まれた希望の種は、まだ誰にも気づかれていなかった。

輝朗は崩れた身体を抱き起こし、震える指で脈を探る。
いくつもの輝朗の涙が敦史の頬に落ちる。

「敦史! しっかりしてくれ。敦史!」

名を呼んだ声は、ひどく遠く、ひどく近い。

――カラン――

揺すった敦史の上着から盤が転がり、小さく音を立てた。
赤い灯はなお揺れ、星暦盤の裏で、細い赤い亀裂がひと呼吸ぶんだけ明滅した。

封印は、わずかに締まったのか。
それとも、別の扉が開いたのか。

答えはまだ、夜の底にあった。


第七話「獣に呑まれる星」に続く
※更新は毎週水曜日22:00頃を予定しております。

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