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【連載小説】記憶の星暦盤 第七話「獣に呑まれる星」

星暦盤が赤黒く脈打ち、観測室は獣の咆哮で満たされる。
友情と祈り、そして絶望が交錯する夜。運命は、ついに牙を剥いた。



観測室の空気は、墨を一滴ずつ垂らしたように濃く沈んでいった。
灯火の光は曇り、呼吸をするたびに肺へ湿った熱がまとわりつく。

やがて敦史あつしの上着から転がり落ちた星暦盤が、刻印を脈打たせた。
赤黒い光がじわりと滲み、床を這い、壁に掛かる星図を震わせる。窓外の冬星座さえも瞬きを乱し、観測室全体が呻き声を上げるように震えていた。

耳の奥では、盤の低い脈動が血管の鼓動と重なり、まるで世界の秩序が狂い始めたように思えた。
敦史は脈はあるが、無言のままぐったりとしている。

「敦史……その盤で、何をしたんだ」

輝朗てるあきが低く問いかけても、敦史は応じなかった。
彼の唇は微かに動くが、声にならない。代わりに、盤が呻いた。

――カタ……カタ……。

金属の軋むような音が響き、床下から氷を噛む風が吹き上げる。観測機器の金属が悲鳴のように軋み、刻まれた古文は赤い血管のように脈打った。影は蛇の群れのように天井を這い、霞が観測室を覆い尽くしていく。

輝朗は盤に手を伸ばした。
だが、指先が触れた瞬間、灼けるような熱に弾かれる。

その異様な光景の中で、輝朗の目には敦史の影が異様に歪んで映った。肩は獣のように盛り上がり、壁に伸びた影は鉤爪を備えた前足のように蠢いていた。

「敦史、お前……!」

名を呼んでも返事はない。錯覚ではない。友が獣へと変貌しつつある現実が、観測室を支配していた。
外では風が吠え、硝子が震える。かつて二人で見上げた星々は、いま血の色を帯びていた。

「獣よ! なぜ、敦史に取り憑いた!」

――今は、お前が器ではない――
地を這うような声が返る。

――奴が望んだのだ。お前を救うために――

「話が違うぞ! お前の器は俺のはずだ」

――奴は愚かなことをした。私を滅ぼす方法まで知ってしまった――

滅ぼす方法……?


輝朗が後ろに下がり、机に手をついたとき、敦史のノートが目に留まった。
そのページを一瞥した瞬間、彼はすべてを悟った。

震える指でページを繰る。見慣れた筆跡の隙間に、古文と星図を交錯させた線がある。
「崩滅式」と「永封式」。

輝朗自身も、獣を解き放つ方法があるなら、封印できる方法もあることは知っていた。
しかし、既に獣を取り込んだ後の自分には手が出せなかった。

さらに敦史の字は、何かの呪式を書きかけ、筆が止まっている。
敦史は命をかけて、自分を救おうとしていたのだ。そして自ら器に――。

事実を知った瞬間、心の奥で何かが崩れ、目頭が熱く滲んだ。

輝朗は冷ややかに言い放つ。

「敦史の記憶を喰らい尽くしたなら、彼はもう必要ないだろう。敦史の体力では器になっても、記憶を奪えない」

――なぜだ?――

「お前自身も、敦史の破壊式の記憶ごと喰らって弱っている。それに敦史は、お前を取り込めるほど身体が強くない。お前の望むようには動けまい」

獣の呻き声が揺れ、観測室の空気がひずむ。
怒りに震えながらも、獣の気が落ちているのが伝わってくる。

「お前の器として相応しいのは俺だ」

――私は人の夢の中で生きる者。多くの記憶を運ぶなら、どちらでも構わない――

「ならば戻れ! 俺がより多くの記憶を人から奪ってやる。明日は村人たちが訪ねてくる。お前は飢えているはずだろう」

一瞬の沈黙の後、敦史の胸から黒煙が噴き出した。
盤の奥から煤にまみれた巨躯が這い出し、観測室全体が震動する。壁に掛けられた星図は裂けんばかりに震え、天井が唸りを上げた。

獣は首を巡らせ、輝朗を射抜く。
その眼差しは、死んだ星々の骸のように冷たく輝いていた。


幼い夜、縁側で母と見上げた一番星。
大学の屋上で、敦史の肩に眠気を預けた夜明け。戦地の灼熱、弾丸の唸り、死を数えた指先。恋人が空襲で亡くなったという報せ。復員列車の窓外を流れ去る、名もなき背中の群れ。
そして、氷の城で盤を撫でた、自分自身の指。

ひとつひとつの思い出が脈打ち、胸を抉った。胸腔が裂けるかのような痛みの中、最後に響いたのは鮮やかな声だった。

「輝朗、必ず生きて帰ってこい」

あの日、研究室の窓辺で夕日を背に、敦史がそう言った。
頬に赤い光が射し、笑いながらも涙をこらえていた。

戦地にいる間も、その言葉が支えだった。砲弾の轟く夜、血の匂いに紛れて星を思い出したのは一度だけ。だがその一度が、輝朗の心を繋ぎ止めた。

敦史は身体が弱くとも、誰よりも心が強かった。
そして後に知った。敦史が自分の守袋に小さな隕石と薬を忍ばせ、輝朗の荷へとそっと紛れ込ませていたことを。

小さな星の欠片を握りしめるたび、生きる希望を持てた。命綱と呼べるほどの薬のおかげで、生き抜くことができた。

人から奪うことしかしなかった自分とは違い、敦史は常に与える人間だった。
敦史こそが、自分にとって星だ。――希望の星だった。

輝朗は唇を噛んだ。血が滲み、鉄の味が舌に広がる。

「……そうだな。お前は最期まで、俺を見捨てないやつだった」

天井から雪のような灰が降り始めた。砕けた氷片、割れたガラス、封印の粉塵。
その中で、輝朗の声だけが澄んで響いた。

「敦史。お前が命を懸けて守ろうとしたものを、俺が終わらせる」

輝朗は、自分が器になるための呪式をなぞる。
床の塵が風に舞い上がり、赤黒い渦へ吸い込まれていく。

輝朗は歯を食いしばり、両手を盤に押し当てた。

「お前が欲しているのは無数の記憶だろう。俺の記憶も欲しいなら差し出すぞ。さあ、奪えるものはすべて持っていけ! その代わり、俺がお前の器だ」

獣の咆哮が観測室を裂いた。壁が震え、床の亀裂から赤黒い光が噴き出す。盤が唸り、観測機器の針が一斉に止まった。
世界が一瞬、呼吸を止める。

「輝朗……」

かすかに敦史の声が混じった。
それは助けを求めるものか、制止するものか、判然としなかった。

だが輝朗は理解していた。
獣を完全に滅ぼせば、人々の記憶は還る。それが敦史の望みであり、自ら選んだ犠牲の意味だった。

――お前が遺した永封式。最後は俺が打つ。

輝朗の胸を、氷と火が同時に貫いた。意識が砕ける寸前、黒煙の奥から一瞬だけ人の瞳が覗く。その瞳には、涙に似た光が宿っていた。

「敦史。お前を救うためなら、俺は何も惜しくない」

その叫びは赤い渦に呑まれ、観測室のすべてが白い閃光に塗りつぶされた。
音が消え、光が去ったあと、残ったのは――二人がかつて語り合った夜空のような、深い静寂だけだった。


ぼんやりとした視界の中、敦史が床に倒れているのが見えた。
輝朗は椅子の上着をかける。

獣が自分に移ったことを確かめ、机に散らばったノートを掴んだ。
走り書きされた敦史の文字が、赤黒い光に照らされる。

「破壊式……そして、永封式――」

ページの端に刻まれた印を指でなぞる。
敦史が自らの命をかけて書いた楔に、わずかに輝朗の血が滲んだ。


第八話「白光と黒影」に続く
※更新は毎週水曜日22:00頃を予定しております。

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