【連載小説】記憶の星暦盤 第八話「白光と黒影」
敦史の残した呪式。輝朗は盤を抱きしめ、獣を共に滅ぼそうとする。炎の中で残した最期の言葉とはーー。
肩で息をしながら、輝朗は立ち尽くしていた。
床に倒れる敦史の胸がかすかに上下しているのを見て、少し安堵する。だが、その安堵はすぐ痛みに変わった。
今、自身の胸の奥では、再び獣が戻り、あの忌まわしい鼓動が確かに息づいていた。観測室に渦巻く気配は、嵐の前の静けさに似ている。
輝朗は震える指で敦史のノートを開いた。そこには、二人が学生時代に拾い集め、解読しかけて放置していた断片が並んでいる。
望遠鏡の足場で凍えながら笑い合った夜。吐く息を白く重ね、星を眺めた夜。
最終頁には、敦史が輝朗のために記した二つの呪式があった。
獣を破壊するための崩滅式と、封印するための永封式。
そして、その行間の余白に、誰も知らぬ印が刻まれていた。
まるで、まだ名を持たぬ“終焉の術”が、そこに眠っているかのように。
「崩滅式」と「永封式」――忘却を拒む楔。
水に生きる獣を封じる、火の呪式。
ここに配属されてから、敦史は夜更けに一人で理を繕い、輝朗に告げることなく、その“終焉の印”まで描き上げようとしていた。最終頁の筆跡には、震える祈りが宿っている。
読み返すほどに、輝朗の胸は熱くなり、そして苦しく締め付けられた。敦史は自ら器となり、輝朗に破壊と封印を託したのだ。
「それは……俺の役目だ。敦史」
輝朗は低く呟き、ノートに記された崩滅式の符を指でなぞった。
瞬間、観測室の空気が裂けるように歪んだ。
重力が反転したように体がふわりと浮き、観測室はひとつの巨大な心臓のように鼓動する。そこに確かに“何か”がいた。目ではなく、皮膚がその存在を見ていた。
――貴様! 何をした――
獣が呻く。地の底から這い出すような叫び。
輝朗は応えず、盤の上に手を重ねた。赤黒い光が爆ぜ、床下の金属が悲鳴のように軋む。敦史の記憶に刻まれた崩滅式――そして今、同じ呪式を輝朗が放った。
二度の破壊の呪式を喰らった獣は、獣の姿を成すこともままならず、ただ黒い影の塊と化し始めた。
――馬鹿な真似はやめろ。お前共々、燃え尽きるぞ――
その声は深淵の底から響く嘲笑だった。
「それでいい」
輝朗は叫ぶ。
「器になった時から、とっくに覚悟はできている」
震える指先で最後の呪式――永封式を描き切る。
盤を抱え、離れた暖炉の前へ歩み寄った。
炎が静かに揺れ、そこだけが異界への門のように赤く輝いていた。
「輝朗……」
床に倒れ伏す敦史が、うわごとのように微かに呻く。
その瞳は虚ろで、現実を映してはいない。
輝朗は敦史の肩にそっと手を添えた。
その温もりは、かつて大学の屋上で夜明けを迎えたときと同じだった。
「敦史。お前が残した呪式、確かに受け取った。もうこれ以上、お前に背負わせはしない」
星暦盤が暖炉に投じられた瞬間、燃え盛る炎が悲鳴を上げたように爆ぜ、赤黒い光が周囲を満たした。盤に刻まれた古文は火花を散らしながら宙へ舞い、獣の咆哮が轟く。
――愚か者が! 記憶の消失はお前を救うはずだった――
「記憶は、奪うものじゃない……与えるものだ」
輝朗の声が白い炎に呑まれた。胸を貫く痛みは烈火のようで、黒い鬣が身体の中を逆巻く。視界の星々が砕け散り、世界が白い閃光に染まる中、それでも輝朗は抗った。敦史を守るために。
倒れた敦史の名を、心の中で呼ぶ。
その名を、決して忘れないために。
炎の中の盤とともに、輝朗の鼓動は徐々に弱まっていった。吐く息は白く、やがて霧となり、輪郭が薄れていく。
「敦史。お前こそ幸せな記憶とともに生きろ。お前の記憶は俺が守る」
その呟きは宙に溶け、静寂が訪れた。
白煙の中で、「コトン」と音がした。
光でも声でもない。敦史が戦地に向かう輝朗の守り袋に忍ばせた、小さな隕石だった。
ただ、あの日の夕陽の匂いがした。
敦史は震える手を伸ばし、石をそっと握りしめ、目を閉じた。
輝朗が最期に敦史の身体の下へそっと忍ばせたノート。
その最後の頁には、敦史が輝朗へ宛てた文字が残されていた。
――――――――――――――――
輝朗
俺はお前を救うため、盤が描く星を研究してきた。夢の獣は、器となる者しか制御できない。記憶を失う前、最後に夢に現れるのは、その者を最も深く案ずる者だ。
もし俺がお前を止められなかったら、俺が獣の器になる。そのときは俺を殺して構わない。
呪式は四つ。開始の啓明式《けいめいしき》、呼び出しの顕現式《げんげんしき》、獣を破壊する崩滅式、そして封印の永封式。破壊と封印の呪式は獣を消す。だが、もしそれでも盤の脈を止められないなら、“その余白に刻んだもの”が最後の鍵となる。
輝朗、どうかこれからは、幸せな記憶とともに生きてほしい。
――――――――――――――――
扉の隙間から吹き込む風が敦史の髪を撫で、観測室には嵐の後のような静寂が降りた。
夜明けが近づく頃、灰の中で誰かの名が風に溶けた。
その静寂を破るように、黒影と靴音が近づいてくる。
扉が軋み、夜風が暖炉の残り火を揺らした。
敦史を見下ろした男は、低く湿った声で呟いた。
「どちらかの破滅を望んではいたが、ずいぶん時間がかかったなぁ、水沢よ。まあ、共倒れしたのは俺には好都合だったがな」
暖炉の前に立つのは、失踪したはずの助教授・野口だった。焼けただれた頬が火に照らされ、深い影を刻む。そこに宿るのは、学者の理性ではない。信仰にも似た狂気だった。
灰が沈黙を纏い、時間がひと息だけ止まった。
――あの夜。野口が観測室で輝朗と対峙したときのことは、今も骨の内側に焼き付いている。静かに記録を付ける輝朗は、静かな光に包まれていた。その無表情こそが、野口を苛立たせた。
星暦盤のことを突いても動じない輝朗に、野口は嗤うように言った。
「そうだ。水沢には俺から伝えてやろう。こんな呪具などを持つお前を、正義感の強いあいつはどう思うだろう?」
脅しのつもりだった。だが輝朗は微動だにせず、机の上に盤を押し出した。
「構いません。それに、望むなら、これは差し上げます」
その声音に虚勢の影はない。ただ、静かな覚悟だけがあった。
震える唇で、野口は聞いた。
「相馬。お前は、人の記憶を奪い、この盤をどう使うつもりだった?」
「この盤は本来の目的を、人の欲でねじ曲げられました。いずれ、人々の記憶を返し、本来の盤に戻します」
「なんだと!? 救済のためだというのか?」
「はい。この盤は記憶を奪う“器”をずっと探し続けていた。しかし今、自分が器であるうちは、内側から終わらせる道があるはずです」
揺らぐべきところで、まったく揺れない。
それが野口には何より癪だった。
「……この巨大な力が、恐ろしくはないのか?」
輝朗はほんの一瞬、目を伏せた。
そのわずかな影が、野口の心を妙に掴んだ。
「怖くないわけではありません。しかし選ばれてしまった以上……誰かが止めなければならない。そう思っています」
その言葉こそが、野口の胸にとどめを刺した。
選ばれた……誰か……だと?
いつも自分ではない“誰か”が光を担う。その当然の構図が、憎くて堪らなかった。
野口は暖炉の前に膝をつき、崩れかけた灰の中に手を差し入れる。
黒い欠片が指に触れた。
ひしゃげた盤を拾い上げると、盤はまだ、かすかに脈打っていた。
「ふん。この盤の鉛を修復する必要はありそうだな」
あの夜の光も、あの言葉も、まだ消えてはいない。
野口は奥歯を噛みしめ、低く呟く。
「奪うことでしか、光は得られない。お前たちが掲げた理想など、灰に還るがいい!」
震えと嘲笑が、同時に野口を襲った。
「星は、俺を選んだ」
その呟きは、獣の残響が人の声を借りているようだった。
野口の唇がゆっくりと歪む。
「相馬の理想は、あまりに幼い。『救う』だと?『守る』だと? そんなものは弱者の祈りにすぎん」
遠くの山腹で風が唸る。嘆きにも似て、どこか待ち望むようにも響いた。
彼の笑い声と足音だけが、やがて遠くへと消えていった。
朝の光が観測室を照らす頃。床に倒れる敦史が、訪問した村人によって発見された。冷え切った手で、しっかりと隕石とノートを抱いている。
「先生、水沢先生! しっかりして下さい」
村人たちが揺り起こすが、敦史は目を覚まさなかった。
そのとき、敦史の耳元で、かすかな息の震えが触れた気がした。
風ではない。炎の名残でもない。
胸の奥で、声なき余韻が揺れる。
――敦史。観測を続けろ。
優しい光の中で、思い出が息づいた。
その瞬間、敦史のまつげがかすかに震えた。
「……観測を……続けなければ」
それは、かつて二人の合言葉だった。
だが今、その響きは意味を失い、宙へ溶けていく。
その日から輝朗の捜索が始まった。村人たちは夢に現れる獣の噂を恐れ、夜ごと空を見上げた。
冬空の星座は、黒い影に覆われていく。
やがて夜空には、目に見えぬ黒い川が流れ、星々の間を這い、誰かの夢を嗅ぎ分けるように滴り落ちていった。
星暦盤は焼かれ、持ち去られたはずなのに――その鼓動はなお、氷の城の奥で淡く脈を打っていた。
誰も知らぬ“終焉の印”が、いまだ目を覚まさずに眠っていた。
→ 第九話 最終話「星に守られた記憶」に続く
※更新は11月22日(土)22:00頃を予定しております。
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