空(くう)あたり、あるいはかき氷の色のこと
この記事は、こぶらさんのこの記事に触発された。
こぶらさんの豊かな発想にまずは感謝を。
─「空」と「食う」ことだけは、厳密に分けたいと思う修行者─
骨盤と背骨を真っ直ぐに伸ばして、
私はクッションのうえに座っていた。
軒の下から、滝のように雨水が流れている。
ざあざあの雨だ。
私は、少し迷っていた。
雨はほどなくやむ気がした。
さっきまでは晴れだった。
だから、これはにわか雨だと思った。
同時にこう思った。
ザクはザクだ。
グフはグフだ。
ジムはジムだ。
設定を細かく守りたい、という話ではない。
別のものを「本物」として持ち上げた瞬間、話は少し変わる。
アムロがジムに乗って、
これは本当はガンダムなんだ、とは思わないだろう。
いつかジムはガンダムになる、とも、たぶん言わない。
「空」も、神様や宇宙的な実体ではない。
現象のなかに、固定した我や本質を見ない、という見方だと思う。
月も空だ。
怒りも空だ。
身体も空だ。
少し困るかもしれないけれど、💩も空だ。
空を特別なものとして飾るより、
どの現象にも固定した実体を置かない。
そのほうが、空という言葉には似合っている気がする。
その割には、自分でも「空」という言葉にこだわりすぎている。
そこは、少し笑っておくしかない。
しかし、最近の私は空にこだわりすぎだ。
これだと、空を舐めすぎて、食あたりしてしまう。
いわゆる、「空」あたりだ。
夏の「空」あたりは、食あたりに似ている。
かき氷を何杯も食べる。
最初はイチゴ味。
次はメロン味。
最後はブルーハワイ味。
色は違う。
名前も違う。
けれど、食べすぎるころには、
どれも似たような甘さに思えてくる。
違うのは、香りと色だけなのかもしれない。
食べすぎれば、どれも同じように腹に残る。
同じなのは、こんなに食べすぎたら、
お腹がゆるくなることだ。
そう思いながら、遠くに目をやった。
いつのまにか、雨は止んでいた。
遠くには、ビルとビルの間から
虹が私に微笑みかけるように輝いていた。
もう一度、外に目をやると、
ビルとビルの乾いた輝きが目に入った。
そこには虹はなく、遠くに太陽だけが輝いている。
