絵画が教えてくれた『際(きわ)』
熱が高どまりしていたので、ロキソニンを呑んだら楽になったのでチョット軽く。どの道、薬が切れたらまた熱は上がる。不手際が目に付いたらそれは熱のせい。ゆるしてたもれ。
Linkの原稿をアップして以来、2013年に本宅アメブロで書いた原稿へのアクセスが手厚い。解析してみると、どうやらXエックスからお運びであることが見て取れた。どう感じられても良いのだが……、何かモノを感じたり、言われたりするのであれば、せめて、先日の原稿に貼ったLinkとPDFの研究ノート稿ぐらいは読んでおいてくれよ。
人間てものは10年もあれば学びもするし、宗旨も変わる。あんたたちの子供だって、十年ありゃ成人だろう。
あの辺の原稿で足が止まる人間というのは、概ね成長できていないというのが図星が梅干しw だって、あの後にもこうして書いているのだから。
オモシロそうな、都合の良いとこだけ切り取るなよ~。アホに見えるから。
さて、熱がある許してたもれ。思い込みも機能している。狂ってるから。
ヴァールブルク学派による
「我々は、我々が観るところのものに執着するのではなく、それを超えた思索に赴かねばならない」
一つだけだ。「絵画」という物語が本当に読めるようになりたけりゃ。
想像と創造を止めるな。話をつくってみよ。幾つもだ。
一丁目一番地まで、ありとあらゆる可能性を探れ。
そのうち「際」が身に付くようになる。
ましてだ、学芸員にでもなろうというのなら話は違うが、ド素人が日常の暮らしの中にチョットした豊かさであり、文化、教養を身に付けようというのなら、あまり様式美に執着するな。それはプロの仕事だ。
感性を磨く上で話しを創れるかどうかは大事なのだよ。
どの道、一丁目一番地までの可能性を探ってゆくと……「俺だったら、この画でどんな物語を感じて欲しいと思うだろう」という所に行き着く。しまいにゃコ芝居まで打ち始める。
ここで「際」が初めて機能する。捨て際と拾い際だ。
小説でも書きすぎると鼻につくだろう ?
「書き過ぎじゃね ? 」って。その際ギリギリ攻めるのがプロなんだべ。
しらんけど。
文章読む人間て、結局最後はそこの際読むんだと思うけどね。
まぁ、俺は画も小説も随筆もそう読むけどね。
つらつらと俺は考え発熱のお誕生日の晴天によぉ
了

サルバトールムンディとラ・ジョコンダは姉妹作だ
したがって、ダ・ヴィンチの真筆の「一つの」可能性ともし得るのかもね
不毛だけど。
▽ 世一語録 ▽
そもそもだ、小説は一人で読むんだろ?
なんで絵画を一人でみねぇんだよ?
なんで。てめえの感性を誰かと意見交換する必要あんだよ ?
感性ってなぁ教えを乞うもんじゃねえの。自分で磨いて輝かせるの。
アホなんだよ。
んなもなぁ結局喧嘩にしかなんねぇだろw
芸術という感性が立った人間なら、芸術でつるむべからず。
ツルんだ瞬間「おまえはもうタヒんでいる」
