【鬱エッセイ】僕は家の歯車だった
※一部暴力を思わせる描写、衝動的な思考を含みます
僕は歯車だった
僕は長いあいだ、家族を壊さないための歯車として生きてきました。
小学生のころから、家の空気を壊さないために自分の感情を殺していました。
ただただ黙って、家族の都合に合わせて回り続けていたのです。
別に生まれた時から歯車としての使命を抱えていたわけではありません。
そんな人間がいたとしたら、それこそ異常個体でしょう。
僕はそういう、おかしい生まれをしているわけでもありませんでした。
歯車になったきっかけは、僕が小学校高学年の頃に起こった家庭不和でしょうか。
あくまで、僕の記憶が正しければ、ですが。
僕には4歳年上の兄がいました。
昔から意地悪で、逆恨みの激しい兄でした。
そんな兄が、中学生になると絵に描いたようなグレかたをしたのです。
欲しい物が手に入らないと暴れましたし、気にくわないことがあると僕に危害を加えました。
そういう暴力はグレる前からありましたが、グレてからは容赦がなくなったように思います。
グレてからというものの、兄は悪い友達と遊ぶ前になると、必要なお金をかき集めるようになりました。
まずは僕が貯めているお金を奪いますが、それがないと家探しを始めます。
その家探しというのが、尋常なレベルではないのです。
普通はタンスの引き出しを開け、中身を確かめてから閉める、というのを繰り返していくと思います。
ですが兄は、性格が悪いのか頭のネジが数本飛んでいるのか、引き出しを抜き取って床にぶちまけていくのです。
兄が家を荒らしていけばいくほど、部屋はめちゃくちゃになります。
手帳とか、母のハンカチとかが、みるみるうちに部屋にぶちまけられていき、足の踏み場もなくなっていくのです。
兄は家探しを終えると、たいていは家のドアを叩きつけるようにして出て行きます。
思ったほどお金がなかったんでしょう。
一方でその間の僕はというと、飛んでくる引き出しや物で怪我をしないように縮こまっていました。
そして、頭をかばう両腕の隙間から、鬼のような姿の兄を見ていました。
金属やら木材やらが床にぶつかる音が、雷より怖かった記憶があります。
他の家族はその場にいません。
僕の実家は母子家庭で、母は夜遅くまで仕事をしていました。
父親はどうしようもない人間だったそうで、とっくに失踪しています。
つまり、学校から帰って母が帰宅するまでの間、僕はこの異常者の兄と一緒にいる時間が長かったわけです。
今話した家探しの時間以外も、僕は兄から隠れるように過ごしていました。
ここまでお読みになった人の中には、男兄弟なんだから力づくで止めろと言いたい人もいるかもしれません。
ですが、当時の僕は小学校高学年で、兄は中学生でした。
男兄弟で4歳差があると、真っ向勝負で勝てる見込みは薄かったのです。
それに、兄は嫉妬深さや逆恨みも持ち合わせている人間でしたので、仮に不意打ちで勝ったとしてもその後が厄介だったのです。
きっと、恨みを忘れるまでは、すれ違いざまに殴ってきたり、急に突き飛ばしたりしてきたでしょう。
被虐待児にも通じる話ですが、問題のある家族を抱える人たちが恐れているのは相手の腕力ではありません。
喧嘩して打ちのめしても、ずっと一緒の暮らしが続くことが恐ろしいのです。
異常な逆恨みを持つ人間と、一つ屋根の下で恨まれるわけですから。
僕のしていたこと
兄が家を出て行ったあと、僕にできるのは片付けくらいでした。
床にはハンカチやら手帳やら、子供にはよくわからない物やらが引き出しごとぶちまけられています。
とてもじゃありませんが、どれがどの引き出しに入っていたかはわかりません。
ですが、か細い記憶を頼りに物を引き出しに入れて、タンスに納めていきます。
この時の僕は、母親に兄の所業がバレないことを最優先していました。
別に兄をかばっていたわけではありません。
仕事で疲れて帰ってきた母に、問題を察知してほしくなかったのです。
とはいえ、小学生が取り繕っても完全に復旧できるわけじゃありません。
結局、何があったかを聞かれ、僕は仕方なく兄の所業を母親に話すのでした。
そうすると、また兄と母の喧嘩が起こるので憂鬱でしたが、隠しきれなかった僕の責任だったのでしょう。
その時の母の神妙な顔を思い出すと、未だに胸が重たくなります。
これが小学校高学年の僕の、学校後の過ごし方でした。
兄は金目のものを、家中ひっくり返して持っていく
僕はそれを片付けて、一人になったらスーパーファミコンをする
母が帰ってきたら、隠しきれなかった兄の所業を母親に報告する
兄がいる時間はとにかく苦痛で、むしろ一人でゲームをしている時間の方が心が安らいでいました。
今になっても、僕はなんとなくやり慣れたゲームを掘りだしてプレイするのですが、これはその頃の名残なのかもしれません。
崩壊の予感
時期が進むと、兄の非行はさらにエスカレートしていくようになります。
部屋を荒れ放題にするのは当然として、お金がないと襖やテーブルを破壊するようになっていったのです。
これには参りました。
簡単な片付けならどうにかできますが、穴の開いた襖や壊れたテーブルを修理することはできません。
僕は母親がどんな反応をして、兄と母親がどんな喧嘩をするのかを、不安に感じることしかできませんでした。
さらに兄の行動はエスカレートしていき、僕だけでなく母親までもを殴るようになりました。
頭のおかしい兄が一人いるだけで、我が家は完全に成り立たなくなりました。
僕もこの時期はだいぶ気が滅入り、同時に腹も立っていたもので
一時期は、包丁を持って兄の寝込みを襲おうともしました。
結局、僕が殺人で捕まって母親が悲しむと思って断念しました。
あの時に刺し殺していてもよかったんじゃないかと、今でもたまに思います。
兄の非行は止まりませんでした。
家はどんどんひどいことになり、ただでさえ女手一つで僕たち兄弟を育てている母親は、かなり精神的に滅入ってきているように見えました。
実際、母親は僕たち兄弟を置いて失踪しようとも考えたそうです。
でも、僕を置いていくのが心残りで断念したと、いつかは忘れましたが母は僕に話してくれました。
自分がいて申し訳ない、そう思ったことを覚えています。
そんなこんなで、我が家は確実に崩壊の道をたどっていました。
もはや、兄を殺しでもしないとどうにもならないと僕は思っていました。
しかし、救いの手は思わぬところからやってきたのです。
叔父の介入
兄の非行を見かねた叔父が、我が家に介入することになったのです。
そして僕は、叔父の家に一時的に避難することになりました。
叔父の家にいる間、僕は誰とも話さずにゲームボーイをしていました。
その時に何を考えていたのかは覚えていません。
ただ、家がどうなっているか、そこまで気になってもいなかったように思います。
僕が避難している間に、叔父が兄に何をしたのか、詳しくは聞かされませんでした。
そして、数日後に僕は家に帰ることになりました。
再会した兄は、口元が少し切れていました。
おそらくですが、叔父が兄をグーで殴ったのでしょう。
家のリビングに入ると、兄が壊したテーブルの上に少し豪華な食事が用意されていました。
その場には兄の他に、叔母や叔父、母親もいたと記憶しています。
僕は1つの椅子に腰かけるように言われ、その通りにしました。
「もう大丈夫だからね」
誰が言ったのかは覚えていませんが、誰かが僕の頭にそう声をかけたのです。
その瞬間、目の前のごちそうのことがどうでもよくなりました。
本当は言いたかった
もう大丈夫って、何が大丈夫なんだろうと思ったのです。
単純に理解すると
兄はもう説得した、もう暴れることはない、だから大丈夫、なのでしょう。
さすがに小学生の僕でもそれはわかりました。
しかし、どうにも納得がいかなかったのです。
僕はそれまで何年も、兄に殴られ蹴られ、包丁を向けられ、お金を盗まれ、エアガンで撃たれてきました。
そして近年は、兄の勝手な非行に大変な迷惑を被っていたわけです。
あの日、あの時、あの場にいた大人の誰かが
「もう大丈夫だからね」
と僕に言ってくれました。
ですが、僕が欲しかったのは大人のその言葉ではなかったのです。
もっと言えば、僕にだって兄に伝えたいことがあったのでした。
僕が求めていたのは、兄の真摯な謝罪でした。
そして僕が兄に伝えたかったのは、これまでの兄に対する恨みと怒りでした。
「もう大丈夫だからね」
そう言われた瞬間、そういった怒りの感情が、電気が走り抜けるように流れていったのです。
思いのたけを、正直に言ってやろうかとも思いました。
兄を責める言葉が、喉まで出かかりました。
しかし、それを言葉にした後のことを考えてしまいました。
僕が謝罪を要求したら、恨みつらみをぶつけたら、兄はどうなるでしょうか?
叔父たちの教育が成功していたのなら、その場で謝ってくれたかもしれません。
ですが、教育が上辺だけのものだったり、兄が想定以上に頭のおかしい人間だったらどうでしょう。
きっと兄は、ごちそうの並んだテーブルをひっくり返し、大人たちの制止を振り切って家を荒らし、調子に乗るなと僕を殴打したでしょう。
大人たちが動いて、せっかくおさまった場を、僕の感情の蒸し返しで台無しにしていいのか?
そんな一瞬の逡巡の後、僕はどうするかを決めました。
その答えとは
適当に笑みを浮かべて、料理に手をつけ始めることでした。
僕が謝罪要求をせず、怒りをぶちまけず、ヘラヘラとやり過ごしていればこの場は丸く収まると考えてしまったのでした。
僕はこの日、この瞬間を境に、普通の家庭の構成員ではなくなったのです。
うちの家族という、不完全で歪な集団ができるだけ望ましい形に収まるように、ひたすら我を殺す存在となったのでした。
今思えば、怒りをぶちまけてしまえばよかったのだと思います。
僕が家庭を維持する歯車になってしまった原因は、僕自身にあったわけです。
なんにしてもあの日、僕は家を無理やり回す歯車として、完全に完成してしまったのです。
同時に、この家の純粋な家族であるという帰属意識を失いました。
歯車としての役割
それからというものの、僕は家族がギスギスしないように細心の注意を払って生活していました。
兄がトラブルで暴れそうになった時は、知恵を絞ってそれを解決しました。
母親が疲れている時は率先して労い、話の聞き手になりました。
家庭が壊れないための歯車というのが、10代と20代の僕の在り方だったように思います。
最近になって『いい子症候群』という言葉を知りましたが、僕は典型的ないい子症候群だったのかもしれませんね。
現在
どうしてこうなったかは別の記事でお話ししようと思いますが、僕は現在、実家から相当な物理的距離を置いて一人暮らしをしています。
目的はいろいろあります。
そのうちの1つは、家族の歯車になることをやめることでした。
結果として、実家と距離を置いて楽にはなりました。
しかし、自由になってみて初めて浮上した問題もあるのです。
先ほど、本文の中で『いい子症候群』について触れました。
たぶん、僕もいい子症候群だったのでしょう。
いい子症候群の人が大人になってからぶつかる問題に、今の僕も直面しているからです。
いい子症候群の人たちは、自分を殺して他の家族や他人を尊重して生きてきた人たちです。
それゆえに彼らは、自分の本当の興味や関心を見失ってしまうのです。
そうなると、大人になってから目標もやりたいことも見つからず、空虚な毎日を送ることになってしまいます。
これは僕にも身に覚えのある話です。
今、僕はとりあえず死にはしない程度には生活できています。
しかし、それ以上に何かしようだとか、何かを得たいだとか、そういう願望が存在しません。
ただ日々を生きているだけで、
人間らしい活力だとか、
夢だとか、
そういう輝かしいものとは無縁の生活を送っています。
実家を離れたら、自然と夢を見る気持ちも戻ってくると思っていました。
しかし長年、歯車(いい子)をやっていた反動というのは、僕の想像よりもはるかに大きかったようです。
現状、これに関して治療のめどは立っていません。
現在の主治医にも相談していません。
対処できるとしたら、私設のカウンセリングでしょうか。
ですが、何度もカウンセリングを受けるようなお金を用意するにも時間がかかります。
そのことを考えると、どうしても気が遠くなってしまうのです。
今はnoteが救い
今、少しでも救いになっているのはこうして書いているnoteでしょうか。
noteは他のSNSなどと比べて荒れた雰囲気はありませんし、記事を書けば誰かしらが『スキ』をつけてくれます。
それに、書いた記事が蓄積されていくのも気分がいいものです。
今後も、何かあって心が折れるようなことがない限りは、定期的にnoteを書いていこうと思っています。
出来れば、カウンセリングのお金が貯まるまでこの習慣を続けて、治療の記録なんかも記事にできたらいいなと思っております。
本当に小さな願望ですが、これを叶えてあげることも、歯車を脱却するために必要なことだと思っているからです。
カウンセリングにたどり着くまでには時間がかかるかもしれませんが、この小さな習慣が確かな道になってくれると、根拠もなく信じてこれからも何かしら書いていきます。
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