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大人になったら、「春」は待つものではなく、自分で迎えにいくものになった

気がつけば、コートを手放して歩けるくらいのあたたかさになっていた。

自宅とオフィスの往復するだけの日々。そんな私にとって、自宅から最寄駅までの道が、季節の移ろいを知る手がかり。

最近までピンク色に染まっていたはずの桜の木は、すっかり青々としている。見上げた空は透き通るように青く、浴びる日差しは鋭さを帯びてきた。すれ違う人たちがまとう服の色も、いつの間にかモノトーンからパステルカラーに変化している。

あぁ、またこの季節が来たんだなぁ町は鮮やかになったのに、私の心だけは、灰色のまま。

周りと自分を比べて、勝手にひねくれていた数年前の私。

春がくるたびに「無力な自分」を痛感する

春は「新しい季節」だなんて言うけれど、いつからか「自分の無力さを痛感する季節」になっていた。

もちろん、私も昔は新しい季節をポジティブに受け取っていた。受験を経て新しい学校に入学、そこで進級し、卒業する。また新しい学校に入学して…1年ごとに変化する環境、新たな場や人との出会うことがうれしかった。

それが社会人になって30歳を過ぎたあたりから、変化する頻度は激減した。春がきても、上司や同僚が変わったり、育休中だった同僚が復活したり。周囲が慌ただしく動くだけ。私の環境は数年に一度くらいしか変わらない。

仕事がつまらないわけじゃない。でも、春がくるたびに「私は何も変われていない」と焦りを感じるようになった。

そんな春を何度も積み重ねるうちに、焦りは諦めに変わっていった。

会社員なんてそんなもんか。まぁ、私の人生はこんなもんだよね。

周りと比べて、勝手に落ち込んでいった。

世界が止まった春、やっと心の声に気づけた

日本から春と秋がなくなるかもしれない。

そんなふうに、地球温暖化について語るコメンテーターがいたけれど、それでも春は毎年ちゃんとやってきた。

桜も咲くし、あたたかい風も吹く。異動する同僚を送り出し、新たに迎える職場の同僚のキラキラした眼差しを受けとめる。うらやましさを噛み殺しながら、私は日々をやり過ごしていた。

まぁいっか

何度もつぶやいた言葉が、ひねくれ者の自分をつくりあげていた。

ところが、ある年、世界を震撼させる春がやってきた。あの春、当たり前だった光景をほとんど失った。春のキラキラも、人と会うことも、焦りや諦めも心も失って、ようやく気づけた。

本当は変わりたかったんだ。
いくつになっても、何があっても、成長できる自分でいたい。

ようやく、心の声をキャッチできた。

崩れた日常の枠を一歩踏み出して、「オンライン」という手法で、外の世界の人と出会い、話を聴き、自分がいかに狭い世界で生きていたのかを知った。


「春」は待つものから、迎えにいくものに

外の世界で見聞きしたこと、体験したことをもとに、さまざまなことにチャレンジした。

コミュニティに属して、同世代とチームをつくって運営してみたり、記事を書いたり。好きな人や組織の力になりたくて、仕事を手伝うようにもなっていった。

人をうらやむ暇なんてないほど、夢中になっていた。

そして今、私はまた新たな春をつくろうとしている。

大人になったら、季節は待つものではないのかもしれない。「春」は自分の手で迎えにいくものなんだ。

そう思えている今が、ちょっとだけ誇らしい。


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