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③22歳の論文「自我の喪失」ー 今の私が読み返す時ー (『エロティシズム』ジョルジュ・バタイユ)

①②はこちら👇


いよいよ③で、ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』が登場!
ジョルジュ・バタイユについては、
いつか、きっといつか、
じっくり書きたいと思っている。

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性においては、主と客の関係はあり得ない。他者・外界に対する所有感を売るための、つまり生の中に安易な安定、安心感を求めるための方法や手段ではない。また、それによってもたされるものも所有感ではない。性の地平には利益の計算、何々のためにという考えは入りこめない。ただ、ひたすらに消費するだけで無償なのである。際限なく、無秩序にエネルギーを消耗するだけなのである。

セックスによってもたらされるものは、その相手を自分のものにすることができた、という安心感のようなものではない。自分だけが相手を理解している、自分だけがその人の全てを知っている、私たちは分かり合っているという安心感や安定感は、二人の人間の間にしばしば起こりがちなものである。しかし、それは幻想だ。そのような所有、理解を求める主体と客体の関係が崩れない限り、本来セックスが究極的にもたらすもの、あるいは辿り着くことのできるところ、そしてその過程さえもが不可能になってしまう。

2人のうち、常にどちらかが主であり、客であるということ、それは必ずどちらかが、自己・自我であるということ、「私」であるということだ。それが存在している限り、セックスは主と客のものでしかあり得なくなってしまう。いつまでも二局面に分離したままになる。主と客、自己と他者、そのような二局のものではない。そこでの究極の一瞬に、「私」も「君」も消滅するのだから。

「エロティシズムの中では『ジュ』が失われる。」(ジョルジュ・バタイユ 澁澤龍彦しぶさわたつひこ 訳『エロティシズム』二見書房)

性において自我は消滅する。始めに二つの個(人間)があり、その個と個は全てのもの同様に、絶対に、永久に、個々の存在であり続けるのだが、ほんの一瞬融合することがある。それがセックスにおけるオルガスムなのである。永遠に別々であるもの、常に存在の孤独と不安にくるしんでいるものが、ほんの一瞬融合する。その瞬間に在るものは、主でも客でもなく、私でも君でもない。そのような人称的なものは、全て消える。自我はその一瞬に消える。自分の意識はぼんやりとし、薄らいでゆく。肉体は意識が離れた虚脱状態になる。絶頂の瞬間とは、自分が肉体から離れる、意識の空白状態と言える。それは無我の状態なのである。


                         ーつづくー


~今日の曲~
"Highgate Shuffle" Rod Stewart



~最後まで読んでくださった方へ~
心よりありがとうございました😊


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