蜂蜜のほとりで揺蕩う
最愛とも言い切れない妻に先立たれて10年もの歳月が流れた。
彼女は雲がかかった満月のような人で、差し詰め私はあの人のことを見上げながら鳴く秋の虫であり、いつだか思い付きでそう口にしたら
「じゃあ、春夏冬はどうなのよ」
と問われる。
私ははっきりと答えられなかった。ただ年々、日本は暑さが増して秋がなくなっていき、今や墓参りにさえ行きづらく、妻の遺影も色褪せ、幻のようである。
そして、数年前に遭った交通事故の後遺症で歩行が困難になり、車椅子での生活が始まってからは本当に一瞬だった。
娘と息子が私の介護を押し付け合い、その争いに嫌悪感を持ち、
「父さんは施設に入ろうと思う。なあ、ふたりも一緒に探してくれるか」
自ら潔く切り出した。
ようやく見つけた終の住処では、同じように車椅子の人が大勢いて、私は元来、物静かな性格かつ辛うじて自走(※車椅子を自力で動かすこと)が可能なので何かと後回しにされやすく、周囲と打ち解けられないまま、暇潰しに自室で眠る日々が続く。
話し相手といったら、朝食だの夕飯だのと起こしに来る、ふくよかで優しそうな職員・駒込(コマゴメ)くらいだろうか。
「まあ、こんなもんだ」「寂しかろうが、私の人生を顧みると相応しい」
自分に何度も言い聞かせ、気持ちに折り合いをつける。
まず3食違ったものが用意されている時点でありがたい。
毎日の楽しみは食事。和洋中? 否、世界中の料理が待っていた。
決まったテーブルに座るも、私より随分と若く早食いの男が、いつも睨み付けてくる。どう考えても仲良くはなれない。
不思議と女性たちは輪を作った(新入りに話し掛ける速さは目を見張るほど)。
かと言って浮き立った男女混合のグループは、昔から苦手だ。
なんだかんだ理由をつけ、仲間を遠ざけたところで、憩いの場(施設内の共有スペース)にて、真っ白いふわふわの、キラキラと大きな目と立ち耳が可愛らしい、何かしらの動物に似せたぬいぐるみと出会った。
「ハチミツ。進(ススム)さんにご挨拶は?」
「こんにちは、はじめまして」
これが、駒込に促され、ぺこりと頭を下げて、恥ずかしげにもじもじする。

目の前で繰り広げられる近未来、まさか喋って動くとは思わなかったので、私はひどく驚いた。
それにしても、黄金色には見えないのだが、ハチミツとはいかに(私の眼鏡を疑うべきか)?
一丁前に人見知りまでして、典型的なロボットのイメージが覆される。
しかし、間もなく誰かに名を呼ばれ、私からは離れてしまった。
呆気に取られていると、駒込がこちらに向かって明るく声を掛ける。
「びっくりさせちゃってごめんなさい。ハチミツもうちの大事な職員なんです。明日また会えば進さんのこと、ちゃんと覚えてますよ」
「ああ、あれだろ。今流行りのAIとか」
「そうですね」
自慢ではないが、私は孫たちの影響で少しばかり詳しかった。駒込に語って聞かせると、ハチミツがちゃかちゃか寄ってきて、まるで猫のように車椅子の近くに丸まる。
「あら。ハチミツは進さんが気に入ったみたい」
「ふうん。賢いやつだな」
構うつもりはなく、放っておいた。
私は施設に併設されたデイサービスを利用しておらず、たまたま目覚めた時に「茶でも飲むか」などと閃いたからここにいる。
このような人々のためにハチミツを買うか借りたのだろう。ああいったロボットは体調不良や急用で仕事を休まないし、余程、人間より働く。
時に夕飯後は各自、部屋で過ごす。
たとえ友がいようとも他人の部屋に入ることは禁止されていた(ま、私には無関係な話だけれど)。
朝昼と寝てしまえば当然、目が冴えて、普段は延々と退屈なテレビを観ている筈が、今夜は欠伸が出たと思ったら既に夢の中で、何故か鼻につくくらい、強く甘い匂いがする。

奇妙な蜂蜜色の世界、雲や水までも私の知る色とは違い、そばに車椅子がなく、すたすたと自由に歩けた。
施設に入って以来、変わり映えのしない風景しか眺められず、生きるのにも疲れを覚え、浅い眠りで現実から逃げる日々を送り──歩を進めながら枕元に置いた妻の遺影を思い出すと、彼方に、微笑みを湛えた彼女が座っているではないか。
思わずキノコ通りを駆け抜ける。
エブリン。私の目には、一層美しく映った。
「本当は生きてる間に、お前をこういう場所に連れて行きたかったんだ」
せめてもの愛を込めて抱擁したなら、蜂蜜色の光を纏った高嶺の花が儚く消えてしまいそうで怖い。現に足元はぬちょぬちょとした感覚で覆われており、危うく滑って転びかける。

「分かってるわよ。ススムはちっとも素直じゃないんだもの。でもそこが、かわいい人」
エブリンは私の手を取って、「愛してるわ」と笑った。最期の言葉と同じで自然と涙が頬を伝う。
恥ずかしかったりむず痒くてついに応えらなかった気持ち。ただでさえ、しわくちゃの顔が崩れるほどに、寧ろ葬儀より泣いた。
終いには鼻水が喉元まで垂れる。
亡くなった妻は10年間一度も夢に現れず、最愛だなんてとても言い切れない、薄情者の夫を捨てて、とうに生まれ変わったのだと信じ込んでいた、でも、どうにか奇跡を起こして再び会いたかった、悲痛な思いとは裏腹に蜂蜜色の世界が歪んでいく。
「エブリン、エブリン……!」
重ねた手は離され、彼女が私の呼び掛けに冷たく首を振り、挙句、自分の叫び声で目が覚めた。
うるさいだなんだと隣室の女性が誰かに訴え、鳥たちがさえずって、カーテンの隙間は青、夢が終わる刹那が最も辛い。
されど、心配して私の部屋を訪ねてきた黒マスクで今風な夜勤の職員・加茂(カモ)に打ち明けると、意外な反応をされる。
「昨日ハチミツと喋りませんでしたか? 初めての時は皆さん、そういう風な夢を見るんです。必然的にハチミツって名前になりますよね」
「ええっ、あいつのおかげで?」
私が仰天すると、彼は目を細めて「はい、不思議でしょう? 内容を忘れちゃう方もいます、だからラッキーですね」と続けた。
──2025年、秋。入居から1ヶ月経ち、やっと私に友ができる。
とは言っても、ぬいぐるみのようなロボット・ハチミツであった。
車椅子で憩いの場に向かえば、いつでも私を温かく迎えてくれる。
「進サン、抱っこー」
「おう。ちょっと待ってな」
様々な職員に頼んでハチミツを私の太もも辺りに乗せてもらい、頭を撫でては、蜂蜜色の世界に居た妻を思い出す。

