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少年むさし 迷いを斬る前に🎬第二回 母の声がする峠

第二回 母の声がする峠

峠の風は、山の両側から吹いていた。

西から来る風は乾いていて、枯れた草の匂いを運んでくる。

東から来る風は冷たく、谷底の水音を連れてくる。

二つの風は峠の上でぶつかり合い、互いの行き先を奪うように渦を巻いていた。

むさしは、その風の真ん中に立っていた。

背には小さな荷を負い、腰には木刀を差している。

着物の裾は土で汚れ、草履の緒は片方だけ細く擦り切れていた。

朝からずっと歩いてきた。

けれど、どこへ向かっているのかと問われれば、答えはなかった。

ただ、家から遠ざかっていた。

家と呼んでよい場所なのかどうかも、むさしにはわからなかった。

父の声がする場所。

剣を振る音がする庭。

飯を食うときでさえ、背筋を伸ばしていなければならぬ場所。

そこを家と呼ぶなら、家とは心を休める場所ではない。

己の足りなさを毎日突きつけられる場所である。

それでも離れてみると、胸のどこかが後ろを振り返っていた。

帰りたいのか。

帰りたくないのか。

むさしは自分の心を、峠の上空から見るように眺めていた。

小さな少年が一人、道の真ん中で立ち止まっている。

前へ行くこともできず、後ろへ戻ることもできない。

なんと不格好な姿だろう。

むさしは、そんな自分を少し冷たく見下ろした。

「道に迷うたのかい。」

女の声がした。

むさしは反射的に木刀の柄へ手をかけた。

道の端に、女が座っていた。

先ほどまでは誰もいなかったはずだった。

女は大きな笠を背に掛け、旅装束の裾を膝までたくし上げている。足には白い布が巻かれ、泥が乾いて薄くひび割れていた。

年は二十を少し越えた頃だろうか。

髪は後ろでひとつに束ねられているが、頬に何本かが貼りついている。

美しい女だった。

だが、村の娘たちのような華やかさはない。

雨や風に削られた石のように、顔に静かな強さがあった。

女は細い棒の先で、小さな鉄鍋の中をかき回していた。

湯気とともに、味噌の匂いが漂ってくる。

むさしの腹が鳴った。

女は聞こえなかったふりをして、鍋をかき回し続けた。

「迷っていない。」

むさしは言った。

「そうかい。」

「道は一本だ。」

「道が一本でも、人は迷うよ。」

むさしは女を見た。

女は笑っていなかった。

からかっているのでもない。

ただ、当たり前のことを口にしただけの顔をしていた。

「どこへ行く。」

「さあね。」

「自分の行き先もわからぬのか。」

「わからないから、歩いているのさ。」

むさしは眉を寄せた。

歩く者には目的がある。

剣を振る者には倒す相手がいる。

山を越える者には、山の向こうに用がある。

それが当然だと思っていた。

「おかしな女だ。」

「よく言われるよ。」

女は鍋から汁を椀に移した。

そして、もう一つの椀にも同じようによそった。

「食べるかい。」

「いらぬ。」

「腹は食べたがっている。」

「腹と俺は別だ。」

「面白いことを言うね。」

女は片方の椀を、むさしの前の石に置いた。

むさしは手を伸ばさなかった。

女も勧めなかった。

ただ、自分の椀を両手で包み、ゆっくりと汁を飲んだ。

湯気が風に流されて、むさしの顔を撫でた。

大根と山菜が煮えた匂い。

味噌の焦げた香り。

その瞬間、胸の奥で何かが動いた。

遠い記憶だった。

誰かが鍋の蓋を開ける音。

囲炉裏の火が爆ぜる音。

小さな手を包む、柔らかな手。

熱いから、ゆっくりお食べ。

声がした。

むさしは峠に立っていた。

だが、一瞬だけ、別の場所にいた。

薄暗い部屋。

低い天井。

火の明かり。

自分より大きな影。

母。

その言葉を思ったとたん、記憶は霧のように崩れた。

顔が思い出せない。

声もはっきりしない。

ただ、温かかったという感覚だけが残っている。

むさしはそれが嫌だった。

形のない記憶は、斬ることができない。

相手の姿が見えなければ、木刀も届かない。

「どうした。」

女が聞いた。

「何でもない。」

「母親を思い出した顔をしていたよ。」

むさしの手が木刀の柄を強く握った。

「勝手なことを言うな。」

「違ったかい。」

「違う。」

「なら、そういうことにしておこう。」

女はそれ以上、何も聞かなかった。

その黙り方が、むさしには気に入らなかった。

問い詰められるなら拒める。

笑われるなら怒れる。

だが、何も言わずに受け入れられると、自分だけが嘘をついているように思えた。

むさしは石の上の椀を取った。

汁をひと口飲む。

熱かった。

舌が痺れ、味噌の塩気が喉へ落ちていく。

大根は柔らかく、山菜には少し苦みがあった。

懐かしい味だった。

けれど、いつどこで食べたのかは思い出せなかった。

「名は。」

むさしが聞いた。

「さよ。」

「どこから来た。」

「いろいろなところから。」

「生まれた場所を聞いている。」

「生まれた場所と、来た場所は同じじゃないよ。」

さよは空になった椀を膝に置いた。

「お前は。」

「むさし。」

「むさしか。重たい名だね。」

「名に重さなどない。」

「あるさ。呼ばれるたびに、過去がついてくる。」

むさしは黙った。

名を呼ばれるたびに、過去がついてくる。

その言葉は、見えない小石のように胸の中へ落ちた。

むさしという名。

誰がつけたのか。

なぜその名なのか。

自分の血に何を背負わせるためにつけられたのか。

父の名。

家の名。

先祖の名。

血は、目に見えぬ縄だった。

斬ろうとしても、どこからどこまでが縄なのかわからない。

「お前は家出かい。」

さよが言った。

「違う。」

「帰る途中かい。」

「違う。」

「では、帰らない途中か。」

むさしは答えなかった。

さよは立ち上がり、鉄鍋に水を入れてすすいだ。

旅の動作だった。

無駄がなく、迷いがない。

荷をまとめる手も速い。

この女は、何度も立ち去ってきたのだろう。

誰かのそばから。

どこかの家から。

何かの思い出から。

「帰るところはあるのか。」

むさしは聞いた。

さよの手が一瞬止まった。

「あるとも言えるし、ないとも言える。」

「どちらだ。」

「帰りたい場所はある。だが、もう帰っても同じ場所ではない。」

「場所は変わらぬ。」

「変わるよ。人がいなくなればね。」

さよは笠を手に取り、土を払った。

「家というのは、柱や屋根のことではない。そこにいて、自分の名を呼んでくれる者のことだ。」

むさしの胸の中で、また母の声がした。

「むさし」

本当にそう呼ばれたのかはわからない。

記憶が作った声かもしれない。

寂しさが、母の形を借りているだけかもしれない。

「死んだ者がいた場所も、帰る場所か。」

むさしは自分でも驚くほど低い声で聞いた。

さよはむさしを見た。

初めて、女の目に影が差した。

「死んだ者しかいない場所なら、それは帰る場所ではなく、訪ねる場所だ。」

「同じではないのか。」

「違うよ。帰る者は、迎えられる。訪ねる者は、自分で戸を開けなければならない。」

むさしは椀を見つめた。

汁はもう残っていない。

底には小さな味噌の粒が貼りついていた。

「俺には迎える者などいない。」

言ってから、胸の奥が冷たくなった。

口に出せば、本当になってしまう。

父はいる。

だが、迎えてくれるだろうか。

戻れば、「遅い」と言うかもしれない。

「どこへ行っていた」と問うかもしれない。

何も言わず、木刀を投げてよこすかもしれない。

それは迎えるということなのか。

むさしにはわからなかった。

さよは、むさしの頭に手を伸ばした。

むさしは素早く身を引いた。

「触るな。」

「悪かった。」

さよは手を下ろした。

その仕草が、記憶の中の誰かに似ていた。

むさしは胸の中で揺れた。

触れてほしかった。

触れてほしくなかった。

優しくされたい。

弱いと思われたくない。

二つの思いが刀の刃のようにぶつかり合った。

どちらかを斬れば、どちらかが残る。

だが、本当に斬ってよいのか。

「お前は母に似ている。」

むさしは言った。

さよは少し笑った。

「お前の母を知らないよ。」

「顔ではない。」

「では、何が。」

むさしは答えられなかった。

匂いか。

声か。

鍋をかき回す手か。

何も聞かずに待つところか。

それとも、自分が母を求めているから、どんな女にも母の影を探してしまうのか。

高いところから自分を見る、もう一人のむさしが言った。

お前はこの女を見ているのではない。

自分の中の母を見ている。

それは、さよへの思いではない。

失ったものへ伸ばした手だ。

むさしは腹が立った。

自分に腹を立てた。

母を求める自分。

家族に未練を残す自分。

戻りたいと願いながら、戻れない自分。

剣を握る手は強くなっているのに、心はいつまでも幼い。

「むさし。」

さよが名を呼んだ。

その呼び方は、優しかった。

むさしは顔を上げなかった。

「帰る場所は、初めからあるものではないよ。」

「では、何だ。」

「自分で帰ると決めた場所だ。」

むさしはさよを見た。

「迎える者がいなくてもか。」

「迎える者がいないなら、自分が誰かを迎える者になればいい。」

風が止まった。

ほんの一瞬、峠が静かになった。

鳥の声も、谷の水音も聞こえない。

さよの言葉だけが、むさしの胸に残った。

自分が誰かを迎える者になる。

むさしには、その姿を想像できなかった。

剣を握る自分は見える。

敵と向き合う自分も見える。

だが、戸口に立って誰かの帰りを待つ自分など、これまで考えたこともなかった。

「俺は誰も待たぬ。」

「今はね。」

「これからもだ。」

「そうかもしれない。」

さよは笠をかぶった。

「だが、人は自分の言葉どおりには生きられないよ。」

「俺は生きる。」

「強情だね。」

「強いと言え。」

「強情と強さは違う。」

さよは笑った。

むさしはまた言葉を失った。

この女は、剣を持っていない。

それなのに、むさしの構えの隙を簡単に突いてくる。

木刀では防げないところへ、静かに言葉を差し込んでくる。

「どちらへ行く。」

むさしが聞いた。

さよは峠の向こうを指さした。

「向こう側。」

「何がある。」

「行ってみなければわからない。」

「また迷うぞ。」

「迷ったら、また立ち止まるさ。」

さよは数歩歩いてから振り返った。

「お前は、どちらへ帰る。」

むさしは答えなかった。

さよは返事を待たず、山道を下り始めた。

笠が少しずつ小さくなる。

やがて道が曲がり、姿が消えた。

むさしは一人、峠に残された。

西からの風が吹いた。

東からの風も吹いた。

二つの風は、またむさしの周りでぶつかった。

前へ進め。

戻れ。

母を忘れろ。

母を忘れるな。

血に従え。

血を断て。

強くなれ。

誰かに甘えたい。

さまざまな声が、胸の中で絡み合っていた。

むさしは目を閉じた。

母の顔は見えない。

だが、声だけが聞こえる。

「むさし。」

その声は、帰ってこいとは言わなかった。

行けとも言わなかった。

ただ、名を呼んでいた。

むさしは思った。

帰る場所とは、戻るためだけの場所ではないのかもしれない。

そこから再び歩き出すための場所なのかもしれない。

家族への未練は、弱さではない。

失った者を思うことも、剣を鈍らせるだけではない。

それは、自分がどこから来たのかを忘れぬための印なのだ。

むさしは、来た道を振り返った。

道は下り、森の奥へ続いている。

家は見えない。

父の姿も見えない。

だが、帰ると決めれば、そこはまだ帰る場所になり得る。

むさしはすぐには歩き出さなかった。

まず、自分の中の声を聞いた。

帰りたい。

その言葉を、否定しなかった。

それでも今は帰らない。

逃げるためではなく、自分の足で戻るために。

むさしは峠の向こうへ一歩踏み出した。

母の声は、背後ではなく、胸の内から聞こえていた。


迷いを一刀両断。

迷いを一刀両断。

武蔵少年の迷いの道は、まだ続く

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