少年むさし 迷いを斬る前に🎬第一回苔の上の初太刀
第一回
🎬苔の上の初太刀
竹林の朝は、いつも人の息より冷たい。
むさしは苔むした大石の上に立ち、木刀を両手で握っていた。
足の裏に湿り気がある。苔が水を含み、草履の底を静かに吸いつけてくる。竹は風に鳴っていた。高いところで葉が触れ合い、さわさわと音を立てる。その音は、誰かが遠くで小声で笑っているようにも、泣いているようにも聞こえた。
むさしは、その音を聞きながら、自分の呼吸を数えていた。
一つ。
二つ。
三つ。
吸う息より、吐く息を長くする。そうすれば心は揺れぬ、と父は言った。いや、父と呼ぶべきか、師と呼ぶべきか、むさしにはまだ決められなかった。
血でつながった者が父なのか。
剣を教える者が父なのか。
それとも、自分を見て「まだ足りぬ」とだけ言う者が父なのか。
むさしは、それを考えるたびに、胸の奥に小さな結び目ができるのを感じた。
結び目は、ほどこうとすると固くなる。
斬ろうとすると、さらに奥へ逃げる。
だからむさしは、最近では考えぬことにしていた。考えぬために木刀を振る。迷わぬために汗をかく。何かを忘れるために、誰よりも早く起きて竹林に来る。
だが、忘れるために振る木刀は、いつも少し重かった。
「また、ひとりで稽古してるん?」
声がした。
むさしは木刀を止めなかった。右から左へ、左から右へ。風を斬る音だけが返事だった。
「聞こえてるやろ」
少女は遠慮なく近づいてきた。
むさしより二つか三つ年上に見えた。赤い紐で髪を結び、手には籠を下げている。籠の中には山菜と、まだ青い柿がいくつか入っていた。目が大きく、笑う前から笑っているような顔をしていた。
村の娘だろう。名は知らない。
むさしは木刀を止め、少女を見た。
「危ない」
「危ないところにおるんは、あんたやろ。苔で滑るで」
「滑らぬ」
「そう思うてる人ほど滑る」
少女はそう言って、ひょいと大石の端に腰を下ろした。
むさしは眉を寄せた。
「そこに座るな」
「なんで?」
「稽古の邪魔だ」
「稽古って、誰と戦ってるん?」
むさしは答えなかった。
少女は竹林を見回し、大げさに首を傾げた。
「敵、見えへんけど」
「見えぬ敵もいる」
「ふうん。じゃあ、あんたは毎朝、見えへん敵に勝ってるん?」
むさしは黙った。
勝っているのか。
それは、わからなかった。
木刀を振れば腕は強くなる。足も粘るようになる。目も、鳥の影や葉の揺れに早く気づくようになる。
けれど、胸の中のものは勝手に騒ぐ。
血のこと。
父のこと。
母のこと。
自分はどこから来て、どこへ行くのかということ。
そういうものは、何度斬っても、斬ったそばから別の形になって戻ってくる。
むさしは、自分の心を少し離れたところから眺める癖があった。
怒っている自分。
寂しがっている自分。
誰かに認められたい自分。
それらが胸の中で暴れていても、もう一人のむさしは、少し高い木の枝に座って、それをじっと見下ろしている。
ああ、また騒いでいる。
ああ、また負けそうになっている。
そんなふうに。
少女は青い柿を一つ取り出し、むさしに投げた。
むさしは反射的に受け取った。
「食べる?」
「いらぬ」
「渋いもんな」
「なら、なぜ渡す」
「持ってるだけでも、秋の匂いがするやろ」
むさしは手の中の柿を見た。
確かに、青く固い皮から、かすかに土と葉の匂いがした。まだ食べられぬ実。だが、いつか甘くなるもの。
むさしは、その柿が少し嫌だった。
自分もそうだと言われているような気がした。
まだ食えぬ。
まだ未熟。
まだ青い。
父の目が、いつもそう言っている。
「名は」
むさしが聞くと、少女はにっと笑った。
「おりん」
「おりん」
「そう。鈴のりん。けど、うちは鈴みたいに可愛らしゅう鳴らへんで」
「自分で言うことではない」
「ほな、あんたは?」
「むさし」
「むさし。強そうな名やな」
むさしは、その言葉にも答えなかった。
強そうな名。
名が強くても、心が弱ければ何になる。
むさしは木刀を構え直した。
「帰れ」
「なんで?」
「女には関係ない」
言った瞬間、空気が少し変わった。
おりんの目から笑いが消えた。
竹林の音が遠のく。
むさしは、自分が何か間違えたことを言ったとわかった。だが、何が間違いなのかは、すぐにはわからなかった。
おりんは立ち上がり、籠を腕にかけた。
「女には関係ない、か」
むさしは黙っていた。
「剣を振るんは男だけかもしれへん。でもな、斬られるのは男だけと違うで」
その声は静かだった。
怒鳴られるより、胸に刺さった。
おりんは竹の根元にしゃがみ、折れた細い枝を拾った。それを木刀のように構える。むさしの真似をしているのだろうが、腰は高く、足も定まっていない。
「こうか?」
「違う」
「ほな、こう?」
「違う」
「教えて」
むさしは眉間に力を入れた。
「なぜ」
「知りたいから」
「女が剣を知ってどうする」
「人の痛みを知らん人に、痛いと言われたくないから」
むさしは、言葉を失った。
おりんは枝を構えたまま、まっすぐこちらを見ていた。
その目に、むさしは奇妙なものを見た。
恐れではない。
媚びでもない。
憧れでもない。
ただ、こちらを一人の人間として見ている目だった。
父の目は、むさしを剣として見る。
村の者の目は、むさしを厄介な子として見る。
子どもらの目は、むさしを怖いものとして見る。
だが、おりんの目は違った。
むさしという名の、まだ青い柿を見ている。
固くて、渋くて、どう扱えばいいかわからぬ実を、それでも手のひらに乗せて確かめている。
むさしの胸の結び目が、少しだけ動いた。
「足を開け」
むさしは低く言った。
おりんが笑った。
「教えてくれるん?」
「黙って立て」
「はいはい、先生」
「先生ではない」
「ほな、むさし」
名を呼ばれただけなのに、むさしの手元が一瞬乱れた。
それを自分で見逃さなかった。
ああ、揺れた。
高い枝に座るもう一人のむさしが、冷たくそう告げた。
女に名を呼ばれただけで、心が揺れた。
剣の道とは、こういうものも斬らねばならぬのか。
それとも、こういうものを斬らぬために、剣を学ぶのか。
むさしにはわからなかった。
おりんの手首を直そうとして、むさしは近づいた。細い枝を握る指は、思ったより荒れていた。山菜を摘み、薪を運び、水を汲む手だった。
白くもなければ、柔らかくもない。
けれど、その手は生きていた。
むさしの手は木刀を握るために固くなっている。
おりんの手は暮らしを支えるために固くなっている。
どちらが強いのか。
むさしは、その問いに答えられなかった。
「こうだ」
むさしは枝の角度を直した。
そのとき、おりんの髪から、草と汗と朝の匂いがした。
むさしは息を止めた。
一瞬、剣も、父も、血も、すべて遠くなった。
ただ、竹林の朝に、少女がいる。
それだけのことが、こんなにも心を乱すのか。
むさしは一歩下がった。
おりんが首を傾げる。
「どうしたん?」
「何でもない」
「顔、赤いで」
「朝日だ」
「まだ竹の向こうやけど」
むさしは木刀を握りしめた。
斬りたいわけではない。
逃げたいわけでもない。
ただ、この胸の中に生まれたものの名を知りたくなかった。
名を知れば、弱くなる気がした。
愛。
そんな言葉を、むさしはまだ知らぬふりをしたかった。
いや、知っていたのかもしれない。
母を思うときの痛み。
父に認められたいと願うときの飢え。
誰かに名を呼ばれたときの熱。
それらは形こそ違うが、同じ根から伸びているように思えた。
血。
愛。
剣術。
三本の糸が、むさしの胸の中で絡まっている。
一本を引けば、別の一本が締まる。
剣を選べば、愛が邪魔をする。
愛を見れば、血が疼く。
血を思えば、剣で証を立てたくなる。
むさしは、まだ少年だった。
だから、その絡まりをほどく術を知らなかった。
ただ、ほどけぬなら斬ればよいと考えていた。
「むさし」
おりんが呼んだ。
むさしは顔を上げた。
おりんは枝を構えたまま、にやりと笑っていた。
「一本、勝負してみる?」
「お前が?」
「うん」
「勝てぬ」
「勝たんでもええ。怖いもんを知りたいだけ」
その言葉に、むさしの胸がまた揺れた。
怖いもの。
むさしにとって怖いものは、負けることではなかった。
弱いと思われること。
血に縛られること。
愛に足を取られること。
剣しか残らぬ人間になること。
そして本当は、自分が誰にも必要とされていないと知ること。
おりんは枝を振り上げた。
遅い。
隙だらけ。
むさしが本気なら、一呼吸で終わる。
だが、むさしは動けなかった。
おりんの枝が、ぽこん、とむさしの肩に当たった。
痛くはない。
だが、むさしは負けたような気がした。
おりんは目を丸くしたあと、声を上げて笑った。
「勝った」
「今のは勝ちではない」
「当たったもん」
「俺が避けなかっただけだ」
「避けられへんかったんやろ」
むさしは反論しようとした。
だが、言葉が出なかった。
そうかもしれない。
剣なら避けられた。
枝なら払えた。
けれど、笑いながら近づいてくる少女の無邪気な一撃を、むさしはどう受ければいいのかわからなかった。
おりんは満足したように枝を捨てた。
「ほな、帰るわ。山菜、届けなあかんし」
「もう来るな」
むさしは言った。
おりんは振り返った。
「来てほしくないん?」
むさしは答えなかった。
来てほしくない。
来てほしい。
その二つが、同じ重さで胸にあった。
おりんは少しだけ優しい顔になった。
「また来るわ」
「話を聞け」
「聞いたうえで、また来る」
そう言って、おりんは竹林の小道を下りていった。
赤い髪紐が、緑の中で一度だけ揺れた。
むさしはしばらく動かなかった。
手には、まだ青い柿が残っている。
食えぬ実。
渋い実。
だが、いつか甘くなるかもしれぬ実。
むさしはそれを大石の上に置いた。
そして木刀を構えた。
今度は、目に見えぬ敵が少しだけ見えた気がした。
敵は竹の向こうにいない。
父の影の中にも、血筋の奥にも、女の笑顔の中にもいない。
敵は、自分の胸の中で、名をつけられるのを待っている。
むさしは息を吐いた。
一つ。
二つ。
三つ。
木刀を振る。
風が裂ける。
竹が鳴る。
胸の結び目は、まだほどけない。
だが、むさしは初めて思った。
斬る前に、見なければならぬ。
見なければ、何を斬るのかもわからぬ。
少年むさしは、苔の上で足を踏みしめた。
血も、愛も、剣術も、まだ一本の道にはならない。
それでも彼は、自分の迷いを真正面から見た。
迷いを一刀両断。

次回予告
第二回 母の声がする峠
母への記憶、家族への未練。峠で出会う年上の旅女が、むさしに「帰る場所」の意味を問う。
