鬼退治しない
昨日の夕方のニュースを見て、「そうか、今年は2日が節分だったんだ」と気づいた。
といっても、豆まきにも恵方巻にも縁がない。
豆を撒いたことは一度もない。
もし私がそういう風習のある家に嫁いだとしたら、家族には「撒かないで!」と懇願すると思う。
自分が撒く側になることは、天地がひっくり返ってもありえない。
だって、掃除するの私なんでしょ。
あれは、後片付けをしてくれるお手伝いさんがいるようなお金持ちのお屋敷がやるものである。
何より、食べ物が地に撒かれた瞬間に「ゴミ」になるというのを見るのは、どうにもモヤモヤする。
かといって、袋に入れたまま撒かれた豆をあとで拾って歩く姿もどことなく哀れに感じる。
袋に入れてあるとはいえ、一度地面に打ち捨てたものを口に入れることへの抵抗感もある。
食べ物をおもちゃにしてはいけません。
そもそも災厄を鬼に例えるのが好きではない。
人間が、自分たちに降りかかった災厄を、すべて異形のもののせいにしてこれを攻撃する構図を楽しめない。
災厄がないことを祈って、自ら滝に打たれるほうがよほど清々しい。
私はしないけど。
そして、私の中では、精神的な基盤を持たない行事の双璧が、ハロウィンと恵方巻である。
商売の臭いしかしない。
鰯の頭の臭いならまだ信仰の気配がするが。
今年は、10年来の「年賀状仕舞い」の結果、歯医者や美容室などの宣伝用以外1枚も賀状が来なかった。
年末の喪中欠礼ハガキもだ。
かつては、喪中欠礼の人や、賀状を出していないのにくれた人あてに「立春大吉」のハガキを出していた。
しかし、自分の喪中が何年か続いたあと、「大吉」もしんどい気がしてやめた。
自分や家族が傷病や貧困や介護など、理不尽な境遇にある人に「大吉」ってなんだよ、みたいな。
これは、母が逝ったのが1月だったからかもしれない。
以降は、なんの行事も歳時でもないときに、「元気にしてる?」と気まぐれを装って連絡することにしている。
私もそうされたほうが嬉しいから。
新年、立春、4月の新年度、誕生日と、いったい1年にいくつ年を取らせるのか。
そのたびに、何を成せたか、何を為すべきかと、自分で自分を問い詰めてしまう。
ここまでなんとか生き延びたからには、もっとざっくりと、ゆるゆると、大らかに生きていいのだ。
そうして、豆をぶつけられる鬼と同じ方向に目を向ける。
数の少ない者、異形の者、悪意や偏見を向けられる者。
それは、もしかしたら私が鬼の部類だからかもしれない。
弱さだったり、醜さだったり、あざとさだったり、卑怯さだったり、心に棲む何匹もの鬼たち。
でもいつも悪とは限らない。
彼らがいることで守ってきたものもある。
「退治」って残酷な言葉だと思う。
私は、攻撃や戦闘が嫌い。
ドラマや映画の暴力シーンもできるだけ見たくない。
スポーツも、格闘技は見ない。
善悪や勝負を、体力や暴力で示すのが嫌い。
だから、鬼が豆を投げつけられるのも苦手。
note の去年の節分の記事を読み、ああ、去年も立春寒波だったんだなぁと思いを馳せる。
大雪が予想される地域に被害がないといい。
窓の外の曇り空が優しい。
