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節分豆まきなし

豆まきをしたことがない。
田舎では幼稚園や保育園に行かなかったし、東京の小学校に上がるまで、世間でそういう風習があることも知らなかった。

私にとっての「鬼」は魔界の生きものではなく、借金取りだったり、父を騙す詐欺師であったり、私を不登校に追い込んだいじめっこであったりした。
世の中では、幽霊や妖怪なんかより人間のほうがよっぽど怖い。
この世のものでないものに、私はむしろ親近感を持っている。
鬼さんよ、遊びにおいで。

豆まきの風習を知ってからも、我が家はその必要性をまったく感じなかった。
ただ、母も私も歳時記に則った暮らしに憧れてはいたので、ヒイラギを飾ったりはした。
鰯の頭は、臭いが近所迷惑になるといけないので遠慮した。

そもそも、「柿の種ピーナッツなし」を好む私である。

「節分豆まきなし」でも不都合はない。

明日から気温が下がると言われていて、関東でも雪が舞うところがあるらしい。
ベランダで洗濯物を干しているときに感じる風の冷たさ。
けれども、光はもう春だ。

何年も何年も病人や年寄りを看ていたせいか、私は次の季節が来るのが怖い。
桜が咲いたころは、若葉のころは、灼熱のころは、葉が赤く染まるころは、いま看ている人はこの世にいないのではないかという怯えが常にあった。
対象の人物がいなくなってしまってからも、その癖が抜けない。

だから年に4度の「節分」は、私に季節の交替を告げるのと同時に覚悟をつけさせる日だ。
何があっても私がなんとかしてみせるという決意の日。
できるはずだ、だって私は強くて有能だものという、実態とは真逆のまじないをかける日。

生きていくには夢や希望が必要だというけれど、私にはそういうものはない。
なくても生きてこれたし、これからも生きていけると思う。
ものごとのひとつひとつに、意味や意義を求めることもしない。
「〇〇とは、ひとことで言うと」みたいな問いも苦手だ。
そういうシンプルさや簡略化や概念化を、私は好まない。

「自分探し」ってなに?
私はここにいて、柿の種の中からピーナッツをより分けている。
すこし飽きてきたプリンセチアの濃いピンクの花に、冬を押しのけた光が惜しみなくそそいでいる。

今夜は、ピーマンを入れたキーマカレーを作ろう。
指先のひび割れも、誰かの哀しむ姿も、私に痛みを与え続けているけれど、これが私。
不満も欲望もたくさんあるけれど、悟った人になりたいと思わない。
誰かに希望を与えるためになどと、他人が言っているのを耳にするととても恥ずかしい。
私はおこがましくて言えない。
最期までみっともなくあがくのが私で、ほかのどこにも私はいない。
それでよし。

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