豚はハラーム(禁止)か?:食べられるものがないと悩むイスラーム教徒の留学生たちへ
カップラーメン生活への不安
日本に暮らすイスラーム教徒の留学生たちが食べ物に困っているという話を聞いた。日本の食品には、大抵、豚由来の成分、あるいはアルコール成分が含まれていると信じ込んでいるからだ。出身地域や、個人によっても基準はまちまちだが、個人的な印象では、アラブよりも、南アジア・東南アジアのイスラーム教徒たちの方が、より厳格だ。もちろん、ひとつ一つの食品の原材料をつぶさにチェックしてみれば、案外食べられるものが多いことにも気づけるはずなのだが、それも漢字が読めてチェックする時間的余裕があったうえでの話。となれば、どうしても母国から持ってきた、あるいは送ってもらったハラール食品に頼らざるを得ない。毎日がカップラーメン生活という深刻な事態に陥っている学生も少なくないのだという。
アッラーは「豚がタブーだ」と言ったのか
日本に生まれ、日本語で教育を受け、30歳過ぎてから入信し、アラビア語をそれなりに理解し、聖典クルアーンをアラビア語から読んで、意味を理解することもできるイスラームの信徒である筆者の個人的な見解ではあるが、「豚はタブー」つまり、宗教的な禁忌だとする考え自体に囚われることはないと申し上げたい。別の言い方をすると、豚を徹底的に避けるという食に対する考え方は、アッラーの教えそのものとしての「法規範」というよりむしろ、アッラーの教えを人間が拡大解釈した結果うまれた「文化規範」に過ぎないのだから、それに縛られることはないということ。豚をタブーとして、豚に由来するもの一切を遠ざけ、排除せよなどと言う命令は、クルアーンのどこを探しても降されてはいない。
「豚肉は「リジュス」だ」とは?
聖典クルアーンの基本は、食べたいものを食べなさい[1]である。
ただしそこには例外がある。食べ物で言えば、「豚肉」。「豚」ではなく「豚肉」だ。アッラーは、わざわざ「豚肉」としているのだ。なぜ豚肉か?クルアーンを確かめておこう。聖典においては、計4回「豚肉」が禁じられる旨の啓示が降されている[2]。そのうちの一つに、《実にそれは不浄である》[3]とある。アラビア語では「リジュス (不浄である)」。「リジュス( رجس )」とは、象徴的に「汚れていること」を示す語[4]。「汚れそのもの」と言うより、「汚れているから近づかない」という「汚れ」である。「汚れている」という判断は、汚れそのものにあるのではなく、それを不浄と見なす側にある。そう言われたら、避けるのが賢明である。その判断が積み重なることで、豚肉は「絶対的タブー」と信じ込まれることになる。
「汚い」をアラビア語に尋ねる
ところで「リジュス」の語と置き換え可能な「汚い」を表す語に、「ナジャス( نجس )」がある。「リジュス」が象徴性、普遍性を帯びているのに対し、「ナジュス」は、分析的だ。というのは、この言葉は、アラビア語の「汚さ」をもう少し具体的に示してくれているからだ。「ナジュス」には、客観的、物質的な汚さ、つまり「汚れ」そのものを示す側面と観念的精神的な汚さの側面とがある[5]。
この「ナジュス」と重ね合わせた時、「リジュス」という「汚さ」から浮かび上がってくるのは、客観的で物質的な汚さが、観念的精神的に「汚い」と判断された「汚さ」、まさに象徴としての汚さである。「不浄である」と訳され、手の施しようのない定言的な汚さに圧倒されそうな「リジュス」であるが、実は、そうとも言い切れない。豚肉の客観的で物質的な汚さを除去することができれば、それが「不浄」という判断、つまり禁止の対象から外れる可能性が出てくるからだ。
なぜ絶対禁止だったのか?
当時の衛生環境の中で豚肉の汚さを除去するもっとも簡便な方法は、何であろうか。十分に火を通せばよい。啓示が降ったころのアラビア半島の状況を想像するまでもなく、日本でも、中国でも、欧米でも豚肉を生のまま食べる習慣を持った人々を聞いたことがない。牛肉や羊肉や馬肉は、生で食べても、豚肉だけは、加熱する。つまり、豚肉の生食は極めて危険なのだ。場合によっては、死に至ることもある状況を先取りして、啓示は、厳しく現世に対する警告の意味を込めて「リジュス」の語を用いているのではなかろうか。加えて言えば、豚の飼育には大量の水が必要とされる。オアシスで育てるには適さない家畜だったということも背景として考え得る。
ただし、だからと言ってアッラーが豚の存在自体を否定しているのかと言えばそれは違う。「真理の道から迷い去った者たちの喩え」ではあるが、「地上でサルまたはブタとされた者」[6]という啓示もある。その際もブタが「リジュス」などとは言っていないのだ。
タブーのタブー
つまり、人間が絶対的に避けるべき汚さを持っているのは、豚ではなく豚肉なのだ。となれば、もしも豚肉から客観的に物質的な汚さが除去されているのであれば、その豚肉に限って言えば、食べても問題ないことになる。もはや禁止すべき理由は取り除かれていると言えるからだ。骨やゼラチンは、習慣的に避けている方も多いかもしれないが、この理屈に沿っていえば、その習慣に必要以上に囚われる必要はないことになる。
食品以外の豚由来の製品、たとえば、革製品やブラシなどを忌み嫌う必要もない。アッラーは天と地とその間にあるすべてのものを人間の用に供するために創造された[7]のであるから、豚を禁忌の対象にするのではなく、逆に、その有効な使用方法こそが探求されるべきだとさえ言い得よう。
来世の所在
伝統の墨守をよしとし、それに束縛されていることにさえ気づかぬうちに、そこにアッラーの教えの真理があるとさえ思いこんで、その価値観に固執して、豚がタブーであることを疑わず、場合によってはそれを信徒以外の人々にも押し付ける。これこそ「文化規範」としてのイスラーム。そしてそれがしばしば、イスラーム教徒たちの偏狭さ、頑迷さを引き出し、ムスリムがマイノリティであるような世界では自分たちを生きづらくする。こうした信者のありようは、イスラームの教えの停滞の元凶でさえありうるのだ。
また、「宗教的禁忌」と言うと、禁忌とは一切関係のない純粋な世界が存在するかに思いがちだが、イスラームの来世は、現世と隣り合わせ。量子の世界がそうであるように、「ゼロ」と「一」は絶えず入れ替わって、つねに両義的なのだ[8]。つまり、「リジュス」は、あの世とは関係のない汚れなのではなく、この世で克服されるべき汚れである(喜捨のザカーが「浄め」の意味を持つこととも連関している)。アルコールや、賭け事の汚れは、依存症を回避し、理性を十分に保つことによって克服されるということにもなりうる。
敬虔さを問う
したがって、日本に暮らす留学生の皆さん、「生の豚肉」にだけは気をつけましょう。それだけが最低限。文化規範が生み出したハラールマークの有無などに惑わされることはない。アッラーがムハンマドに教えているのも、食べたいものを食べなさいということ。文化・伝統に自分から縛られることが敬虔さではない。
クルアーンをアラビア語で直接読み起こし、自分の状況と照らし合わせて、アッラーの意図を引き出そうとしてみる。つまり、日々ささやかであってもイジュティハード[9]を実践してみる。
クルアーンは礼拝のときに意味も分からず唱えるものではなく、信徒たちの生活の規範の汲めども尽きぬ泉なのだから。そうやって、文化的規範の呪縛から自由になれるこのチャンスを生かしてほしい。そうした学的な営みを通じてアッラーに少しでも近づこうとすること、それこそが敬虔さでありそれを行なう者こそが「ラッバーニー」と呼ばれ得るのではなかろうか。もちろん、これも一つの読みの可能性に過ぎない。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
脚注
[1] 《言ってやるがいい。「私に啓示されたものには、食べたいのに食べることを禁じられたものはない》(「家畜章」145節 前段)。
[2] 「雌牛章」173節、「蜜蜂章」115節、「食卓章」3節、「家畜章」145節。
[3] 《ただ、死肉、流れでる血、豚肉ーーそれは不浄であるーーとアッラー以外の名が唱えられたものは除かれる》(「家畜章」145節)。
[4] 『リサーヌルアラブ』「リジュス」の項。
[5] 『リサーヌルアラブ』「ナジャス」の項。
[6] 《聖典クルアーン》「食卓章」60節。
[7] 《天と地とその間にあるものすべてをあなたがたの用に供した。そこにはよく考える者たちへの徴がある》(「ジャースィヤ章」13節)。
وَسَخَّرَ لَكُم مَّا فِي السَّمَاوَاتِ وَمَا فِي الْأَرْضِ جَمِيعًا مِّنْهُ ۚ إِنَّ فِي ذَٰلِكَ لَآيَاتٍ لِّقَوْمٍ يَتَفَكَّرُونَ (13)
[8] 量子論における「一」の両義性については、たとえば、拙稿「「1」でも「0」でもある「1」の世界:量子ビットと唯一神教」などを参照。
[9] 「イジュティハード」については、たとえば、拙稿「「イジュティハードの門の閉鎖」とは:ガザ―リー、ハッラーク、そして…」などを参照。
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タイトル画像:
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