断定の「だ」との上手な付き合い方ーーもう、「だめだ」は怖くない
強いな「…だ。」
日本語の「だ」は断定の助動詞。名詞や、動詞・形容詞の終止形などに接続して用いられる非常に強い言葉です。断定の「だ」に限らず「ダ」という音もとても強い。「だめだ」でも「ダメ出し」でも、二回ずつ出てきてしまいます。自分に言う時はもちろん、人から言われたときのダメージは相当なものになります。だから、「それってだめですか」と聞くのも相当勇気が要ります。
まだ、かつての教え子に、合宿の研究報告発表後にすべてのゼミ員からダメ出しを求めては成長の糧にしている学生がいましたが、それも今は昔のお話でしょうか。
この頃、人はものすごく傷つきやすくなっていますね。ありったけの勇気を振り絞って聞いても、いつも答えに恵まれるとは限りません。否定されたときには、また「だ」が噴出します。「どうして」「なんで」「でも」「だけど」などなど、「ダ行」の音のオンパレードです。そして、「やっぱりだめだ」と落ち込んでしまうかもしれません。
ダリールの「ダ ( د )」
さて、この「だ」の呪縛をいかに解くか。LINEのやり取りでの句点「。」でさえ、圧を感じるからと言って敬遠する向きもある状況の中です。ここでは、アラビア語に知恵を借りようと思います。なぜならば、アラビア語には、3つの「ダ」があるからです。一つ目は、「ダ( د )」、二つ目は「dh( ذ )」(ザ)、そして三つ目が、「ḍ( ض )」です。
一つ目の「ダ」が用いられている言葉として思い浮かぶのが、「ダッラ」という動詞。「示す」の基本語彙。「ダリール」という名詞形にすれば、「ガイド、案内」のこと。
そして、「dh」の子音が用いられているのが、「ズィクル( ذكر )」。「ダ」の呪縛を解くキーワードです。通常「訓戒」や「(神の名の)唱念」など訳されていますが、日本語の日常会話では、あまり使われる言葉ではありませんね。もうすでに、イスラーム教徒の秘儀のにおいがぷんぷんと立ち込めているかもしれません[1]。
「ズィクル」の「dh ( ذ )」
ところが、聖典クルアーンでは、《実にそれ(=アッラーのコトバ)は万有に対するズィクルにほかならない》(タクウィール章、27節)としています。結局、イスラームの話ではないかと思われるかもしれませんが、「万有」とは、ひとつには、世界中のすべての人々のこと。そこに信者であるなしの区別はありませんので、読者の皆様、お一人お一人にかかわるのです。
「ズィクル」の語義のニュアンスですが、漢字のイメージより実はもう少しソフトです。基本的には、記憶であり、思い出すことです。つまり、忘れないでほしい言葉だということなのです。
しかも、この語の語頭の子音「dh ( ذ )」は、アラビア語にあって、「それ自身、それ自体 ( ذات )」「何かの持ち主 ( ذو )」、あるいは、定冠詞を付して男性単数名詞の関係代名詞( الذي )を形成する子音です。この子音のおかげで「個別性」が際立っている[2]ように思われるのです。
「まっすぐ」であること
つまり、「ズィクル」は、ただ単に、決められたフレーズや、クルアーンの一節をイスラームの信徒や神秘主義者たちが唱える内向きの言葉ではないのです。一人ひとりが、あるいは一つ一つがしっかりと発せられてはじめてすべての人々に開かれた「ズィクル」になるということなのです。
宗教、信仰に関係なく世界の人々のための「ズィクル」だと聖典を解することができますが、そこにひとつだけ条件が付されています。《あなたがたの中でまっすぐであることを意志する者》のためとしているのです。
アラビア語では、「ヤスタクゥーム ( يستقيم )」の語が用いられています。直訳すれば、「彼がまっすぐに立つ」。
実はこの「まっすぐ」がとにかく、危ない。強い意志に裏打ちされていればいるほど、信じ込んでいればいるほど、危うくはないでしょうか。
選んだのは「国民」
2026年、世界はこれまでの戦争に加え、米国によるベネズエラ攻撃という新たの戦争行為で幕を開けました。米国、中国、ロシア、イスラエルなど、強力な覇権拡張主義を有する国家のリーダーたちは、それこそ、それぞれまっすぐに、歩を進めているのでしょうが、緊張と対立、分断と憎悪は高まり、犠牲者の数とその悲しみは留まることを知りません。
疲弊が顕著な地球環境に構わず、領土と資源を地勢的優位の確保が優先的に「正しいこと」になっているように見えます。欧州100年戦争後のウェストファリア体制、第1次世界大戦のヴェルサイユ体制、第2次世界大戦の国際連合がそうであったように、愚かなことではありますが、新たな抑止の枠組みの構築のために「戦争」が必要とされるかもしれないと言った言説が妙な説得力を持ってしまっています。国民はいても万民(アーラムーン)は不在のままです。
「ダード ( ض )化」の圧
こうした事態は、行き先を示す「ダリール ( دليل )」が、誤った確信によって、「ダラール ( ضلال )(迷誤=信仰のまっすぐな道から逸脱してしまうこと)」に変わってしまったと読むことができるのです。「ダード( ض )」は、発音の際、舌や口腔に強い圧がかかるため、内圧の高まりとつねに隣り合わせのアラビア語の特有の子音でした[3]。イスラーム神秘主義と総称される信仰の潮流とは別のレベルで「ズィクルのダード ( ض )化」とでも言いうるような内圧の上昇が進行しているのです。
したがって、何を思い出すのかが改めて大切なのです。思い出すべきは「ダメ出し」でしょうか「手痛い失敗」ですか。立ち直れないほどの「世間からの非難」「誹謗中傷」あるいは「地獄に落ちろ」など「呪いの言葉」でしょうか。そんな記憶を更新し続けていたら、自分が「ダード( ض )」の圧に圧し潰されてしまいます。
「…だ。」的断定との決別
そこで、世界のすべての人々のための「ズィクル」とは一体何なのかを具体的に知っておきましょう。その中の、もっとも簡便なズィクルの一つが、「ラー・イラーハ・イッラッラー(アッラー以外に神はない)」[4]なのです。
「ラー・イラーハ・イッラッラー」とは、いかなる地上の権力も、力も、アッラーによるものには、及ばないということを意味するのですが、紛らわしいものが多すぎて、どうしてもそちらに目も心も奪われてしまいがちなのが人の日常かもしれません。
思い出すべきは…
しかし「ラー・イラーハ・イッラッラー」もなお物々しいかもしれません。「アッラー」といった途端にレッテルを貼られかねないヘイトの現実もあるからです。
そんな時は、空を見上げて、空の青さを感じ、それを創造し、こうして見させてくれている途轍もなく大きな存在のことを思い出してください。
そうすればきっと、ダラール ( ضلال )のダード ( ض )が取れてダリール ( دليل )になり、気が付けば、「ダ」の呪縛から解き放たれるはずです。褒め称え、従うべきは、その大きな存在の方であることを思い出しましょう。
アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
脚注
[1] たとえば、アラビア語英語辞典として定評のある『ハンス・ウェア』をベースにしたアラビア語日本語辞書サイト『アラジン』でも、「ズィクル」の語に、イスラーム教の用語として「神の御言葉、訓戒」等を、イスラーム神秘主義の用語として「ジクル、ズィクル、唱名(*神に対する賛美の言葉を唱えること)」という訳語を掲載しています。注意すべきは、クルアーンが啓示された時点においては、ある程度体系化されたイスラームの信仰も、イスラーム神秘主義も存在していなかったということ。それらの訳語は、現在どのように使われているかを示すものであるため、言葉の意味を固有の文化的文脈に閉じ込めることになりかねません。啓示の本来的な意味を尋ねる際には、本稿が展開するようなその語の基本的な意味からの接近が必要になります。
[2] 「د」と「ذ」の違いについて、類例を補足しておきます。「درّ」「ذرّ」の違いです。「درّ」は動詞で「豊かに流れる」など、名詞では「乳」の意味。「真珠」の意味もあるが、流れでたものの延長線上にあると考えられます。他方、「ذرّ」は、動詞で「振りかける」、名詞では「粒、粒子」の意味を持ちます。こちらは、流れではなく、「振りかける」にしても「粒状のもの」が前提になっているように思われます。「思い出」にしても「記憶」にしても一人ひとりにとってのもの。「ذ」を個別性の子音という着想を得た二つの単語の比較であります。
[3] 拙稿「「ムハンマドは気が狂っているのではない」は本当か?ーー「ض (ダード)」の警鐘:「タクウィール章」第22~25節をめぐって」参照のこと。
[4] たとえば、拙稿「夜と昼、男と女:《聖典クルアーン》「夜章」をめぐって」参照のこと。
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2026年元旦の富士山上空の青空(筆者写す)
