「不浄」の厳格な排除という「不浄」
「不浄」の判断を下すのは
豚肉の不浄は、「リジュス」の語によって降されていた[1]。リジュスが「判断の語」であるならば、禁止は対象の本質ではなく判断の結果である。だとすれば、その判断の根拠が変われば、禁止のあり方も再考の余地があるのではないか。つまり、豚肉の不浄を決めるのは、それ自体の汚さと言うよりむしろ、判断する側。その判断が固定化してしまえば、リジュスであることは、焼こうが煮ようが変わらない。「リジュスだからタブー」だし、「タブーだからリジュスだ」という循環論法に放り込まれ、豚肉は、ついにムスリムたちの食の選択肢から排除されてしまう。
しかし、この禁止が、行為者の判断次第であるのなら、その判断さえ変えられれば、この宗教的禁忌をも変えられる。ムハンマドの生きた当時の衛生環境において、豚肉の生食は、「リジュス」として、人々に特別の注意を喚起しなければならないほどの危険性を伴っていたということの証左にもなりうる。
しかし、もしもこの禁止が、すでに一部のムスリム諸国あるいは個人の宗教的実践に見られるように、拡大解釈をへて、先鋭化し、豚肉のみならず、豚そのものにまで及んだとしたのなら、82億人のための慈悲慈愛の教えの世界の広がりは残念ながら頓挫してしまうように思う。イスラーム教徒は、豚肉どころか豚自体も避ける人々だという認識が広まると、加熱することで豚肉をむしろ好んで食べ、ブタ自体にも、嫌悪はおろか、時に親しみさえ持って接しているような人々は、イスラームとは相容れない価値観を持っていることになってしまう。
このステレオタイプの呪縛がイスラーム教徒との間に溝になりかねないし、差別や憎悪にさえつながりかねないと危惧してしまう[2]。この星に暮らすすべての人間たちに対して開かれている全人類に対する慈悲慈愛の教えであるはずのイスラームの姿はすっかりかき消されてしまう。
アルコールもリジュス
ところで、《クルアーン》において「リジュス」とされているものは他にもある。アルコールである。《誠に酒と賭け矢、偶像と占い矢は悪魔の業のリジュスである》[3]。ここでは、アルコールについてみておこう。リジュスであるということは、アルコールもまた豚肉同様に禁じられるということになるが、アルコールがリジュスでなくなったら、禁止が解除される可能性が出てくる。
簡単な例をあげておこう。ブドウが発酵すればワインになる。ワインの発酵がさらに進んで、アルコールが酢酸に変われば、酢になる。酢になってしまえば、もはや、ワインは、酩酊状態を引き起こす飲み物であることもやめる。
「酩酊」の惹起が禁止の理由であるとすれば、酩酊を引き起こさない酢は、禁止の対象にはなり得ないという解釈が成り立つ。
イスラーム法学派の見解
ワインから酢というような性質の変化を、イスラーム法学では「イスティハーラ」と呼ぶ。法解釈論の中には、この法理を積極的に採用するものとそうでないものがある。スンニー派四大法学派の一つ、ハナフィー学派は、積極派に位置付けられ、それによれば、アルコールは、その性質が変化してしまえば、もはや禁止の対象にならない[4]。オスマン帝国の公式解釈を担った学派であったという経緯から、シリア、エジプトなどで、大きな影響力を保っている。
これに対して消極的なのが、シャーフィイー学派である。イスティハーラを限定的にしか認めないため、法解釈は極めて厳格になる。東南アジア、イエメン、東アフリカに広がっているとされ、マレーシアやインドネシアで、ハラール認証が盛んにおこなわれる背景の一つにもなっている。
アルコールにかんして言えば、ハナフィー学派では、残留アルコールについて、酩酊を引き起こすかどうか、つまり、理性的な判断、つまり弁別能力に影響しない範囲のものであれば、寛容な判断が期待できる。
これに対し、シャーフィイー学派では、飲食物の中に1パーセントのアルコールの含有も認めたがらない。
「みりん」はハラームか
和食とのかかわりで一つだけ例をあげておこう。和食には欠かせないみりんに含まれる14%のアルコールの扱いである。含有率は、ビールより高いが、飲み物ではない。沸騰後1~2分の連続加熱で、沸点78度のアルコールは、子供や妊婦でも摂取に問題のない、ほぼ0%にまで下がる。
ハナフィー学派的に解釈すれば、アルコール分を飛ばせば、酩酊を引き起こす心配はないので、使用には、何の問題もないはずである。
他方、シャーフィイー学派的に解釈すれば、1パーセント未満の残留アルコールによってみりんは禁止の対象になり続ける。
豚肉の加熱処理でも同様の解釈の齟齬が生じるが、要は、解釈の立場の問題にすぎないということを明記しておきたい。それに囚われて思考を停止していることがあったのなら、それこそがリジュスに侵されてはいないか。みりんに限った話ではないが、ハラール認証に懐疑的になってしまう理由の一つはここにある。
いずれにしても、もとの啓示は一つ、なのである。
偶像崇拝、不信心のリジュス
聖典クルアーンの中で「リジュス」とされているものは限定的である。豚肉とアルコールのほかは、偶像、賭け矢、占い矢[5]、といった、具体的な物体のほかに、「信じない者たち」[6]や、「理性を働かせない者たち」[7]に対しても、「リジュス」の語が降されている。一般的な現代語訳では、「リジュス」を火獄に置き換え、これらの者たちは、「地獄」に落とされると解説する[8]。
しかし、アラビア語原文は未完了形で降されている点も考慮すれば、来世で確定的に起こる普遍的真実であるという理解のほかに、現世で「不浄とされる」という読み方も可能となる。
また、「心に病のある者たち」に対しても、彼らの「リジュス」に「リジュス」を重ねた[9]とあるように、それは増される性質を持つ。病の進行と捉えれば、それが現世で行なわれたという理解は現実的である。さらに「リジュス」が主観的判断の語という側面があることに鑑みても、リジュスとされた者たちの意識の切り替わりに、変化の可能性を閉ざさない読みを試みたい。
ラフマから解釈する
とはいえ、このリジュスは、追発酵や追加熱処理といった物理的処理で飛ばすことができない。ただ、これらの箇所に限って言えば、「カーフィル」や、「ファージル」とは言わずに、「信じない者たち」「理性を働かせない者たち」と降されているところに、ヒントがあるように思う。不信心なり、無道者なりの決めつけがないからである。つまり、信じること、あるいは理性を働かせることができれば、「リジュス」を外すことができると解することができるのではないか。
ハンバリー学派のイブン・カイイム・ジャウズィーヤは、「イスティハーラ」を法の目的論へ組み込んでいる。法は人間を苦しめるためにあるのではない。すでにアルコールとしての性質を失っているものを禁止とするのは、アッラーの慈悲慈愛(ラフマ)に反すると言う[10]。学派の見解の齟齬に目をとらわれがちなこの問題に対して、少しでもアッラーの大局的な世界観に近づこうとする解釈である。
心のリジュスを浄化する
たとえば「アバサ章」は、24節以降で、人間たちに直接呼びかけて、食べ物、大地に注がれる水、大地の畝、そこにアッラーがまかれた種、ブドウに刈り取られる若草・青菜、オリーブ、ナツメヤシ、庭園、果実、牧草が次々に列挙する[11]。あなたの食がどれほどアッラーの創造の恵みによるものなのかを、アッラーの存在の偉大を、しっかりと意識を使って、思い起こしてみよと、とりわけアラブ人にはわかりやすい例で示している。
特定の学派の見解を頑なに守り続けることをアッラーは求めていたであろうか。
食に対する感謝、そしてそれを創造し、こうして人間たちに供してくれている御方の慈悲慈愛。その広さ深さを彼の徴しを通して、確認し、更新し、信仰のリジュスを少しずつにでも浄化していく。クルアーンの読みを通じて信者としての在り方と理性の働かせ方を問い続けていきたい。今年のラマダーンも最初の10夜が過ぎようとしている。
アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
脚注
[1] 拙稿「豚はハラーム(禁止)か?:食べられるものがないと悩むイスラーム教徒の留学生たちへ」参照。
[2] この禁止が思われているほど絶対的でないことは啓示の文言からも明らかである。 たとえば飢えに迫られた場合は解除される(食卓章3節)。
[3] 「食卓章」90節。
[4] たとえば、12世紀のハナフィー学派の法学者、アッ=カーサーニー(ヒジュラ暦587年(西暦1191年歿)は、『Badāʾiʿ al-Ṣanāʾiʿ』كتاب الطهارة において「الرجس هو النجس」と述べ、クルアーン語「リジュス」をフィクフ上「ナジャス」として処理し、「もし性質の変化が起きていないなら許容される。
変化がないということは、ナジャスがターヒル(清浄)を圧倒していないことを示す。そして、 عين(本質)としてナジャスでないものの利用は、原則として許される」としている。
[5]「食卓章」90節。
[6] 「家畜章」125節。
[7] 「ユーヌス章」100節。
[8] たとえば、サーブーニーは、地獄の懲罰であり、失望であるしているとし、合わせて、善が皆無である状態、現世で呪い・来世での懲罰などの見解も紹介する。『サフワッ・タファーシール』390頁。
[9] 「悔悟章」125節。
[10] イブン・カイイム・アル=ジャウズィーヤ『Iʿlām al-Muwaqqiʿīn ʿan Rabb al-ʿĀlamīn』
