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パク・ヘヨン新作「誰だって無価値な自分と闘っている」の4枚のポスターは宣伝を超え、すでに物語である

 久しぶりに面白い韓国ドラマのティザーポスターを見た。 
 「また!?オ・ヘヨン」「私のおじさん」「私の解放日誌」の脚本家パク・ヘヨンの新作ドラマ「誰だって無価値な自分と闘っている/모두가 자신의 무가치함과 싸우고 있다」(主演は、ク・ギョファン、コ・ユンジョン/2026年4月18日(深夜)よりNetflixで配信)略して「モジャムサ/모자무싸」のそれだ。

 邦題は、紆余曲折の末、当初の「誰だってもっと自分を好きになろうとしてる」から「誰だって無価値な自分と闘っている」に落ち着いた。これについては、すでに別のnoteで怒っているので、よろしければそちらもどうぞ。「パク・ヘヨン作家の新作「みんなが自分の無価値さと闘っている」の邦題が自己啓発ポエムにロンダリングされて激怒した人がここにいる!〜表現はひとつじゃないということを「私のおじさん」のジアンの姿から考える」

 韓国ドラマの恒例どおり、3月に入ると、ポスタービジュアルやティザーが続々と公開され、少しずつ作品の全容が見えてきた。
 そして、4月4日の時点で、4種のポスターが出そろった。興味深いのは、この4枚のポスター、順に追っていくと、このドラマの骨格が見えてくる連作ポスターになっていることだ。

 複数の写真によってひとつのメッセージを伝える「組み写真」という手法がある。今回の4枚は、まさに「組みポスター」と呼びたいほど、緻密に構成された連作だ。1枚ごとに感情のフェーズが変わり、最後に安らぎという境地に辿り着く。それは、ポスターという名の「4幕構成の物語」を読んでいるかのようでもある。
 放送前からすでに、視聴者をパク・ヘヨン作家の世界へと誘っているこれらを一枚ずつ読み解いていきたい。
 



第1弾:【葛藤】〜「誰だって、自分の無価値さと戦っている」という静かな宣戦布告


 第1弾のポスターは、主人公ファン・ドンマン(ク・ギョファン)と、作品タイトルロゴが、シンプルにデザインされたものだ。

 最初にドラマタイトルが報じられた時は、「なんて長いタイトルなんだろう」と思ったし、韓国の視聴者はどうせ略すだろうと気にはしていなかったが、むしろその弱点を「モジャムサ/모자무싸」と短縮しやすく工夫をしているタイトルロゴが、真っ先に目に入る。

 そのロゴデザインは、映画監督を志望する主人公が、20年間鳴らすことができていない「アクション!」の合図をする「カチンコ」と、フィルムの「パーフォレーション(縁にある送り穴)」を巧みにサンプリングし、そのグリッドの中に長いタイトルを窮屈に収める。
 デジタル全盛の今、あえてアナログツールの造形を取り込むことで、ドンマンの時代錯誤的なこだわりや執着と、自己の檻に閉じ込められた閉塞感を感じずにいられない。

 次に感じたのは、「外に向かう暴力」「内に沈む無力感」の断絶だ。
 影は巨大で、しかもパンチを打つ姿勢をとっている。一方で、実体のドンマンは、地面にしゃがみ込み、ほとんど動けない。気持ちは闘っているのに、身体は動かない。よくよく見ると、先のタイトルロゴが、影のドンマンの腹に、パンチを打ち込んでいるように見える。
 映画を撮るという目的が、今の彼を苦しめ破壊している。パク・ヘヨン作品にたびたび出てくるセリフ「壊れてるみたい/망가진 것 같아요」だ。

 ほとんどモノクロの世界は、喜びもない、怒りもない、希望もない。あらゆる感情の起伏が削ぎ落とされ、世界との接続も曖昧になった、フラットで乾いた雰囲気を映す。
 ただ、光は存在している。完全な絶望ではない。
 外に向けたはずの拳は、内側に沈んでいく。
 すべては、この閉じた戦いから始まる。そう告げる、ドンマンの静かな宣戦布告が、第1弾のポスターだ。

第2弾:【執着】〜「俺の人生、なんであんたに…」密室に堆積した20年の澱


 第1弾で、外に向けたはずの闘いは、この第2段で、内なる闘いへと反転する。映画を撮ることができなかったファン・ドンマンの20年間の執着と挫折が、密室の中にびっしりと詰まっている。

「俺の人生、なんであんたに気に入られなきゃいけないんだ?」

 乱雑に積まれた本は映画関係のものだろうか。クリップで留められた紙の束は、未完のシナリオか、それとも構成メモか。最新のデジタル機材は、古い型のものばかりが並ぶ。そこにあるのは、活躍できなかった人間の頑なさと、処理されなかった夢、そして時間だけが堆積した空間だ。

 ハンディカムを構えるその姿は、撮るためというより、何かにしがみつくための装置のようにも見える。

 万物を掴み取ろうとする手のように、谷啓の「ガチョ〜ン」のように前に伸ばされた手。それは、何かを拒絶しているのか。それとも、必死に掴もうとしているのか、極めて切実なジェスチャーだ。

 だからこそ、このファン・ドンマンは滑稽で、同時に痛々しい。
 外に向かうはずだった意志は、行き場を失い、世界を掴むはずの手は、空中で静止したまま固まり、夢の世界で閉じこもっている。
 「自分の無価値さと闘っている」不器用な人間の、あまりにも正直なかたちが、この第2弾のポスターにはある。

第3弾:【共鳴】〜「あの、パワーってどこで…」地獄での握手、漂流する二人のぬくもり


 第3弾では、夜の街に放り出された二人の、寄る辺なき漂流を感じる。
 ドンマンの隣にいるのは、社会的に阻害されているドンマンを通じて、自分自身の傷を癒し、彼の無価値さを輝かしい価値へと変えていくと言われている映画プロデューサーのピョン・ウナ(コ・ユンジョン)だ。

「あの…パワーって、どこで売ってるかご存知ですか?」

 二人の視線は合っていない。会話しているようにも見えない。背後のブラインドが、屋内という安定した世界から二人を遮断している。それぞれ別の方向を見つめていて、かなり疲れているように見える。
 それでも、コピーの「自分に足りないものを買えたらいいのに」という飢餓感は、二人のあいだで共有されている。 第2弾で見られた個人の内側の闘争が、第3弾では、同じ痛みを持つ他者と共鳴し合っているのだ。 
 これは、パク・ヘヨン作品における、くたびれた人間同士の地獄での握手が最高の癒しという、あのパターンに見える。 

 画面を覆う、冷たい青と、人工的な橙の光の不自然な混ざり合いは、外界の温もりではなく、作られたぬくもりだ。
 社会に放り出されたはずの二人は、まだどこにも接続できていないままだが、共鳴する彼らの心の渇望は、安らぎへの長い漂流を予感させる。

第4弾:【解放】〜「昔は仲良しだったよね」東西の聖画が示す、究極の安らぎの境地


 第4弾のポスターを目にした瞬間、これまでの3枚が「道標」であったことが確信に変わった。

 中央に横たわるファン・ドンマンの姿は、仏教の「涅槃図(ねはんず)」と、キリスト教の「最後の晩餐」、この二つの聖なるイメージを大胆に引用し、彼が辿り着くだろう「安らぎの境地」を描き出している。
 
 そうすると、第4弾のポスターを含め、今まで見てきたポスター4枚は、パク・ヘヨン作品において主人公たちが辿るプロセスである「葛藤」→「執着」→「共鳴」→「解放」を、鮮やかに体現している。
 
オ・ヘヨンとドギョン、ドンフンとジアン、そしてクさんとミジョンが、息づまる日常から満たされた境地へ変化していったそのプロセスが、この連作ポスターに表現されているのだ。

「昔は仲良しだったよね。等,し,く, なに者でもなかったあの頃」

 注目すべきは、ドンマンを取り囲む12人の人物たちだ。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が、イエスの「この中に私を裏切る者がいる」という告白に弟子たちが激しく動揺する瞬間を描いたように、このポスターからも尋常ならざる緊張感が漂っている。

レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」

 周囲に座る12人のうち、8人はドンマンより先に映画監督としてデビューした「8人会」の仲間たちだ。彼らはドンマンにとって、己の自負心を脅かし「無価値さ」というプレッシャーを強いてきたライバルであり、時には自分を追い抜いていった裏切り者のように映ったこともあっただろう。

「私の解放日誌」でクさんが言う
「1対多数のときはいつも、1が多数を煩わしく思う。多数は1を煩わしいとは思わないんだ。」は、
「モジャムサ」では、ドンマン対8人会なんだろう。

 「最後の晩餐」は多くの画家により描かれた題材だが、裏切り者と言われたユダがテーブルの手前に描かれたものもある。ポスターのテーブルの前にいるのは、ファン・ドンマンと激しく対立する映画監督ジョンセ(オ・ジョンセ)と、彼の理解者になりそうなウナが、他の人間とは違った扱いであるかのように配置されているのも面白いところだ。

 「最後の晩餐」のイエスは、弟子たちと共に最後の食事をしながら、十字架の道を選び、その運命を受けいれる姿が描かれている。ドンマンが、周囲の視線や葛藤から解き放たれ、かつて自分を脅かした人々、自分を惨めにさせた存在に囲まれながらも、誰にも左右されず、自分の「無価値さ」を受け入れていく姿を示唆している。

 一方で、ドンマンが横たわる姿は、仏教の「涅槃図」の釈迦そのものでもある。「私の解放日誌」で、テフンの愛聴するアルバムが「涅槃」という意味を持つ「Nirvana」であったことが想起される。

仏涅槃図/根津美術館(文化遺産オンラインより)

 涅槃(ニルヴァーナ)とは、一切の煩悩の火が消え、絶対的な静寂を得た状態を指す。横たわる姿は、映画監督を目指して20年葛藤してきたドンマンの、執着、怒り、焦燥。 それら魂を焼き尽くすような苦しみの火が消え、絶対的な「安心」を得るだろう姿が、この横たわるドンマンに投影されているように見える。
 ここで宗教画のレトリックが使われているのは、特定の信仰を語るためではない。人間が「無価値さ」との戦いの果てに辿り着くべき魂の沈着点、その計り知れない深さにある「境地」を可視化するための、最高度のメタファーとして機能しているのだ。

 ところで、「涅槃図」をイメージした理由はもうひとつある。ドンマンは猫のヨルム(여름/夏)を飼っている設定になっているが、このポスターの中には見当たらない。見えないものには意味がある。
 釈迦の入滅の際、猫はネズミを追いかけていて死に目に間に合わなかったとされ、伝統的な涅槃図には猫の姿は描かれない。しかし、猫の不在には、もう一つの、よりパク・ヘヨン的な意味が隠されている気がしている。

 猫の名前「ヨルム(여름)」は、韓国語で「夏」を意味すると同時に、その響きは「열음(ヨルム):開くこと、開放」を強く想起させる。
 ここで思い出すのは、映画「サウンド・オブ・ミュージック」で、マリアが修道院長に諭される有名な一節だ。

When the Lord closes a door, somewhere He opens a window.
神様がドアを閉められるとき、どこかで必ず窓を開けてくださる

 パク・ヘヨン作品の主人公たちは、みな揃って、閉ざされた世界の中に閉じこめられている。「私の解放日誌」のミジョンは、解放クラブについて聞かれて「突き抜けて行くんだ。ここからあそこへ」と言っている。
 
 20年もの間、映画監督への門を閉ざされ、「無価値さ」という暗闇にいたドンマン。そんな彼が飼っている猫の名前が、「夏」と「開放」というダブルミーニングを持つのは、閉ざされた世界で唯一、プレッシャーを感じることなく外の光を感じさせてくれる、文字通り「神の比喩」としての聖域のように感じさせるのだ。
 劇中で、ドンマンが猫を「ヨルム!」と呼ぶたびに、彼が無意識に願っている「自分を閉じ込めているこの閉塞感を開きたい」という気持ちが見え隠れするかもしれないと思うと、今から心が躍るのだ。

まとめ:視覚が予言する物語の密度


 今回の一連のティザービジュアルは、韓国ドラマを楽しみにする私たちに全く新しい「視点」を提示してくれた。ティーザーからメインへと至るポスター群を、単なる広告として見過ごすか、あるいは物語の骨格が刻まれた「連作ポスター」として読み解くか。その違いは、ドラマという体験をどれだけ深く味わえるかに直結している。

 これほどまでに緻密に設計されたビジュアルを提示できるということは、裏を返せば、ドラマ本編もまた、一分の隙もなく作り込まれていることの証明に他ならない。脚本家パク・ヘヨンが抽出した「無価値さ」と「安らぎ」という深淵なテーマを、製作陣がどれほどの解像度で受け止め、映像へと昇華させたのか。その圧倒的な熱量は、すでにこの4枚のポスターから溢れ出している。

 事前情報であるポスターを一枚ずつ丁寧に紐解くことで、私たちはすでに、物語の核心へと続く「道標」を手に入れた。

 私たちは単にドラマを「見る」のではない。このポスターたちが予言した、過酷の先にある安らぎの境地を、自らの目と言葉で確かめに行くのだ。
 その旅路が、大いなる期待を裏切らないものであることを、パク・ヘヨンマニアの私は、強く確信している。



私なりの視点ですが、あなたにはどう届いたでしょうか。異なる視点が交差して、このテーマがより深く、広く広がることを楽しみにしています。







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