パク・ヘヨン作家の新作「みんなが自分の無価値さと闘っている」の邦題が自己啓発ポエムにロンダリングされて激怒した人がここにいる!〜表現はひとつじゃないということを「私のおじさん」のジアンの姿から考える
作家の尊厳が傷ついているのを怒らなくてどうする?
2026年4月5日未明、パク・ヘヨン作家の新作「みんなが自分の無価値さと闘っている/모두가 자신의 무가치함과 싸우고 있다」の愚にも付かない邦題(書きたくもないが「誰だってもっと自分を好きになろうとしてる」という自己啓発ポエムであった)が「誰だって無価値な自分と闘っている」という、かなり韓国語タイトルに近いものに改変された。
私が怒ってたのは、パク・ヘヨン作品の世界観を少しも表現していないことで、それについては「パク・ヘヨン作品は、ドラマを超えた、終わらない「パク・ヘヨンの解放日誌」〜あるいは、みんなが自分の無価値さと闘っている」に書いた。
きっちり書いたが、怒りは収まらないので、昨日もしつこく投稿した。
もう話題になってないと思いますし、みんな気にしてないと思いますけど「モジャムサ」の邦題、まだ怒ってる(笑)作家の精神を、マーケティングかなんか知らんが、自己啓発ポエムに洗浄するなって怒ってる。怒り続ける。
— ぷりぷりbarny (@pripribarny) April 3, 2026
そして、また溢れる怒りを(すみません)再び noteにぶつけようとしていたが、一応、落着したので、この件については、これ以上、深く掘り下げないし、もう2度と同じことをするなとだけ言う。そのためには、再発防止策だぞ!とも言っておく。
改変されて、こんな投稿をした。
正式に「誰だって無価値な自分と闘っている」になったんだな。パクヘヨン作家の尊厳を守るためにも、ただ変えるな!と言う感情ではなく、理由を述べなきゃあかんと思って述べた。作品と共に闘ったよ。よかった。 https://t.co/e9C72Lbea9 pic.twitter.com/PpkseiOC9H
— ぷりぷりbarny (@pripribarny) April 4, 2026
同じように、邦題に違和感を抱いた人たちが、口々にそのモヤモヤを投稿し、結局、Xのトレンドにまでなった。

改変に、SNSの声が反映されたかどうかは不明だ。関係者に話を聞くと、邦題を決定する際に、脚本は見られても、パイロット版しか見られないこともある、決定の際の材料が少ないということもあると言う話を聞いた。
確かにこの作品は、先月まで撮影していた。配信権しか持たない場合、内容の把握がし難いといういう事情もあるだろう。
ましてや、私がいくらネットで声を上げても、そんなものは、鼻くそみたいなものだと言うのもわかっているから、自分の声が改変のきっかけになったなんて少しも思っていやしない。
それでも感謝されてるようなので、いや、私のお陰じゃないよと思ってるし、それぞれの人間の表現の仕方はそれぞれだよと言いたくて書いてる。
なぜなら、それはパク・ヘヨン作品では、普遍的に描かれていることだからだ。
ジアンにとって手話とは
私は「私のおじさん」の5話が大好きだ。
月が見たいというお婆ちゃんを連れ出すのに、ドンフンが手伝ってくれるが、どこかジアンは面倒臭そうだ。途中まで手を貸してくれたドンフンの手を振り払って、丘に登っていく途中で、OST「Dear Moon」が流れ出す。

Dear moon my moon
どうしても近づけない
早足で追いかけても 届かないあの月のように
Oh moon like moon
どうして消えてくれないの
背を向けて逃げ出してみても
ついてくるあの月のよう
無口で無表情なジアンのドンフンへの切実な気持ちが、彼女の自身の言葉ではなく、OST「Dear Moon」の歌詞を通じて伝わってくる(だから、韓国ドラマのOSTの歌詞は聞き逃してはいけない)。
このOSTには、届かない気持ちをどう伝えるかという葛藤が流れている。
月は誰もが見えるのに触れることができない。感じているのに、言葉にできない。伝えたいのに、声が出ない。そのままジアンの感情の在りようだ。
この歌詞の中に、
手を振るよ
あなたを呼ぶ手話
ここにあなたとよく似た
独りきりの存在がいるよ、と
という歌詞が出てくる。
手話は、手だけでなく表情も使ってコミュニケーションする言語だ。
ジアンがお婆ちゃんと手話で話す時の表情は、普段では見せない、格別に柔らかくてやさしいものだ。
彼女は無感情なのではない。言葉ではうまく表現できなかっただけなのだ。

最終回で、ジアンは新しい職場で一歩を踏み出している様子が描かれる。
どこかのコミュニティセンターで、手話を教えているシーンのジアンは、明るく、生徒たちと自然に通じ合っている。
つまり彼女にとって「手話」とは、声の言語ではなく、身体の言語として、自分の気持ちを差し出すことができる場所だったのだと思う。

自分の存在を表現する方法はひとつじゃない
パク・ヘヨンの作品には、そうした「言葉にできない感情」が一貫して描かれている。
「私の解放日誌」のミジョンもクさんも言葉数が少ない。それでも二人は「崇拝」という言葉だけを頼りに、深く共鳴していく。解放クラブのメンバーは、それぞれ日記に自分の気持ちを表現して行く。
その真逆の存在として、「私のおじさん」のギフンや「私の解放日誌」のギジョンやチャンヒという、言葉が抑えられないキャラがいるのも印象的だ。
言葉が少ない人もいれば、あふれてしまう人もいる。
そしてそのどちらも、「ここに、あなたとよく似た独りきりの存在がいる」と、誰かに向かって伝えようとする、その表現なのではないか。

この人もまた「俺はここにいる!」と叫んでいる。
中東情勢の緊張が高まる中で、日本政府に対して声を上げる人が増えている。デモに参加する人もいれば、SNSで発信する人、首相官邸に意見を送る人もいる。その表現のかたちは、ひとつではない。
エンタメのタイトル問題だって同じだろう。私はSNSに怒りを綴ったが、それは私なりのやり方に過ぎない。表現のかたちは、それぞれにある。
そのどれもが、誰かに向かって何かを投げかけようとする行為なのだと思う。そしてそれはきっと、「ここに、あなたとよく似た独りきりの存在がいる」「俺はここにいる!」と、投げかけることなのではないだろうか。
きっと「誰だって無価値な自分と闘っている」の主人公たちも、苦悩の末に、自分だけの道を見つけるはずだ。
私なりの視点ですが、あなたにはどう届いたでしょうか。異なる視点が交差して、このテーマがより深く、広く広がることを楽しみにしています。
