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「誰だって無価値な自分と闘っている」〜この切実な叫びを、ジェンダーという正論で検閲できるのか。パク・ヘヨン作品を正しさの檻から解放しなきゃ!

 2026年5月10日付で、ハンギョレ21に『すべての人への憐れみ、女性の前では後ずさりする「誰だって無価値な自分と闘っている」』という、現在配信中の韓国ドラマ「誰だって無価値な自分と闘っている」このドラマの脚本家であるパク・ヘヨン作品について書かれた記事が掲載された。
 記事は後で引用するが、私の第一印象は、記事を書いた批評家はきちんと作品を観ているのだろうかというもので、私は取るに足りないものと流していた。しかし、一晩経つと、その記事はSNSを通じて広く共有されており、その記事に対する共感の投稿が溢れていて驚いた。

Xで拡散されていた投稿。リツイート、いいね!表示回数が、バズっていることを物語っている


 パク・ヘヨン作品について、「また!?オ・ヘヨン」で知ってから、なみなみならぬ(笑)思いを持っているが、万人に受けるようなものじゃないだろうなということは薄々承知している。だから、ハンギョレ21の記事に対する反響には「え? あの記事の何がそんなに共鳴を呼んだのか?」と驚いた。

 「どこに閉じ込められたのか分からないけど、突き抜けていきたい」と言って葛藤し、日記を書き綴り、解放へと向かったミジョン。彼女やクさん、あるいはギジョンやチャンヒ…いや、もっとたくさんのキャラクターをこれまで解放してきたパク・ヘヨン作品が、今、なんだかよく分からない「正しさ」という枠の中に閉じ込められそうになっている気がした。

今度は、作品を解放しなきゃいけない。そう思った。

この記事に対する私の考えと、フィクションに何を求めるのか、そして常々感じているSNSの重苦しさについて書く。



記事には何が書かれていたのか


 まずは、SNSで驚くほどの共鳴(あるいは検証なき同調)を呼んでいた、ハンギョレ21の記事を引用したい。長いが全文和訳を掲載する。
 【注】8話の放送が終わった時点で記事は配信された。


『すべての人への憐れみ、女性の前では後ずさりする「誰だって無価値な自分と闘っている」』

『ドラマ「誰だって無価値な自分と闘っている」(JTBC)は、20年目の映画監督デビューを準備中のファン・ドンマン(ク・ギョファン)と映画会社の企画PD ピョン・ウナ(コ・ユンジョン)を中心にした物語だ。 スチールカット出典:スタジオ・フェニックス、SLL、スタジオ・フロー
(2026年5月1日付け ハンギョレ21より)

パク・ヘヨン作家の新作「誰だって無価値な自分と闘っている/モジャムサ」兄弟愛で固く結ばれた男性共同体…家父長制によって批判の対象とされる「母親たち」
 パク・ヘヨン作家のドラマが始まると、どこからともなく論争の場も一緒に開かれる。今回もそうだ。「誰だって無価値な自分と闘っている」(JTBC、以下「モジャムサ」)が放映される日には、SNSに正反対の感想が並ぶ。
 告白すると、「私のおじさん/나의 아저씨」(tvN)を「人生ドラマ」に挙げる人と私の間には、渡りがたい川があると思っている。善し悪しの問題ではなく、好みと感性の違いゆえだ。もうひとつ告白すると、私はパク・ヘヨン作家の作品が好きだ。シットコム作家だった頃から好きで、新作が出るたびに胸が躍りさえする。と同時に、複雑な感情も生まれる。彼女の作品が男性的な眼差しとファンタジーを反映していると判断するからだ。「私のおじさん」をはじめ、新作が出るたびに好き嫌いが分かれる理由のひとつでもある。誰かの「人生ドラマ」を何本も生み出しながら、断固たる「嫌い」の感情をも呼び起こすような作家は珍しい、という意味で彼女は論争的な作家だ。

相反する感情が生まれる理由
 「モジャムサ」は、20年間、映画監督デビューを準備し続けているファン・ドンマン(ク・ギョファン)と、映画会社の企画プロデューサー ピョン・ウナ(コ・ユンジョン)を中心にした物語だ。「売れている友人たちの中で、自分だけが売れずに嫉妬と羨望で狂ってしまった人間がいる」という制作陣の紹介通り、ドンマンは映画人たちで構成された「8人会」の中でただひとりデビューできず、周囲に迷惑をかけながら悪態を吐き続ける。
 そんなドンマンと絡み合うことになるウナは、両親に捨てられた経験を持ち、職場では誰とも繋がれないまま孤立している。彼らはそれぞれの形で人間の内面を見せる。ドンマンは、私たちが見て見ぬふりをしたい「ギルティ」な感情――持続的な失敗感、承認への飢え、嫉妬で狂ったアンチのような心理、交通事故を面白がって眺める破壊的な本能――を生の形で晒す。
 ウナは、私たちの中にある根源的な不安と冷笑、そしてその奥に隠された渇望を体現する。8人会のメンバーたちもそれぞれ自分の「無価値さ」と戦っている。ドンマンと最も激しく対立する映画監督パク・ギョンセ(オ・ジョンセ)は、五本の映画を撮ってきたにもかかわらず、不安と劣等感を抱えているという点でドンマンと「同族」に近い。彼の妻で映画会社の代表でもあるコ・ヘジン(カン・マルグム)は、ギョンセとドンマンを呆れながらも、彼らを目覚めさせる役を担う。ヘジンが戦っている「無価値さ」とは、ひょっとしたらこの二人の男性を「大人」として生きさせようとする努力そのものではないだろうか。ドンマンの兄ファン・ジンマン(パク・ヘジュン)もまた、夢と生活が崩れた廃墟の中で生きる人物だ。

「情けない奴」を理解させる力
 パク・ヘヨン作家には、社会の基準に弾かれて疎まれてきた人間たちを理解させる卓越した力がある。その力の源は普遍性にある。
 「最初は自分の日記帳を覗かれたようだったが、最後まで読んでみると他人の日記帳を盗み見たかのような、どこまでも普遍的な物語」というク・ギョファンの言葉の通り、普遍性を持つがゆえにパク・ヘヨン作品の登場人物たちは「自分」と同一視しやすい。「私のおじさん」を観た中年男性が突然、自分を哀れで無害なおじさんだと思い込んだり、「私の解放日誌」(JTBC)の「卵の白身」発言が数多くの京畿道民の琴線に触れ、一気に「サンポの三兄妹」へ感情移入させたりしたように。
 同一視の主たる感情は憐れみではないだろうか。もし感情ウォッチを着けて「モジャムサ」を観たなら、そのウォッチは赤く変わり「憐憫」という文字を浮かび上がらせるに違いない。
 見ていて居心地は悪いが、ドンマンは憐憫を引き起こす存在だ。「パーフェクトに貧乏」で「歩く死体」と言われながら、成功した友人たちの中で蔑まれ、「優れた自分を証明できないときは、壊れた自分を証明する」と悪態をつく存在を、どうして憐れまずにいられようか。そのドンマンの顔はすなわち私自身の顔でもある。資本主義社会の中で私たちはいかに頻繁に、自分の無価値さと戦いながら「価値ある自分」を証明しようと生きていることか。
 ドラマを観ているその瞬間だけは、自分の手に、そして誰かに500ウォン硬貨を握らせてあげたい気持ちになる。ドンマンとウナが感情を「クロス」させながらお互いを抱きしめるように、人間が人間を憐れみ、味方になるということは、極めて人間的で普遍的なことだ。
 しかしその「普遍」がすべての人に妥当かどうかは考えてみるべき問題だ。パク・ヘヨン作家の憐憫は、ジェンダーの前でしばしば後ずさりする。
 彼女の作品において、男性たちには理解と憐憫の手がかりが細密に与えられ、彼らを包む兄弟愛と男性共同体が存在する。「モジャムサ」にも、ドンマンを疎ましく思いながらも「8人会」という共同体があり、ドンマンとジンマンの兄弟愛がある。お互いをうんざりしながらも必要とし合う男性同士の社会は、解体されない。

男性にだけある兄弟愛と共同体
 女性は異なる形で配置される。「また!?オ・ヘヨン」(tvN)のヘヨン(ソ・ヒョンジン)、「私のおじさん」のジアン(IU)、「私の解放日誌」のヨム・ミジョン(キム・ジウォン)、そして「モジャムサ」のピョン・ウナまで、彼女の作品に登場する女性たちはひとりで孤立している。
 例えば彼女の作品には、職場でヒロインの女性を陰口にかけて孤立させる場面が繰り返されるが、「モジャムサ」にも例外なく登場する。こうした表現が繰り返されるとき、孤立の原因は構造ではなく女性同士の関係に求められることになる。男性同士の社会は切実に存在する一方、女性たちの連帯は最初から存在しない。その不在の場所にはしばしば、別の女性が加害者として置かれる。このドラマでは「母親」だ。
 もちろん、幼い頃に母親に捨てられた経験がウナを孤立した存在にしたというのは理解できる。しかし、母親に捨てられた人物がひたすら陰鬱で冷笑に満ちているというのも、また偏見ではないだろうか。それが全面的に母親の不在ゆえだという断定は、どこから来るのか。ウナの言葉を借りれば「ㅇ(イウン)、어(オ)、미음(ミウム)、미음(ミウム)、아(ア)(엄마→「お母さん」の字母読み)」という言葉が誇張されているなら、パク・ヘヨン作品における母親は、その反対方向に歪められている。
 彼女の作品には、家父長的な社会から脱落した息子を限りなく哀れに思ったり(私のおじさん)、ご飯を炊きながら死んでようやく解放されたり(私の解放日誌)、子どもを遺棄した後に、俳優として成功したり、離婚後に娘を養子に出したりする(モジャムサ)母親たちが主に登場する。彼女たちは家父長制の期待と必要によって対象化され、ときには被害を受けた女性の声を通じて批判の対象とされる。
 ウナは自分を捨てた母親を憎んでいる。それでいながら、母親という役割への期待は手放さない。どんな人間になりたいかというジンマンの問いに、ウナはこう答える。「力のある母親です。私は力のある母親になるつもりです。お金があって後ろ盾があって力があるということじゃなくて、どんな状況でも揺るがず、静かな中心に立っていて、だから傍にいる人も安心させてあげられるような、そんな母親。そんな女性になるつもりです。」

「パク・ヘヨン作家は、世間の基準から押しのけられ、顧みられない人間たちを“理解させる”ことに卓越した力を持っている。 しかし、その作家の“憐れみ”は、ジェンダーの問題の前ではしばしば後ずさりしてしまう。 劇中のウナは、親から捨てられた経験を持ち、職場でも孤立している」 JTBCドラマ「誰だって無価値な自分と闘っている」
スチールカット出典:スタジオ・フェニックス、SLL、スタジオ・フロー

孤立した女性の前に現れるのは「おじさん」か「お兄ちゃん」か
 ウナが初めて明かした、人間としての願いが「母親」であり「女性」であるということ。この切ない願いは何を示しているのか。
 女性の傷の根源に別の女性が置かれる構造、その傷をドンマンへの愛で癒そうとする方向性——これらは結局、女性を常に静かで揺るぎない「ケアの存在」として見る家父長制の視線と変わらない。そしてウナは、別れた恋人から無礼な連絡を受けた直後にこう言う。「オッパ(兄)がいたらいいな。ものすごく面倒くさいお兄ちゃん。」母親も、同僚も、共同体も存在しない場所に、オッパが入り込んだのだ。パク・ヘヨンの作品において、孤立した女性が抜け出す方法は結局、無害なおじさんかお兄ちゃんによる理解と崇拝として提示される。これはその女性のためになることなのか、それとも男性のファンタジーなのか。
 「モジャムサ」でジンマンとヘジンがドンマンに繰り返す言葉がある。
 「女を作れ。」まるでそれが唯一の解決策であるかのように——不安定な男性にも、孤立した女性にも、ドラマが提示する答えは結局「愛」だ。
 脚本家は愛以外の言葉を使いながら世俗的な愛との差別化を図ろうとするが、大人になれない男性へのアドバイスが「女を作れ」であるのは、どう見ても時代遅れだ。その古臭い配置の中で、女性は同性関係を形成したり共同体に出会ったりすることができない。男性たちと憐憫あるいは崇拝を分かち合いながら平安・解放・安らぎを経験するばかりだ。
 こうした設定が多くの人に問題として感じられない理由がある。あまりにも見慣れた現実だからだ。評判や暴力などによって女性を被害者にして孤立させること、構造的問題を女性同士の敵対に置き換えること、典型的な妻や母の役割を要求しその枠を外れると非難すること、男性の救済のために女性の愛と崇拝が動員されること——これらは家父長的な社会においてまだ頻繁に起きていることだ。「モジャムサ」の表現もまた、現実の反映として読み取れる。しかし、現実を反映することと、現実を当然のものとして設計することは異なる。「モジャムサ」は後者に近い。

「모두가(みんなが)」という言葉が示した限界
 タイトルは「みんなが」と言いながら、ドラマの中で憐憫を受ける人、共同体を持つ人、理解の手がかりを与えられた人は均等ではない。
 「みんなが」という言葉がかえって、その限界を鮮明に浮き彫りにする。
 先に好みと感性の違いが生んだ隔たりについて話したが、それだけの問題でもないようだ。誰の内面が「普遍」という名の下に受け入れられるか、誰に憐憫の手がかりがより具体的に与えられるか、誰に共同体と社会的連帯が許されるか——これらは好みと感性の問題ではなく、権力の問題だ。
 その不均等さが「普遍的な人間の物語」という名のもとに自然に受け入れられるのは、私たちがすでに男性中心的な視線と男性ファンタジーに慣れすぎているからではないだろうか。
 人間社会が複雑であるように、完全に良いだけのドラマも、ひたすら悪いだけのドラマも存在しない。ただ、どこかに閉じ込められて前へ進めない物語はある。「モジャムサ」が「私の解放日誌」の次のドラマではなく、「私のおじさん」や「私の解放日誌」のどこかの間に閉じ込められたドラマだと思う理由だ。そんなときに、必要な言葉はこれではないだろうか。「閉じ込められたときは、突き破ってください。」
(ハンギョレ21より転載)

ハンギョレ21とは、日刊紙「ハンギョレ」の姉妹媒体として1994年創刊の韓国の進歩系週刊誌。調査報道・社会批評を中心とし、労働・人権・ジェンダー・財閥問題などを得意とする。財閥資本から独立した編集方針を特徴とし、リベラル・左派系の代表的論壇誌のひとつと言われている。



窮屈なエンタメ鑑賞


 少し長くなったが、考えるきっかけにもなると思い、記事を掲載した。

 この記事には、実に巧妙に、「家父長制」や「フェミニズム」、あるいは「ジェンダー」といった、現代的で「考えている感」を与えやすい言葉が散りばめられている。そうした言葉は、使い方によっては、複雑な世界を一瞬で整理できたような気分にさせる。

 そして、その言葉を用いることで、読者に「これは構造的抑圧を告発する啓蒙的な文章なのだ」という印象を与えつつ、「女はこう」「男はこう」という二項対立を、ほとんど無批判に用いているように見える。私はそこに、ある種の窮屈さを感じる。

 そうした見方は、エンターテインメントの楽しみ方としても、人間理解という意味でも、弊害があるのではないか。特に、「自分自身と向き合う人々」を描いてきたパク・ヘヨン作品のように、人間の揺れや矛盾を丁寧に掘り下げる物語を鑑賞する際には、その弊害はより顕著になるように思う。

 では、なぜ私がそこに窮屈さや危うさを感じるのか、いくつか順を追って書いてみたい。

① 「性別」を超えた双方向の救済

(女性を被害者として孤立させ、男性の救済に女性の愛を動員するといった描写は、現実の反映とも読み取れるが、)
現実を反映することと、現実を当然のものとして設計することは異なる。「モジャムサ」は後者に近い。

  批評は「男が救い、女が救われる」という旧来の権力勾配に執着するが、そこでは「男女を超えたお互いの共鳴による双方向の救済」という文脈が完全に無視されている。パク・ヘヨン作品の真骨頂は、性別や社会的地位を超え、互いの欠落を鏡合わせのように救い合う「共鳴構造」にある。
(「モジャムサ」にいたっては、過去作と違い、誰かが誰かを支え、支えられた人がまた誰かを支えるといった「無価値はめぐる小車」という構造になっている)

 過去作の主人公たち、ヘヨンとドギョン、ジアンとドンフン、ミジョンとクさんの関係は、作家が繰り返し書くパターンかもしれないし、見飽きた人もいるかもしれない(これについては別記事に書いた)
 しかし、そこに通底するのは家父長制の再生産ではなく、孤独な人間が響き合う姿である。


 上野千鶴子だったかが、恋愛結婚も家父長制の枠からは自由ではなく、恋愛は父の権力から娘を解放するかもしれないが、夫の権力のもとへ女を進んで従属させるとか言ってたと思うが、そういう視点で見ると、古今東西のメロドラマやロマンチックコメディは、ほぼ構造的欠陥商品となる。

 うるさいばかりだったドンマンのギョンセに対する正しい(笑)悪口が、ミランを解放させ、ドンマンもまた認められるというエピソードに、私は心が踊る。何者かわからない隣人が、飛ばした帽子を取るために、側溝を懸命に飛んでくれるエネルギーに度肝を抜かれる。

 家父長制の再生産と言われても、ああ、そうですかとしか思わない。
 自分のことで精一杯な人間が、なぜ、同じような隣人に手を差し伸べるのか。人間は、合理的にも倫理的にも生きられないからではないのか。

②「正しさ」よりも切実な、生身の人間の渇望

ウナが初めて明かした人間としての願いが
「強い母親」であり「女性」であること。
この切ない願いは何を示しているのか。

 ウナの「強い母親になりたい」「オッパに助けてほしい」という願いや、ミジョンの「あなたを背負いたい」という渇望を、単なる古臭い設計と断罪できるだろうか。

 物語を「健全か」「対等か」「自立しているか」といった政治的な正誤で裁き始めると、多くの名作が持つ歪みや毒気が排除され、物語そのものが成立しなくなる。表現者が「正しくないもの」を描くことを恐れれば、そこには深みのない、正解だらけの退屈な教本しか残らない。

 パク・ヘヨン作家が描こうとしているのは、社会的な性役割の問題ではなく、一人の孤独な「個」としての人間の抑えられない感情である。それを社会学的な正当性の議論に持ち込むことは、物語が持つ深い共鳴の次元を、ありふれたステレオタイプの議論へと引きずり下ろすことに他ならない。

 フィクションにおける真実の共鳴は、政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)の枠組みを外れた、人間の弱さや矛盾やノイズの中にこそ宿っているのである。

③言葉の「余白」を味わう多面性

「モジャムサ」でジンマンとヘジンがドンマンに繰り返す言葉がある。
「女を作れ。」まるでそれが唯一の解決策であるかのように。不安定な男性にも、孤立した女性にも、ドラマが提示する答えは結局「愛」だ。

 パク・ヘヨン作品の台詞には、額面通りに受け取らなくてよい「余白」がある。コ・ヘジンがドンマンに、アジトへの出入り禁止を「女ができるまで」と言うことと、詩を書くドンマンの兄が唐突に「女に出会え」と言うことを、同じ文脈として古臭いと切り捨てるのはあまりに惜しい。

 パク・ヘヨン作品のキャラクターたちは、魅力溢れる言葉を吐く人物と無口な人物の2パターンだ。彼らの口から溢れる予想外の言葉は、味わい深く、そしてパク・ヘヨン作品の魅力だ。既存の正しい尺度だけで測ることは、物語が持つ複雑な多面性を切り捨て、セリフの妙を楽しむ機会を自ら放棄することに等しいのである。私は、不適切なもの、古臭いもの、正しくないものが作品の中に存在するのを観たいのである!

④ 「渡りがたい川」が生む壁

「私のおじさん」を人生ドラマに挙げる人と私の間には
渡りがたい川があると思っている。
善し悪しの問題ではなく、好みと感性の違いゆえだ。

 一見、個人の好みを尊重しているようでいて、その実、ここにはジェンダーという「正解」の物差しを介在させることで、エンターテインメントの最も豊かな本質を放棄してしまう危うさが潜んでいる。

 本来、同じ作品を観ても受け取り方が違うのは、それぞれの人生という「渡りがたい川」があるからだ。しかし、ジェンダー視点という絶対的な正解を振りかざし、その作品を愛でる感性を古いと暗に規定することは、多様な川を無理やり埋め立て、全員を正しいとされる岸へ強制連行しようとする啓蒙主義に他ならない。

 批評家は「視聴者が抱く主たる感情は憐れみではないだろうか」と推測するが、その一文に傲慢さが現れている。例えば私は、ドンマンの言動を「いい加減にしろ」と煙たがりつつ、同時に500ウォン硬貨に願いをかける彼の愛らしさに胸を突かれる。この割り切れない思いを、外部から「憐れみ」という一言で勝手に代弁し、記号化しないでほしい。

 川があるからこそ、私たちは語り合える。その面白さを「好みの違い」という言葉で思考停止に追い込むのではなく、不完全な私たちがそれぞれの岸辺で何に心を動かされたかを話し続けることこそが、表現に対する誠実さだと私は信じている。

SNSの反響〜検証なき同調の連鎖


 最後に、この記事がSNSでどのように展開されたかも興味深かったので、記しておく。代表的なものをピックアップした。

女をこき下ろしておきながら、結局はその女に救われるっていう物語をやってるのがマジでキツい。

他は全部よかったんだけど、「女と付き合え」とか
「母親になりたい」とか、なんだか2010年代にでも出てきそうな話が
時々出てきて、ちょっと戸惑ったりはする。ウナが「お母さんになりたいんです」と言った時、
ちょっと冷めてしまった。ずっと、人そのものを、内面を丁寧に
見つめてきた人が、どんな人になりたいかではなく「母親」に
なりたいと言ったのか……と。

男の救済を支え、そして男を通して救われるそんな話は、もう見たくない。

いや、ピョン・ウナが「力のある母親になりたい」って言うのは彼女の事情を聞けば理解はできる。でも、「女は男を受け止めて包み込んであげなきゃいけない」みたいなメッセージが、ずっと繰り返し出てくるのが本当に理解できないし保守的だと思う

 タイムラインには、記事の論調に同調する投稿が圧倒的に溢れたのである。しかし、この一方的な盛り上がりには、いくつかの構造的な理由があるように思う。

「正しい側」に立つコストの低さ

 一つは、同調することのコストが極めて低い点だ。
 「そうだ、私もそう思っていた」と言うために、必ずしも作品を深く読み解く必要はない。むしろ、作品を細部まで見ていない人ほど、記事が提示する分かりやすい論点にそのまま乗りやすいという側面がある。
 家父長制や男性の眼差しといったジェンダー言語に同調することは、内容を検証せずとも「私はジェンダー問題を理解している知的・倫理的に正しい人間である」という自己呈示として、極めて効率よく機能してしまう。

「好き」と言い続けられない空気

 そして最も悲しいのは、作品を愛していた人たちの沈黙である。
 パク・ヘヨン作品を「人生ドラマ」と呼んでいた人たちが、静かになってしまった。彼らが作品を嫌いになったわけではないだろう。
 ただ、あふれる批判の中で「好き」と言い続けるためには、ジェンダー問題に無理解な人というレッテルを貼られるリスクを背負わなければならなくなったのだ。その心理的なコストを払える人は、決して多くはない。声が消えたのではなく、多くの人が沈黙を選ばされたのである。

思考の深さと、声の大きさ

 皮肉なことに、本当にジェンダー問題を深く考えている人ほど、こうした単純な同調に居心地の悪さを感じているはずだ。
 SNSという空間では、声の大きさと思考の深さが反比例してしまうことが少なくない。作品をちゃんと見て、自分なりに考え抜いた上での言葉こそが、本来は最も誠実に問題と向き合っているはずなのに、それが「検証なき同調」の波にかき消されてしまうのは、あまりにも厄介な特性と言わざるを得ない。

 っちゅうわけで、私は拳をあげて言うぞ。

 「パク・ヘヨンをサランハンダ!」
 「パク・ヘヨンをサランハンダ!」
 「パク・ヘヨンをサランハンダ!」

 視聴者を「見くびるな」。「私の解放日誌」のクさんの言葉である。


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私なりの視点ですが、あなたにはどう届いたでしょうか。異なる視点が交差して、このテーマがより深く、広く広がることを楽しみにしています。
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