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【連載小説】「私」を再起動(リブート)!〜ママの学び直しコミュニティ〜07:夫・真吾の「ご機嫌とり」。

金曜日の夜。
娘の陽菜(ひな)を寝かしつけた後、私はリビングのテーブルでノートパソコンを開いていた。
画面には、来週の「Project U」で使う予定の英語のニュース記事と、私が作った単語の解説リストが並んでいる。

「ふふっ、この例文、ちょっと難しすぎるかな」

独り言をつぶやきながら、キーボードを叩く指が弾む。
疲労感はあるけれど、頭の中は驚くほどクリアだった。自分が「ただのママ」ではなく、「桐谷凛(きりたに・りん)」という一人の人間として思考している。その感覚が、たまらなく嬉しかった。

「おっ、なんか珍しいことしてるね。仕事でも復帰するの?」

背後から声がして、私はビクッと肩を揺らした。
お風呂上がりの夫、真吾(しんご)だった。片手には、冷蔵庫から出したばかりの冷えた缶ビールを持っている。

「ううん、仕事じゃないよ。ちょっとね、勉強会の準備」

「勉強会?」

真吾は、ソファにどっかりと腰を下ろすと、プシュッとビールのプルタブを開けた。

「うん。実は最近、近所のママたちと一緒に、週に一回集まって英語の勉強をしてるの。私が少しだけ教えるような形で」

「へえー、英語ねえ」

私は、少しだけ期待していた。
「すごいじゃん」とか、「どんなことやってるの?」とか、私の「知的な活動」に対して、少しでも興味を持ってくれるんじゃないかと。かつて、夜通し社会問題について議論した、あの頃のように。

しかし、真吾の口から出た言葉は、私の期待とは全く違う方向へ飛んでいった。

「いいね、そういうの。ずっと家にいて子供と二人きりだと、息が詰まるだろうし。いいリフレッシュになってるんじゃない?」

「……リフレッシュ」

「そうそう。ママ友と集まって、カフェとか公民館でおしゃべりしながら、ついでに英語もちょっとやるんでしょ? 育児のストレス発散にはもってこいじゃん」

真吾は、心底「いいことを言った」というような、満足げな笑顔を浮かべてビールを飲んだ。

「凛は昔から、本読んだり勉強したりするのが好きだったもんな。趣味があってよかったよ。俺も安心した」

「……趣味」

リフレッシュ。おしゃべり。趣味。
真吾の口からポンポンと飛び出す単語たちが、私の胸に、冷たい泥水のようにぶっかけられた。

「あ、でもさ」

真吾は、テレビのリモコンを操作しながら、軽い調子で付け加えた。

「あんまり夢中になりすぎて、家事がおろそかにならないようにね。俺も仕事で疲れて帰ってくるんだから、夕飯が手抜きになったり、部屋が散らかってたりするのは勘弁してよ? まあ、遊びの範囲でやってる分には、全然応援するからさ」

遊びの範囲で。

その言葉を聞いた瞬間、私の中で、何かが音を立てて冷えていくのがわかった。

真吾は、怒っているわけじゃない。モラハラをしているつもりもない。
彼は本気で「妻のささやかな趣味を応援してあげる、理解のある優しい夫」のつもりなのだ。

だからこそ、残酷だった。
彼は、私が「時給0円の専門家」として毎日どれほどの絶望と戦い、どれほどの勇気を出してあの掲示板にSOSを書き込んだのか、想像すらしていない。

佳代さんが、完璧な鎧を脱ぎ捨てて流した涙を。
美香さんが、「自分の人生のピークは終わった」という恐怖から這い上がろうとする姿を。
私たちが、どれほど必死に「自分の名前」を取り戻そうと戦っているのかを。

真吾にとっては、ただの「ママ友のヒマつぶし」であり、「おままごと」なのだ。

「……うん、わかってる。家事には響かせないようにするね」

私は、口角を無理やり上げて、それだけを言った。
ここで「遊びじゃない!」と反論しても、きっと彼は「なんだよ、せっかく応援してやってるのに」と不機嫌になるだけだ。
彼と私との間には、言葉が通じないほどの、分厚くて透明な「壁」がある。

「おう。あ、明日休みだし、たまには俺が陽菜と公園行ってやろうか? その間に、その『学校ごっこ』の準備でもしなよ」

「……ありがとう。助かる」

学校ごっこ。
その言葉を背中で聞きながら、私はパソコンの画面に視線を戻した。
画面の中の英単語が、悔しさで滲んで見えた。

胸の奥で、小さな、でも決して消えない強烈な火が燃え上がっていた。

『主婦は知らなくていい世界だから』と夫に笑われた、佳代さんの悔しさが、今なら痛いほどよくわかる。
一番近くにいるはずのパートナーが、自分を「対等な人間」として見ていないという現実。
私は彼にとって、もう「意見を交わす妻」ではなく、ただの「家庭を回すための便利な役割」なのだ。

テレビからは、バラエティ番組の明るい笑い声が聞こえてくる。
私はそっとパソコンを閉じ、代わりにテーブルの端に置いてあった「梅子ノート」を引き寄せた。

パラパラとページをめくる。
怒りで指が震えていた。

津田梅子も、アメリカで高度な教育を受けて帰国した時、同じような分厚い壁にぶつかった。
当時の日本の男性たちは、梅子の高い理想を鼻で笑った。
「女に難しい学問は必要ない」「良妻賢母になるための、おしとやかな教養さえあればいい」と。彼女の切実な願いは、男たちから見れば、ただの「生意気な女の遊び」だったのだ。

誰もわかってくれない。
スポンサーである政府も、社会も、同じ日本人でさえも。
その絶望の中で、梅子はどうしたか。

私は、ノートの一角に書き留めてある、彼女の力強い言葉を指でなぞった。

他人の理解を待つ必要はありません。自らの足で歩きなさい

「……そうだよね、梅子さん」

私は、誰にも聞こえないほどの小さな声でつぶやいた。
わかってもらおうとするから、苦しいんだ。
「応援してほしい」「認めてほしい」と、夫という存在に依存しているから、傷つくんだ。

真吾に理解される必要なんて、ない。
彼が「遊び」だというのなら、勝手にそう思わせておけばいい。
言葉で反論する代わりに、私は結果で証明する。
私たちがやっていることが、ただの「ママのおしゃべり」なんかじゃない、世界を変えるための第一歩だということを。

私は、ハンカチでそっと目尻を拭うと、再びパソコンの画面を開いた。

「遊びじゃない」

キーボードを叩く指に、ぐっと力がこもる。

私たちは、もっと強くなる。
私と、佳代さんと、美香さん。この三人だけじゃない。
もっとたくさんの、声なき声を上げているママたちを巻き込んで、誰も無視できないような、大きな力になってやる。

そのために、私にはもっと武器が必要だ。
英語の知識だけじゃない。この「Project U」を、社会に広め、知らしめるための、新しい時代の戦い方が。

「……ねえ、真吾」

私は、テレビを見て笑っている夫の背中に向かって、心の中で静かに宣言した。

「あなたが『ご機嫌とり』で許してくれたこのささやかな趣味が、いつかあなたの足元を揺るがすかもしれないよ」

深夜の静寂の中、パソコンの冷却ファンが、静かに、けれど力強く回り続けていた。

私の「再起動(リブート)」は、もう止まらない。
ここからが、本当の戦いの始まりだ。

(第8話:毒舌のIT担当。 へ続く)


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