【連載小説】「私」を再起動(リブート)!〜ママの学び直しコミュニティ〜30【最終回】:新しい朝。
春の陽光が、杉ノ森市ののどかな公園に降り注いでいる。
桜の季節は終わり、木々は鮮やかな新緑の葉を揺らし、心地よい風が吹き抜けていく。
「ママ、見て! 大きなお山、できたよ!」
砂場の中から、元気な声が響いた。
今年で四歳になる娘の陽菜(ひな)が、泥だらけの手で自分が作った砂山を指さし、誇らしげに笑っている。
「本当だ、すごいね! 陽菜、一人でそんなに大きなお山を作れるようになったんだ」
私がベンチから手を振ると、陽菜は「えへへ」と照れくさそうに笑い、さらに砂を高く盛り上げ始めた。
いつもの公園。いつもの砂場。
一年前、私が暗い絶望を抱えて立ち尽くしていた場所。
あの頃の私にとって、この公園は「戦場」であり、「牢獄」だった。
「〇〇ちゃんのママ」という透明な記号を押し付けられ、自分のキャリアも、知性も、名前すらも失っていく恐怖に怯えていた。
周りのママたちがみんな完璧に見えて、自分が世界で一番ちっぽけで無価値な存在のように思えて、息をするのさえ苦しかった。
でも、今は違う。
砂場では、見知らぬママたちが子供たちを見守りながら、世間話をしている。
「夜泣きがひどくて、昨日は二時間しか寝てないんです」と笑う若いママの目には、明らかな疲労が滲んでいる。
「うちもそうでしたよ。いつかは終わるって分かってても、しんどいですよね」と相槌を打つ先輩ママの言葉には、かつての私と同じような「諦め」の響きが微かに混ざっている。
以前の私なら、彼女たちの姿に自分を重ね合わせ、ただ惨めな気持ちになっていただろう。
けれど今の私は、彼女たちを温かい、愛おしい気持ちで見つめることができる。
彼女たちは、無価値なんかじゃない。
毎日、時給0円で、誰からも評価されなくても、一つの小さな命を必死に生かしている。それは、どんな華やかなキャリアにも劣らない、最高に尊くて、最高にタフな「仕事」だ。
そして、もし彼女たちがいつか「自分を取り戻したい」「社会と繋がりたい」と願った時、私が作った場所が、必ず彼女たちの受け皿になる。
「……おはよう、凛(りん)さん」
ふいに声をかけられ、顔を上げると、ベビーカーを押したエリカが立っていた。
彼女は、動きやすいデニムとスニーカーというラフな格好で、すっぴんに近いナチュラルなメイクをしている。ブランドバッグの代わりに持っているのは、エコバッグと、彼女自身がデザインした「Project U」のロゴ入りトートバッグだ。
「エリカ、おはよう! 今日の午後、例のカフェのコンサル打ち合わせだよね?」
「ええ。資料はもう共有フォルダに上げといたわ。……あ、陽菜ちゃん、またお姉ちゃんになったんじゃない?」
エリカが砂場に向かって手を振ると、陽菜も「エリカしゃん!」と元気に手を振り返した。
エリカは今、Project Uの主要メンバーとして、そしてフリーランスのSNSコンサルタントとして、驚くほどのバイタリティで駆け回っている。
「虚栄の鎧」を脱ぎ捨てた彼女の笑顔は、以前の作り込まれた「いいね」のための笑顔より、ずっと柔らかく、そして美しかった。
「じゃあ、また後でオンラインでね」
「うん、よろしく!」
エリカを見送った後、私はベンチの上に置いたトートバッグから、ノートパソコンを取り出した。
パカッと画面を開き、キーボードに指を置く。
すぐに、Project Uのグループチャットの通知が次々とポップアップしてきた。
佳代(かよ)さんからは、今週末に開催する行政との合同イベントの進行表が届いている。相変わらず、完璧なスケジュール管理だ。
美香(みか)さんからは、昨日の夜に開催した「ママ向け健康相談会」の報告書。
詩織(しおり)さんからは、新しくデザインした名刺のサンプル画像。
由美(ゆみ)さんからは、NPO法人の今月の収支報告。
そして、杏奈(あんな)さんからは、「凛さん、今日の午後三時までにこのコラムの原稿チェックお願いします! 代表の仕事ですよ!」という、容赦ないリマインド。
『了解! みんな、今日もよろしくね』
私がチャットに返信を打ち込むと、すぐに『はーい!』『頑張りましょう!』と、カラフルなスタンプが返ってきた。
画面越しに、仲間たちの息遣いが聞こえるようだ。
私たちはもう、誰かの付属物じゃない。
自分の名前で、自分の足で立ち、社会に確かな価値を提供している、最高の同志だ。
ブルッ、とスマホが震えた。
画面には、夫の真吾(しんご)からのメッセージ。
『今日のプレゼン、無事に終わった! 新しいシステム導入の件、上の連中を納得させてやったぞ。……で、今日の夕飯は俺が作る当番だから、凛は仕事に集中してくれ。陽菜のお迎えも俺が行く』
私は、思わずクスッと笑ってしまった。
あの絶望の夜から一年。真吾は本当に、見事に「再起動(リブート)」を果たした。
会社の古いやり方に固執するのをやめ、必死に新しい知識を貪(むさぼ)り、今では外資系の上司からも一目置かれる存在になっているという。
そして何より、「俺が養ってやっている」という傲慢さを捨て、私を「対等なパートナー」としてリスペクトしてくれるようになった。
「……ありがとう、真吾」
私は小さくつぶやき、『お疲れ様! 夕飯、楽しみにしてるね』と返信した。
私は、パソコンの画面の横に、いつもの「古い革表紙のノート」を置いた。 大学院時代から私を支え、絶望のどん底から引き上げてくれた、津田梅子(つだ・うめこ)の言葉が詰まったノート。
パラパラとページをめくる。
歴史のバトンは、恩師から私へ、そして私から多くの女性たちへと、確かに受け継がれた。
私たちは、家庭という小さな壁を越え、行政という社会の壁を越え、自分たち自身の力で、新しい世界を切り拓いた。
ふと、ノートの最後のページに書かれた、一節の言葉が目にとまった。
それは、梅子が晩年、病に倒れてもなお、日本の未来を信じて教え子たちに語り続けたという、希望の言葉。
『学びは一生続きます。あなたの物語は、今日これから始まるのです』
「……これから、始まる」
私は、その文字を指でそっとなぞった。
そうだ。
「私を再起動する」という闘いは、一度起動したら終わりじゃない。
時代は変わり、子供は成長し、私たちの環境も常に変化していく。
その度に、私たちはエラーを起こし、フリーズし、壁にぶつかるだろう。
でも、その度に「学び」という武器を使って、自分自身をアップデートし、何度でも再起動(リブート)すればいいのだ。
学びとは、学生時代に詰め込む知識のことじゃない。
昨日とは違う自分に出会うこと。
世界を新しい視点で捉え直すこと。
そして、どんな困難が訪れても、「私は私の足で立てる」という誇りを持ち続けること。
「ママ、パソコン、おわった?」
砂だらけの手をエプロンで拭きながら、陽菜がベンチに駆け寄ってきた。
「うん、今ちょうど、一つ終わったところだよ」
私が答えると、陽菜は私の顔を覗き込み、ニカッと笑った。
「ママ、今日もお顔、キラキラしててかっこいいね!」
その言葉に、胸の奥がキュッと熱くなる。
あの日、私を救ってくれた娘の瞳。
彼女の目に映る私の背中が、いつか彼女自身が壁にぶつかった時、決して諦めないための道標になるように。
「ありがとう、陽菜。……さあ、ママも一緒に砂場に入れてくれる? 今度は絶対に壊れない、すっごく大きなお城を二人で作ろうか」
「うん! つくる!!」
私は、ノートパソコンをパタンと閉じ、トートバッグにしまった。
私は、「桐谷凛(きりたに・りん)」という一人の人間であり、NPO法人の代表であり、真吾の同志だ。
そして同時に、「陽菜のママ」であることも、心から愛している。
どれか一つを選ぶ必要なんてない。全部、私が私として生きるための、大切なパズルのピースなのだから。
立ち上がり、春の空を大きく見上げる。
抜けるような青空に、白い雲がゆっくりと流れていく。
私の物語は、終わらない。
今日のこのありふれた日常も、明日からの新しい挑戦も、すべてが私が紡ぐ、私だけの歴史だ。
「さあ、行こうか!」
私は陽菜の小さな手を取り、太陽の光が降り注ぐ砂場へと、力強く歩き出した。
新緑を揺らす風が、私たちの背中を優しく、けれど確かな力で押してくれていた。
新しい朝。
私たちの本当の人生は、ここから始まる。
(「私」を再起動(リブート)!〜ママの学び直しコミュニティ〜 完)
