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【連載小説】「私」を再起動(リブート)!〜ママの学び直しコミュニティ〜24:行政を味方につける。

杉ノ森市の市役所。
かつて「営利目的の怪しい団体だ」と冷たく突き放され、公民館を追い出された因縁の場所に、私は再び立っていた。

数ヶ月前、ここで悔し涙をこらえながら自動ドアを抜けた日のことを、はっきりと覚えている。
あの時の私は、ただ「やりたいこと」の熱意だけを手ぶらで持ち込み、お役所という巨大な壁に跳ね返された、無力な「〇〇ちゃんのママ」だった。

でも、今日の私は違う。
私の手には、杏奈(あんな)さんと由美(ゆみ)さんが徹夜で作成してくれた、分厚い「Project U 事業計画書」が握られている。私の背中には、自分の名前を取り戻した無敵の仲間たちがついている。

「……すみません、市民協働課の坂東(ばんどう)さんはいらっしゃいますか?」

窓口で声をかけると、奥のデスクから、見覚えのある五十代の男性職員が怪訝(けげん)そうな顔をして立ち上がった。

「はい、私ですが……。あ、あなたは」

坂東さんは、私を見るなり、あからさまに嫌そうな顔をして眉間(みけん)にシワを寄せた。

「桐谷(きりたに)です。以前、公民館の利用申請でお世話になりました」

「ああ、あの『Project U』とかいう……。桐谷さん、何度も言いますがね、市の施設は営利目的の団体には貸し出せませんよ。決まりは決まりですから」

坂東さんは、私がまた部屋を借りに来てゴネているのだと勘違いし、冷たい事務的な声で先制パンチを打ってきた。

私は、にっこりと微笑んだ。

「坂東さん、今日は部屋を借りに来たのではありません。来月、私たちが民間のホールで開催する大規模な無料公開講座について、杉ノ森市に『後援』をお願いしたくて参りました」

「……は? 後援?」

坂東さんの声が、素っ頓狂(すっとんきょう)に裏返った。

後援。それは、市役所が「このイベントは公的にも意義があり、市として応援しています」と公式にお墨付きを与えることだ。チラシに『後援:杉ノ森市』という文字が入るだけで、その団体の社会的信用は劇的に跳ね上がる。

「冗談はやめてください。ただの主婦の集まり、しかも以前トラブルになりかけた団体に、市が公式な後援を出すわけないでしょう。前例がありません」

「前例なら、これから作ればいいんです。どうか、五分だけでいいので、これを見てください」

私は、手に持っていた分厚いファイルを、ドンッと窓口のカウンターに置いた。

「ただの主婦の集まりではありません。これは、杉ノ森市が抱えている『人材不足』と『子育て支援』の課題を同時に解決するための、具体的な事業提案です」

坂東さんは「はあ……」とため息をつきながらも、渋々といった様子でファイルを開いた。
その最初のページを見た瞬間、彼の目がパッと見開かれた。

「な、なんだね、この数字は……」

「先週から開始した、私たちの活動資金を集めるためのクラウドファンディングの結果です。開始からわずか一週間で、目標額の二百万円を突破しました。支援者の八割が、この杉ノ森市周辺に住む子育て世代の女性たちです」

私は、淀みなく、はっきりとした声で説明を続けた。

「それだけではありません。ページをめくってください。現在『Project U』に集まっているメンバーの、保有資格とキャリアのデータです」

坂東さんの視線が、データの上を忙しく行き交う。

「看護師、元ITベンチャーの広報、経理のプロフェッショナル、元教員。……坂東さん、杉ノ森市は今、深刻な働き手不足に悩んでいますよね? でも、私たちのデータを見てください。市の中には、これだけ優秀なスキルと経験を持ちながら、育児の壁に阻まれて『休眠』している女性たちが、山のようにいるんです」

「休眠している……地域人材」

坂東さんが、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。

「私たちは、この公開講座を皮切りに、ママたちが持つスキルを地域社会や企業に提供する『スキルシェア・プラットフォーム』を立ち上げます。これは単なるお茶会ではありません。市の経済を回し、孤立する母親たちを救う、立派な『地域創生事業』です」

私は、坂東さんの目から絶対に視線を外さなかった。

前回ここに来た時の私は、「私たちが学びたいから」という感情論だけでぶつかっていた。だから「遊びなら他所でやれ」と追い返されたのだ。
行政を動かすには、彼らの言語である「数字」と「論理」が必要だ。
私たちがどれほど地域にとって有益な存在か、客観的なデータで証明しなければならない。

「……確かに、このデータと事業計画は、プロ顔負けのしっかりしたものだ」

坂東さんは、食い入るように資料を読み込みながら、ポツリとこぼした。

「だが、行政が動くにはリスクがある。もし途中で事業が頓挫(とんざ)したり、クレームが入ったりしたら、誰が責任を取るんだ? やはり、実績のない任意団体に市のお墨付きを出すのは、ハードルが高すぎる……」

坂東さんの言葉の端々に、「面倒なことには巻き込まれたくない」という、お役所特有の保身が見え隠れしていた。

私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。

杏奈さんが作った完璧なデータ(論理)だけでは、この最後の分厚い壁は壊せない。 頭で理解させたら、次は「心」を動かす必要がある。

「坂東さん」

私は、窓口のカウンターに両手を置き、ぐっと身を乗り出した。

「責任なら、私がすべて取ります。……坂東さんは、一日中、言葉の通じない赤ちゃんと二人きりで、誰とも会話せずに夜を迎える孤独を知っていますか?」

突然の私の問いかけに、坂東さんは戸惑ったように顔を上げた。

「私たちは、ただの数字じゃありません。毎日、時給0円で必死に命を育てている、血の通った人間です。社会から透明人間にされて、自分の価値を見失って、暗闇の中で泣いている母親たちが、この杉ノ森市にはたくさんいるんです」

私の脳裏に、ボロボロになって図書館で泣いていた佳代さんの姿が浮かんだ。

「このプロジェクトは、彼女たちの『命綱』なんです。私たちが求めているのは、市からの補助金やお金じゃありません。『あなたたちには、社会に出る価値がある』という、市からのたった一言の肯定なんです。それが、どれほど多くの母親たちを勇気づけるか……どうか、想像してください」

私の声には、隠しきれない熱がこもっていた。
論理で固めた計画書の上に、私自身の、そして仲間たちの、血を吐くようなリアルな「情熱」を乗せる。

頭の片隅で、津田梅子(つだ・うめこ)の力強い声が響いていた。

梅子が「女子英学塾」を作るための資金援助を政府や有力者に求めた時、彼女は決して「女性がかわいそうだから」という情にすがるだけのプレゼンはしなかった。
日本の近代化には女性の教育が不可欠だという「論理(道理)」と、目の前の少女たちを絶対に救いたいという「情熱」。その二つを完璧に融合させたからこそ、当時の頑迷(がんめい)な男たちの心を動かし、多額の資金を引き出すことに成功したのだ。

道理と情熱の両輪が、頑(かたく)なな扉を開くのです

私は、梅子のその金言を心の中で強く反芻(はんすう)した。

「坂東さん。新しいことを始めるのは、誰だって怖いです。でも、どうか……古い前例にとらわれず、杉ノ森市の新しい風を、私たちと一緒に起こしてください」

私は、最後に深く、九十度の角度で頭を下げた。

しん、と静まり返る窓口。
聞こえるのは、市役所の奥で鳴る電話の音と、坂東さんが書類をめくる微かな音だけだった。

どれくらいそうしていただろうか。

「……桐谷さん」

坂東さんの、低く、落ち着いた声が降ってきた。

私がゆっくりと頭を上げると、坂東さんは、以前の「厄介者をあしらうような目」ではなく、一人の「事業責任者」に向き合うような、真剣な目をしていた。

「この事業計画書、お預かりします」

「……っ!」

「私の一存では決められませんが、市長と関係各所に、私から強く掛け合ってみましょう。……これだけ緻密なデータと、あなた方の恐ろしいほどの熱意を見せられて、ただ『前例がない』と突き返すのは、行政の怠慢ですからね」

坂東さんは、そう言って、フッと小さく笑った。

「あなた、数ヶ月前にここで泣きそうになっていた主婦と同じ人ですか? ……ずいぶんと、逞(たくま)しくなられましたね」

その言葉に、私の目から、ブワッと熱いものが込み上げてきた。
悲しい涙じゃない。悔しい涙でもない。
私たちが仲間と七転八倒しながら積み上げてきたものが、ついに、社会という巨大な壁に穴を開けた、歓喜の涙だった。

「はい。……最高の仲間たちに、鍛えられましたから」

私は、涙で滲(にじ)む視界の中で、最高の笑顔を返した。

「では、追って連絡します。……公開講座、期待していますよ、桐谷代表」

代表。 その響きが、私の背筋をピンと伸ばしてくれた。

「ありがとうございます! よろしくお願いいたします!」

もう一度深く頭を下げて、私は市民協働課の窓口を後にした。
自動ドアを抜けて外に出ると、抜けるような青空が広がっていた。

「……勝った」

私は、誰にも見えないように、胸の前で小さくガッツポーズをした。

行政という、大きくて理不尽な壁は越えた。
道理と情熱の両輪は、確かに回っている。

でも、私にはまだ、越えなければならない「一番高くて、一番やっかいな壁」が残されている。

スマホを取り出す。
画面の背景は、笑顔の陽菜の写真。
そして、その横で笑っている、夫・真吾の姿。

真吾が家を出るように別の部屋で寝るようになってから、もう一ヶ月近くが経つ。
私は、彼との関係をずっと保留にしたまま、外の活動に逃げていた。
でも、市役所という社会の扉を開けた今、私はもう、一番身近な社会である「家庭」の扉から目を背けるわけにはいかなかった。

「……待ってて、真吾。次にあんたの目を覚まさせるのは、私だよ」

私は、スマホをバッグにしまい、力強く歩き出した。
私が本当の意味で「桐谷凛」として生きていくための、最終決戦が迫っていた。

(第25話:夫・真吾のピンチ。 へ続く)


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