【連載小説】「私」を再起動(リブート)!〜ママの学び直しコミュニティ〜28:名前のついた名刺。
あの熱狂の公開講座から、半年が過ぎた。
秋の気配が深まる十一月。杉ノ森市内のホテルの一室を貸し切って、「Project U 第一回 スキルシェア交流会」が開催されていた。
「はじめまして! 私、こういう者です」
「わあ、素敵な名刺ですね。私はこちらです。いつもオンラインでお名前は拝見してました!」
グラスの触れ合う音と、明るい笑い声が響くパーティールーム。
五十人ほどの女性たちが、片手にウーロン茶やジュースを持ちながら、会場のあちこちで笑顔で名刺交換をしている。
一見すると、どこかの企業の異業種交流会のような光景だ。
でも、ここにいるのは全員、数ヶ月前まで「時給0円」で家事と育児に追われ、社会との繋がりに孤独を感じていたママたちなのだ。
「凛(りん)さん!」
声をかけられ振り返ると、少しはにかんだような笑顔で立っていたのは、詩織(しおり)さんだった。
十九歳で出産し、「ママっていう檻に閉じ込められている気がする」と大粒の涙を流していた彼女は今、淡いブルーのセットアップを綺麗に着こなし、堂々とした表情をしている。
「詩織さん、今日の司会進行、すごくスムーズだったよ。お疲れ様!」
「ふふ、ありがとうございます。……凛さん、これ、見てください。さっき刷り上がってきたばかりなんです」
詩織さんが、両手で丁寧に差し出してくれた小さな紙のカード。
そこには、可愛らしいイラストと共に、こう印字されていた。
『グラフィックデザイナー 高橋詩織』
「デザイナー……! 詩織さん、ついに独立したのね!」
私が驚いて声を上げると、彼女は嬉しそうに何度も頷いた。
「はい! Project Uのチラシを作ったのがきっかけで、他の方からも『名刺のデザインをお願いできないか』って頼まれるようになって。少しずつ実績を積んで、先週、思い切って開業届を出してきました」
「すごい……本当におめでとう!」
私が詩織さんの手をとって喜んでいると、横から「ちょっと、私のも見てよ!」と元気な声が割り込んできた。
元看護師の美香(みか)さんだ。
美香さんがドヤ顔で差し出してきた名刺には、『地域ママのための健康相談サロン・代表 佐々木美香』と書かれている。
「公開講座で助産師さんたちとブースを出した時に、気づいたんです。病院に行くほどじゃないけど、育児の体調不良で悩んでるママって本当に多いんだなって。だから、私の看護師の資格と経験を活かして、オンラインと地域のカフェで相談に乗る事業を立ち上げました」
「美香さん……あんなに『私の人生のピークは終わった』なんて言ってたのに」
私が目を細めると、美香さんは「あはは、そんなこともありましたね!」と豪快に笑った。
「あら、みなさん。盛り上がってますわね」
ふいに、凛とした落ち着いた声がした。
振り返ると、ネイビーのワンピースに身を包んだ佳代(かよ)さんが、グラスを片手に微笑んでいた。
彼女の胸元には、控えめだが品のあるブローチが光っている。
「佳代さん! 今日の会場の手配からケータリングの準備まで、本当に完璧でした。さすがです」
私が言うと、佳代さんは「いいえ、私の趣味のようなものですから」と上品に笑い、一枚の名刺をすっと差し出した。
『オンライン秘書・イベントディレクター 佐藤佳代』
「佳代さんも、起業を?」
「ええ。PTAの役員や町内会の取りまとめで培った『段取り力』って、実は立派なビジネススキルなんだと、杏奈(あんな)さんに背中を押されまして。今は、地域の小さな会社から、事務やイベントの裏方を請け負っています」
佳代さんは、ふふっといたずらっぽく笑った。
「夫も、最近は私のことをバカにしなくなりました。私がパソコンに向かって請求書を作っていると、『お疲れさん』ってコーヒーを淹れてくれるようになったんですよ」
「ええっ! あの旦那さんが!?」
私たちが驚愕すると、佳代さんは「人は、変われるんですわ」と、誇らしげに胸を張った。
詩織さん、美香さん、佳代さん。
数ヶ月前、公民館の長机で、震える声で自分の下の名前を名乗っていた彼女たち。
公園で、スーパーで、病院で。「〇〇ちゃんのママ」と呼ばれるたびに、自分という存在が透明になっていくような虚無感を抱えていた女性たち。
それが今、彼女たちの手には、自分の名前と、自分自身で選んだ「肩書き」が刻まれた名刺が握られている。
誰の付属物でもない、自分の足で社会に立ち、価値を提供しているという証。
「……あ、凛さん」
ふと、入り口の近くから遠慮がちな声がした。
振り向くと、そこには少し緊張した面持ちのエリカが立っていた。
彼女が手にしているのは、高級なブランドバッグではなく、機能的なレザーのトートバッグだ。
「エリカ、来てくれたのね!」
「ええ。……あの、これ」
エリカが恥ずかしそうに差し出した名刺には、こう書かれていた。
『フリーライター・SNSコンサルタント 一ノ瀬エリカ』
「私ね、あの後、夫とは話し合って別居することにしたの。で、これからどうやって生きていこうか考えた時に……私、なんだかんだ言って、SNSでいかに自分を良く見せるかっていう研究には、誰よりも時間をかけてきたじゃない?」
エリカは、少し照れくさそうに笑った。
「だから、その技術を『虚栄』のためじゃなくて、本当にいいものを広めるために使おうと思ったの。今は、地元のカフェや小さな商店のSNS運用を手伝いながら、ライターとして記事を書いてるわ」
「エリカ……すごい! すごいわ!」
私が興奮気味に言うと、エリカは「まだまだこれからよ」と首を振った。
「でもね、凛さん。私、何十万もするバッグを持っていた時より、自分で稼いだ数万円のギャラをもらった時の方が、何倍も嬉しかった。……不思議よね」
彼女の晴れやかな笑顔を見て、私は胸の奥が熱くなるのを抑えきれなかった。
みんな、自分の力で人生の舵(かじ)を切り直したのだ。
誰かに与えられた「正解」のレールから降りて、泥臭く、七転八倒しながら、自分の道を見つけ出した。
私は、手元にあった自分の名刺入れを開いた。
そこに入っている、真新しい名刺。
『NPO法人 Project U 代表理事 桐谷凛』
そう、私たちはあの公開講座の大成功を経て、行政の支援も受けながら、正式にNPO法人を立ち上げた。
私は代表理事となり、杏奈さんが理事として強力な右腕になってくれている。夫の真吾(しんご)も新しいスキルの習得に奮闘しており、休日は陽菜(ひな)を連れて遊びに行き、私の活動を全面的にサポートしてくれるようになった。
私は、みんなの顔を見渡し、そして手元にある自分の名刺をじっと見つめた。
この小さな紙切れには、ただのインク以上の「重み」がある。
津田梅子(つだ・うめこ)が、女性の自立のために戦い続けた生涯。
彼女は、女性がただ着飾って誰かに養われるのではなく、自らの頭で考え、自らの足で立つことの尊さを、身をもって教えてくれた。
私の脳裏に、梅子が教え子たちに語りかけたという言葉がよみがえる。
『自ら掴み取った称号ほど、美しいものはありません』
本当に、その通りだ。 夫のステータスでもなく、家柄でもなく、誰かに与えられた役割でもない。
自分の手で泥を払い、涙を流し、仲間と励まし合いながら、自らの力で掴み取ったこの「名前」と「称号」。 これほど美しく、誇り高い装飾が、他にあるだろうか。
「凛さん、どうしたんですか? 泣きそうな顔して」
佳代さんが、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「ううん、なんでもない。……ただ、みんなの名刺が、あんまりにも綺麗だったから」
私が笑って涙を誤魔化すと、みんなもつられて柔らかく笑った。
「さあ、代表。そろそろ締めの挨拶の時間ですよ」
遠くから、杏奈さんが腕時計を叩きながら合図を送ってくる。
「はーい、今行く!」
私は、名刺入れをスーツのポケットにしまい、背筋をピンと伸ばした。
私たちは、生まれ変わった。
「私を再起動する」という孤独な闘いは、いつしか、この街の多くの女性たちを巻き込む大きなうねりとなった。
でも、私の心の中には、まだやり残していることが一つだけある。
私をこの道へと導き、絶望の淵から救い出してくれた、あの古い「梅子ノート」。
そのバトンを、私はきちんと、次の場所へ繋がなければならない。
私は、ステージへと向かう歩みを進めながら、心の中でかつての恩師の顔を思い浮かべていた。
(第29話:歴史のバトン。 へ続く)
