終末夜話 20
家に持って帰った図書室の忘れ物の本は、机の引き出しにしまった。
なぜだか誰にも見られたくなかったからだ。きっと持ち主はあそこに自分の本を忘れてるなんて思っても見ないのだろう。
だから取りに来ないし、
誰も読んだ形跡がない。
どのページにも手垢なんかついていないし、ましてや折り目なんかもない。
1999年
ぼくは生まれてもいない。
世紀末。
身近な人で考えた。
お母さんは15、16歳?
お父さんは24、25歳?
どんなだったのだろう。
早くお風呂に入りなさいと、キッチンからお母さんが呼んでいる。
木曜日お父さんが帰ってくる日だから。
「明日は試験休みでしょ?」
お風呂に行く途中で声をかけられた。相変わらずのぶっきらぼうな言い方で「うん。でも学校は行く。」由紀子の顔も見ず小走りに風呂場へ行った。
お母さんは篠津先生と
どこかへ行けばいい。
心の中で毒を吐いた。
オマエヲムカエニイク
何か声が聞こえるような気がするのだ。決まって由紀子や貴仁に毒を吐いたり、自分の環境に些細な変化や、感情の波が訪れると。
囁くように、やさしく。
時に力強く。
ハナスナ
そしてあの歌。
サヤサヤと揺れる木々のような、風に飛んでいくたんぽぽの綿毛のような、小さな、小さな声で聞こえてくる歌。
ワタシイツモリョウメニ
勉強のしすぎで頭の中が混乱しているのかも知れないと、内心思っている。
ハナヲカザッテアルク
でもわかるのは、陸の心がなにもかもを受け入れられないでいること。
ミギノメニハスミレヲ
頭を、心を、かきむしりたいほど考えてしまうこと。
ヒダリノメハサルビア
いつ、貴仁に「楠陸として生きなさい。」と言われるか。いつ、由紀子が自分を捨てるのか。
息を止めなるべく長く湯船に潜り、死んだ振りをする。
死んでれば何も感じないし、うれしいことにも悲しいことにも振り回されないですむのに。
オマエヲツレニイク
「ぷはっ」と湯船から顔を出した。
ただの「陸」になりたい。
カナシムナ
そう言われても、考えれば考えるほど「楠陸」になる日が近づいてくる。貴仁がどこか知らない家のおじさんのような気がしてくる。
アレハシラナイオトコダ
篠津先生の顔を思い出す度に、隣で寄り添うお母さんを思い出す。
ふたりは一緒。
ふたりは、つがいの鳥のよう。
オマエヲステル,カッコウノヨウダ
ぼくはどこに行けばいい?
ぼくはもう行くところがない?
人形の家のように無機質で綺麗な家の中でぼくは一体どういう顔をしていたらいいの。
ステレバヨイ
捨てる?
何を、何を捨てるの
オマエカラステルノダざぶんっ
お湯を頭からかぶった。
今ぼくは誰としゃべっていたの?
我に返った。
「ぼくは半井陸。」自分で言い聞かし、なにも変わっていないことを確認し、風呂から上がった。
もうすぐお父さんが帰ってくる。
テーブルの上には由紀子の作った色とりどりの料理が並び、茶碗と箸を定位置に置く。頭を拭いたバスタオルを洗濯かごに放り込んだ時、玄関を開ける音がした。
「只今。」
「お帰りなさい。」
由紀子は玄関で鞄を受けとる。
「お食事、用意できていますわ。」
「ああ、いい匂いがしている。」
「何かお飲みものは。」
「ああ、今日は少し話があるから聞きなさい。陸も。」
陸は身構えた。
とうとう来た。
キケ
その時が。
「陸、期末テストはどうだった?」
オマエノバンダ「うん。」
コノコハイタダク「うん。ではない。どうだったかと聞いているんだ。」
イマノウチダゾ「まだ返してもらってないけど、英語以外はこれまで通りだと思う。」
ヨクキケ貴仁はうなづき、食卓に着いた由紀子とすでに座っている陸とを見て「わかった。」と言って食事をはじめた。
アイツノイイブンヲ
「夏休みに『楠』に来なさい。
おまえは、まだ『楠』の
誰とも会っていない。
皆、
おまえと会うのを楽しみにしている。」
陸はしおれた声で言った。
「ワカリマシタ。」
貴仁が話を終えた時、陸の心は閉ざされた。世界の全てが終わったと陸は思った。「ワカリマシタ。」の返事の裏側には
本当は嫌だと言えない、自分が嫌なのもある。なにもかもが嫌なのは、こんな家に暮らしてる自分自身が嫌なんだ。使った食器を流しに下げて、拳を握り廊下を歩いて部屋に戻った。
ほんの何時間か前に学校から戻り入った部屋となにかが違っていた。
いつも通りのいつもの部屋に、嗅いだことのある涼やかな香りと何かの気配が机の上やベッドの枕元、天井の電気や窓ガラス、あちこちに感じる。
電気を付けようと入ってすぐの壁にあるパネルに手を伸ばした。
東向きの六畳間にはすでにカーテンが閉められ暗さに目がなれるまで時間がかかる。
なにかが、いる。
見えなくとも、わかる。
なにかが、決定的に、ちがう。
電気のスイッチをいれる前に、小さな声で「だれ?」と聞いた。
ウフフ
ホラバレチャッタジャナイノ
ヤダワ
オコッテルノカシラ
マサカ
ワタシタチハイツデモアナタトトモニアル
カゼガフイテ
アメガフレバ
ミンナナガレテイッチャウノヨ
ウフフ
ウフフフフ
「ねえ。誰かいるの。」
電気をつけた。
ふと机の上に目が行った。
学校から戻り、鞄の中を月曜日の物に入れ替えるために一度全部取り出して必要なものを鞄に戻し必要のないものは机の各所に片付けた。来週の月曜日と火曜日は全ての授業が期末テストの返却で水曜日と木曜日は夏休みの課題内容と一学期の総ざらいで終わり、金曜日は終了式だ。7月23日。24日からは皆、夏休みに入る。
机の引き出しの中にしまったはずのあの本が、机の上に表紙を上にして丁寧に置かれていた。
「しまったはず。」
本の表紙を触った。
嗅いだことのある清々しい香りが机の周りをやさしく包んでいた。
背中がざわざわとしたのを紛らわすように腕をぐるぐる回しながら窓辺に立ち、なにもなかったような顔をして窓を開け放った。雨上がりの湿った風が陸の鼻先を通るとなにかが部屋の中に飛んできた。
「虫?」
いいえ、もっと小さい。
「何?」
もっとやさしい。
机の上の黒い表紙の本の上に、たんぽぽの綿毛が3本仲良く並んで落ちて来た。
「わたげ?」
ヤットキガツイタ
ミテ
フフフ、オバカサン
綿毛を摘まもうと手を伸ばした瞬間、突風が吹いた。
綿毛は部屋のどこかに飛んで行き机の上の本のページが音もなく捲れ、開いたページを見ると図書室で司書さんと一緒に見たあの72詩のところだった。
でもちがう。
こんな小さなページはあの時なかった。
A5サイズの本のちょうど真ん中あたりに10センチ角の紙片が挟まっている。
引っ張ったが、きちんと本のページとして組み込まれているのでメモ用紙ではないことがわかった。
字体は本文とは違い、古いタイプライターで打ったようなフォントでやはり叙情詩のような文なのがわかる。
「こんなページなかった。」
ナイワヨ
イマデキタノダモノ
アナタダケガヨメレバイイノ
ウフフ
ウフフフフ
サア、イラッシャイナ
陸は窓を閉めて、10センチ角のページをじっと見つめた。
終末夜話 20
つづく
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