見出し画像

終末夜話 5

その日学校にいる間中、ずっとあの匂いを髪に、体に、カバンに感じていた。家に帰って「ただいま」も言わないで洗濯の洗剤の蓋を開けたりトイレの芳香剤の匂いを嗅いだり、お母さんのシャンプーや洗面所に置いてある小瓶の匂いを嗅いでみたがあの匂いではなかった。
最後に洗面台の下の戸を開けて何かないかと探していたら

「りく?なにやってるの?」

と、洗面所から出てこない陸を心配してお母さんが入ってきた。

「な、なんでもないよ。」

「なにか隠したの?」

「か、隠してなんかいないよ。
 探してたんだよ。」

少しばかり、強い言い方をした。

「あ、そ。」

由紀子はそのままキッチンに引っ込み、陸は洗面台で蛇口をひねり、水を出した。

なんの匂いでもなかった。
洗剤もシャンプーもせっけんもみんな違う。首をかしげながら手を洗う。
手を拭いてキッチンに向かい「お母さん、ここで残りの宿題やってもいい?」と聞くと「もちろん!なんの宿題?」とお母さんも乗り気になった。
国語の教科書の書き取りをするために教科書とノートを出して、すぐ始めた。
半分は図書室で済ませたが、バスの時間があったので途中で終わらせて帰って来たのだった。

由紀子はこの時間が好きだった。
背中越しに陸の気配を感じながら鉛筆のコツコツいう音と、自分の立てる料理の音がハミングする時間。

「ねえ、今日ハンバーグだけど
 コールスローも食べるわよね?」

宿題をしながら、目だけお母さんを見た。すぐにノートに視線を戻して

「うん。」

と言った。

由紀子は冷蔵庫から半端な野菜達を出して次から次へと薄く、細く、切ってはボウルに入れていく。
きゅうり、きゃべつ、にんじん、たまねぎ。全部入れて少し塩をする。

「そうだ。
 トマトも1個半端に残ってたっけ。」

塩をした野菜の中に細かく切ったトマトを入れてマスタード、酢、こしょう、少しだけマヨネーズを入れて混ぜる。
小皿にこんもりよそって、陸の前に出した。「食べて。」
味見よりも多い分量のコールスローの入った小皿と小さなフォークを持って、パクパクと頬張った。

「うん、うん。おいしい!」

宿題ももうそろそろ終わる。

幸せな時間。
嘘っぱちの。
ホントとは違う時間だ。

陸はコールスローの小皿を、わざと音を立ててテーブルに置くと
「終わったから、片付けてくる。」
と言って使った教科書やノートをカバンに仕舞い自分の部屋に逃げた。

お父さんが帰って来る前にお風呂に入らないと。

急いで用意して風呂場に向かう。

「お母さん、ぼくお風呂入ってくる。」

「そうして。」

「うん。」


お風呂とトイレと自分の部屋。
学校へ行くスクールバスの中。
そして図書室。
これがぼくのすべて。
家も、お父さんも、お母さんも、まるで仮面だ。
ぼくの家は人形の家だ。
段ボールとプラスチックで出来た偽物の家。中にいるのはちっとも笑わないきれいな人形。
ぼくの日常は、切り取られてどこにもない。
なにもかもが偽物。
本物は何ひとつない。
ぼくが信じられるものは自分だけ。


ちゃぷん。

湯船に足指をそっと入れた。
うん、大丈夫。
右足を入れ、左足も湯船を跨ぎお風呂に肩まで浸かった。

ぼくはまだ子どもだ。
子どもすぎるくらい、子どもだ。
でも知ってることはたくさんある。
ほんとうはお風呂の窓を全開にして叫び出したい。

「王さまの耳はロバの耳!」

どんなに気持ちいいだろう。
そんな勇気ちょこっともないけどさ。

湯船のお湯で顔をこする。

そのまま大きく息を吸って目から上だけ出してぶくぶくした。

ぼくは、
ぼくは、
どうすればいい?
お父さんのことは前から知ってた。
そしてぼくが知ってることを、お母さんもお父さんもたぶんわかってる。
でも、お母さんのことは
たぶんお父さんも知らない。
もちろんぼくが気がついていることなんか、これっぽっちも知らないと思う。

「ほーらー。
 もう、お父さん帰って来るわよ。
 早く洗って、出てきなさいよー。」

お母さんはやさしい。
お父さんもやさしい。
でもそのやさしさは本物なの?
ぼくはどのお父さんと、どのお母さんを信用すればいいの。

湯船から立ち上がり、熱めのシャワーでいい加減に頭と体を洗った。
お風呂に入ればいいのだから。
お人形は体なんか洗わなくても汚れたりしない。頭を拭いて体を拭いて楽チンなジャージに着替えて、薄ら笑いを浮かべながら三人でご飯を食べたらあとは部屋に戻ればいい。
ぼくの、ぼくだけの、
ぼくのための部屋に戻れば。

リビングに向かった。

顔が自然に見えるように、笑顔を作った。仕切りのドアを開けたらぼくは、『お母さんの陸』に変わる。
素直で、頭がよくて、自慢の息子。
美人で、ハキハキしてて、料理のうまい
半井由紀子のかわいいひとり息子。
演じるのは楽じゃない。
でも、誰もやめようとは言わないごっこ遊びは他所の人には理想の家族。
ぼくたちはやめない。
作り笑いも、愛想笑いも、毎日続けていつかほんとうになる日を待っている。

そんな日は
絶対ないこと
わかってるのにさ。


             終末夜話 5
               つづく

第6話へ


第1話に戻る



#コールスロー
#宿題
#嘘っぱちの家族
#自慢の息子
#自慢の母
#谷山浩子
#人形の家

いいなと思ったら応援しよう!