言葉よりすばらしいもののために言葉はあるって話
たぶん、スランプだ。
書けないというよりも、どうしたらいいのかがわからない。
ほとんど完成状態に下書きしてある記事もあるが、公開していいのかすらわからない。
この頃散々、「自分はこのように書いています・書きます」みたいなことを語ってきたくせに、もしかしたら語ったからかもしれないけれど、なにが正しいのかさっぱりわからなくなってしまった。
似たような状態には以前にもなったことがある。
言葉がこわかったのだ。
その頃は選挙があったり、戦争がはじまったり、そのなかでありとあらゆる人を傷つけたり貶めたりする言葉を目にしたりして、自分が書いたものもきっとどこかの誰かを傷つけたり不快にさせたりしているだろうな、と思うとなにも書けなくなってしまった。
そもそも、自分が書くことなんて、当たり前の世間常識にも欠けるわたしが体験したことから導き出したものすごく狭く偏った範囲のものであるから、そのようなものを堂々と公開することにずっと恥の意識があった。
そのときは、1ヶ月近く書くことをやめたと思う。
でも結局また、ふるえながらも書きはじめた。
だけど、その頃のわたしは今よりももっと読者が少なかったし、そもそもそんなにしょっちゅう書いていたわけでもなく、スランプと言えるほどの状態ではなかったと思う。
だからこれは、わたしの記念すべき最初のスランプだ。
そう思って、わたしは基本に立ち返った。
それは、「書きたいならまず読もう」ということである。
ごくごく一部の天才を除いて、人のものを読みもせずにいいものが書けるなんてことはまずないと思う。
あわよくば書けたとしても、それは自らが作り上げた塔のてっぺんにこもって成されたものであり、そこには孤独と驕りとが満ちている。
だからわたしは、ひさしぶりに知らない方々のnoteを自ら読みに行き、その正直さや、社会を見つめる目の冷徹さ、自分自身のための行動力など、さまざまなことにいたく感心した。
そして、先日やひろさんが記事にされていた、『太陽の子』を読みはじめた。
「1冊だけ本をすすめる」ことを考えると、とてもむずかしいなと思ってしまう。
やひろさんも書かれているように、おすすめさせていただく相手の背景に意識が行ってしまうが、その人の背景なんて、いくらその人と親しかったとしても本当にはわかり得ないものだから。
だから、わたしが不躾に本をすすめる相手というのは、ごくごく限られた近しい相手だ。でもそれすら、
「もしあなたにお暇な時間があって、たまたまこれに興味を持ってくれて、それでタイミングよく読みたくなったらうんたらかんたら……」
とか、すごく面倒くさい前置きをしてすすめてしまうことが多い。
そんなであるから、顔も知らない相手にたった1冊の本を迷いなくすすめられるだけでなく、それを「全人類が読むべき本だろう」として紹介できることは、本当にかっこいいことだと思う。
『太陽の子』についての説明はやひろさんの記事を読んでいただいたほうが絶対にいいし、まだ読み終わっていないので書けることがない。
でもたとえば、主人公ふうちゃんの「ひたいにぷっぷっと汗が吹いていた」とか、ふうちゃんの白いセーターが「真っ赤な曼珠沙華の海に見えかくれして」いたとか、そういうひとつひとつの描写を紙の上でたどるたび、胸がいっぱいになる。
そうだ、これが、本を読むことの醍醐味だった。
わたしはこの1ヶ月半、2ヶ月くらい、noteの文章で毎日あたまがいっぱいで、まったく紙の本で小説が読めなかった。
脳みそのしわとしわのあいだをそっと指でなぞってマッサージして、ゆっくりとほぐしていくような感覚。
今このときの誰かの最先端の言葉を読むことも大事だけれど、やっぱり年月を経て、人の心に残りつづけているもの、残りつづけるであろうものを読むということには、本当に味わい深い、滋味がある。
『太陽の子』を書いた灰谷健次郎は児童文学作家だが、児童文学でわたしは好きなものがたくさんある。
そのなかでも小川未明の『赤い蝋燭と人魚』は、挿絵ちがいの本を3冊持っているくらい、なんなら若かりし頃に自分でつづきを書いてしまったことがあるくらいに、ずっと好きな作品だ。今ではもうそんな畏れ多いことはできない。
いわさきちひろは『赤い蝋燭と人魚』の挿絵を最後として亡くなっているので、もしお時間があって、興味があって、気が向いた方は……と言いたいところだけれど、読まなくってもいいんです。
とても暗くてかなしいお話だし、教訓というものがあるとすれば、「お金に心を奪われると大切なものを見失う」という当たり前のことであると思う。短い話だけれど、タイパもコスパもたぶんよくない。
だけれどやっぱり、そういうものにしかほぐせない凝り固まりがあるのはまちがいのないことで、なにかつらい状況にある方がいたら、ネットで言葉を読むのはほどほどにして、本を読んでみてほしいと思う。できたらば、紙の本で。
「書くこと」に心をがちがちに固めてしまっていたわたしにとっても、きのうの読書の時間はとても大事なものだった。
この人生に残っている時間は有限だ。
その大切な時間をわたしの文章に使っていただけるとしたら、本当にこの上なくありがたいことだし、このスランプは「どうしたらもっとたくさん読んでもらえるのだろう」という思いにもつながっているものだから、真逆のことを言うけれど。
今あなたがここで読んでいるわたしの文章なんかより、あり得なくすばらしいものが、古今東西、この世界には溢れているよ。
『老子』から、『マノン・レスコー』に『椿姫』、そして『キッチン』まで。
(これはわたしの好みの偏りで、ただの一例です)
あなたがあなたにとっての、すばらしい文章、すばらしい本に出会えますように。
そしてそれを胸に、今日を生きられますように。
言葉の世界はすばらしい。
でも、生きることはもっとすばらしい。
言葉のために生きてしまうのはやっぱりちょっと気が狂っていて、でもそれでもわたしは気が狂っているから明日もまた書くと思うけれど。
だけど、言葉よりもっとすばらしいもののために言葉は存在しているから、そのことを忘れず、存分にこのからだと心を使って、今日を大事に大切に、しっかり生きようと思います。
