心のボディワーク
毎日ある程度の分量のものを書き続けていると、もちろん書くことの筋トレにもなるけれど、それ以上に心というもののボディワークになるように感じている。
ボディってからだやんけ、なのですが、世界三大ボディワークとされているものが、
◎アレクサンダー・テクニーク
◎フェルデンクライス・メソッド
◎ロルフィング
で、これらをご存知の方はおわかりのように、ボディワークというのは、心の治癒力や、自己認識などにも作用するものだ。
だから心のボディワークというのは、心というものを実体として見たときに、その表層にも深層にもアプローチする、なにごとかである。
わたしはボディワークを仕事にしていたことがある。
これにはすごく怪しい仕事をしていたように書いてあるけれど、ボディワークをしていました。
この記事にはちゃんと結果を出していたそのことを切り取っているけれど、からだを扱っているのに、当時のわたしは半分くらいはスピリチュアルかぶれというか、ひどいもんだったなと思っている。
もうボディワークなんてやりたくない。
わたしなんかがどれだけ勉強しても、からだというものの深淵にふれることなどできないのではないかと思うから。
大学を中退してからわたしは、アメリカ、シアトルへと旅立った。
人体解剖と自然療法の研修を受けるためだ。
当時はボディワークにはまだ手を染めておらず、ヨガインストラクターの資格を取ろうと勉強している最中だった。
整体師になるための勉強をされている方々に混じった、若くてひょろひょろ(いろんな意味で)のわたし。
もう15年くらい前のことなので、今どきのことはわからないのだけど、当時のわたしはアメリカのすべてに衝撃を受けた。
その「すべて」とは、
ドラッグストアにふつうにハーブチンキやフラワーエッセンスなどのレメディが売っていること。
西洋医学を扱う病院で、東洋医学的な施術が当たり前に行われていること。
スーパーにはヨガブリック(ポーズを補助するブロック)まで売っている。
だいたい、わたしがその研修を受けた医学大学は、代替医療の専門大学だ。
そんなものがあること自体が衝撃である。
その大学の学食はベジタリアン向けになっており、お茶のコーナーにはオーガニックのハーブティーが置いてある。
トイレのハンドソープまでが無添加石けん。
もうもうもう、衝撃であった。
15年経つが、日本にその片鱗はない。
わたしが知らないだけかもわからないけれど、たぶんないですよね……?
もしあったらごめんなさい。
代替医療が全面的によいという話ではない。
わたしは統合失調症を、がちがちの西洋医学の薬物投与がまずあって、寛解に持っていけたのだと思う。
ここのところたまにnoteで嘆いていたひどい蕁麻疹も、皮膚科で「原因は不明だけどこれを塗って」と処方されたステロイド剤を塗りはじめたら、かなりよくなった。
陽に当たったり疲れたりするとぶり返すけれど、それでもとりあえず、ましにはなった。
だから西洋医学、現代的な医学ももちろん必要なものだと思う。
日々最先端の方たちが最先端なことをしてどんどん最先端に発展しているものなのだろうし。
だけれど東洋医学や代替医療のホリスティックな視点、というのはやはり、実際にそういう医療を受ける受けないにかかわらず、とても大事なものなのではないか。
ホリスティック、というのは、全体的、調和的、という意味だ。
からだと心はつながっていて、それはひいては社会や環境ともつながっている。そういう考え方。
「小医は病を医し、中医は人を医し、大医は国を医す」というのは、ホリスティックなもののまわりにいると一度は聞く言葉。
似たような言葉だと、「病を見て人を見ず」という、症状やデータなどを見て人そのもの、その人全体を見ないことへの戒めとしての言葉を聞いたことがある方は多いのではないか。
ちょっとした風邪ですら、引く理由があり、意味がある。ホリスティックな視点では、そのような捉え方までをすることもある。
それは、西洋医学的な「原因」とは少しちがう。
わたしのなにが、その風邪を引き起こしたのか。
わたしのなにが、それを求めたのか。
そしてそれは視点を拡げるとやはり社会や環境までの話になる。
わたしの蕁麻疹だったら、今わたしは本当は、人目にふれることがとてもおそろしいのだと思う。
noteを毎日書きはじめて、毎日自分の内側が人目にさらされることが苦しい。
そういう気持ちが、蕁麻疹を生み出したような気がしている。
「わたしを見ないで」という気持ち。だから人目にふれてはならぬほどの蕁麻疹が出た。
からだと心のつながり、その精妙さには、いつも感嘆を超えて畏怖するばかりだ。
そして、からだも心も一生懸命、わたしたちが生きのびられるように闘っている。
もうその生き方はちがうよ、ということをからだの言葉で言うと癌になるかもしれないし、心の言葉で言うとうつになるかもしれない。
必ずしもそのかたちであるわけではないけれど、そういう場合も多々あると思う。
からだや心が肩代わりしてくれることもたくさんある。
わたしの統合失調症はそういう側面があった。死ぬよりは、脳を壊してしまったほうがよかった。
死ぬよりは臓器をとってしまったほうがいい、というのと近いのではないかと思う。
ボディワークは資格を持ってやっていたし、人体解剖も含めてあらゆる勉強はしてきたけれど、わたしはもう専門家でもなんでもない。
だから、話半分で聞いていただいてまったくかまわないけれど、ひとつだけ、聞いてもらいたい。
それは、あなたにとって、あなたのからだは、心は、本当に、このうえなく尊いものだということだ。
どんなかたち、どんな凸凹をしていても。
どんな病気や問題を持っていても。
それだけは、忘れないでね。
当たり前のことを言ってごめんなさい。
でも、たくさんの人は、忘れているのじゃないか。
あなたにとって、だ。ほかの誰かは関係ない。
あなたといういのちをまっとうするための、そのからだ、その心だと思います。
それを大事にケアし、丁寧に扱うということ。
わたしも人のことを言えたものではないけれど、わたし自身ももっとおおらかに自分のことを見て、自分とかかわれるようになりたいなと思う。
一緒にやっていきましょう。
いつもそのように思っています。
からだのことも、心のことも、暮らすということも、だ。
それぞれがそれぞれのことをやるしかないけれど、なにか小さく、目に見えないかたちでも、こうして出会ってつながって、一緒に生きているのじゃないかな。
もう会うことのない、その場限りの出会いでも。
そのように、思います。
元気な人もそうじゃない人も、みんなが大丈夫だといい。
そう、心から願っています。
