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自称エッセイストより

「エッセイなんて書くやつは自分にしか興味がない」という言葉をうっかり目にした。

なんだかそれはずいぶんな誤解ではないかと思って、というか、でも、正直に言ってそんなに思慮が重ねられた言葉でもなさそうだった。

わたしはすばらしいエッセイを書く方たちの、世界への愛に打たれる。

そして自分のようにエッセイを志す者も、身のまわりへの解像度をぎりぎりまで(つまり気が狂うすれすれまで)上げること、そうして自分に見えるものを抽出し、蒸留することによって、結局は世界への愛を語ろうとしているように思う。

だから、何度も言うけれど、そんなに熟慮された言葉ではなさそうだったから、そんなゆるゆるのパンツのゴムみたいな言葉でエッセイストたちを斬れるものかよ、とは思うのだけれど、自分のうちだけでそう思っているのもしゃくなので、なにかをしたためてみようと思いました。

エッセイスト、というのはエッセイを書く人のことであり、ゆえにわたしだってエッセイストだ。

昔、仲の良かった友人に、そのパートナーが、わたしが当時付き合っていた人について尋ねたときのこと。

「その人はなにをしている人なの」
「あそこのお店の人で、音楽をやっている人」
「じゃあミュージシャンだ」

友人は、
「ちがう、ミュージシャンじゃなくて、あそこのお店の人」
と反論したのだが、パートナーがぴしゃりと言ったことが秀逸であった。

「音楽をやるなら、なにをしていようが、なにで生計を立てていようが、ミュージシャンだろうが」

「ああ、ごめんなさい」
と目を丸くして謝る友人もかわいく素敵で、わたしもまた、彼女のパートナーに降参だった。

お金をもらったり、名刺にできたり、それで生活したりしていないと、ミュージシャンやエッセイストにはなれないだろうか。

資格を持ってお金をもらって名乗っても、自分にとって脆弱なことはたくさんある。
わたしは20代の頃に、ある資格を持って個人で働き、少なくはない額のお金をみなさんにいただいていたが、心はいつも吹けば飛びそうに頼りなかった。

国家資格ではないとか、誰でもやる気さえあれば取れる資格だとか、資格さえあればできることであるとか、そういう言葉をいくらでも生み出して自分を見下していたと思う。

実際に、わたしのことを批判する方に出会うこともあった。
そんなことで、その歳で、そんな高額なお金をとるってどうかしている、と。

それでも結局その方はお客さまとしてわたしのところに来てくださり、わたしはちゃんと目に見える結果を出した。
でもその方はわたしが結果を出したことにこそ納得がいかなかったようで、その後その方に会うことはなかった。

「なにをしたの?」
と言われた。気味が悪そうに。
そして、
「こんなことで生活するなんてどうかしている」
と言い捨てられた。

文章にも、なにか似たようなところがあると思う。

この人の文章には引っ張られて読んでしまう。
この人の文章は正しくないけれどからだに作用する。

そういうところに、なにかが隠れているような気がする。
そうして、そんなただひとつの文章で、人生が動かされたりする。

ある人から見たら、そのわたしのかつてのお客さまのように、多くの人が当たり前にできる文章を書くということで、とりわけエッセイのようなものでお金をもらう人がいるということなどゆるせないかもしれない。

だとしたら、お金ももらえないのに書く人たちがいるなんて、信じがたいことですらあるのかもしれない。

「自称エッセイスト」かもしれない。
「自称」という言葉には、きっと多くの人にとっては嘲りが含まれている。
わたしは、胸をそっと引っかくような、痛みを感じる。

わたしの元婚約者は、「自称サイコパス」だった。
たしかにサイコ野郎ではあったが、それでもサイコパスを自称することは、彼の自己否定や自己卑下がそうさせるのであるような気がした。

事件を起こして「自称」と書かれる人たちを見ると、うっすら鼓動が早くなる。
現時点で確認されない、それ以上でも以下でもない、それだけのことかもしれないけれど。

自称エッセイストを批判するのは、「自称何者でもない者」だろうか。
わたしたちは何者でもないが、同時に、自分は何者でもないと言うことほど傲慢なことはないのではなかろうか。

自分の持ち場をまっとうするということ。
それがいのちに与えられた命題のひとつであるように思う。

右手は右手を。親指は親指を。
それぞれがそれぞれの持ち場で一生懸命やっている。
怪我や病気をすれば治癒のために働き、からだのすべて、心のすべてと連動しながら、親指の、右手の、わたしのいのちを生きている。

そこひとつひとつに、わたしは興味を向けている。愛情と言ってもいいかもしれない。
右手も左手も健康でいてほしいと思うし、張りや滞りがあれば、わたしのなにがそうさせているかと思う。

わたしが「わたし」をまっとうするとはそういうことだ。
それがわたしがまわりを眺める目線でもある。

そして、わたしはそのように身のまわりを見つめ、それを言葉にととのえていくことで、人を、世界を、すこしでも理解したいと思っている。
それが「わたし」のまっとうの仕方ではないかと信じている。

それはたしかに、とても不遜なことであるかもしれない。
だから、「自称」と呼ばれても仕方がないのだ。

そもそも言葉にできることなど限られている。
それをもって世界を理解しようとすること、そしてそれを人の目に晒すということ、それ自体がおこがましいのかもしれない。

わかってる。
そんなこと、わかってるよ。

わかってるから、わかっているけど、お願いだから、書かせてほしい。

わたしはすでに、狂っていると、わかっている。
それでもまったく足りないとも、知っている。

書くというのは狂気の沙汰だ。
書かずとも生きていける、それだというのに書かなければ生きてゆけない。

言葉の大海を泳ぎ切り、行き着く先はあるのだろうか。
そんなものなどない、とわたしのような者でも知っている気がする。

わたしのいのちを燃やし尽くすために、書く。
わたしのいのちはまだ燃えはじめたばかりだ。

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