三、復讐の炎は地獄のようにわが心に燃え⑤

 何度も繰り返した軌跡をなぞるように的確に、指定の場所に停めた車のドアを開けて、堀くんが青い空を見上げた。

「暑いですね、今日は特に」
 目を細めて短い首から透明な汗を滴り落とす。

 あまりの暑さに私もジャケットは着ていられなかったから、フリルのシャツのボタンをしっかりと全部留めて手のひらでせめて顔に影を作る。容赦ない夏の日差しが車体にも私たちにも黒くて濃い影を作らせた。

 立っているだけで消耗するような気温。フライパンの上にばら撒かれた炒り豆はいつもこんな気持だろうか。
「そうね」

 無風の駐車場。堀くんがフロントに銀色の日避けをつけていたけど、無駄な抵抗に思える。
 面接を終えて帰ってくるのが今から思いやられる。

「最後ですからね?」
 低く念を押して、堀くんが重い音を立ててドアを閉めた。
「承知しましたってば。あとはもう書くだけ。でしょう?」

 私だって締切を破るつもりはない。
「ならいいんですけどね」
 素っ気なく言って、堀くんは先に歩き始めた。

 思った通りほんの数十メートル歩いただけで頭から汗が吹き出してきて、私はファンデーションの崩れが気にかかる。一刻も早く空調の効いた建物へ入って、化粧直しがしたくなった。

 申し訳程度に囲われた花壇にひまわりの花がぐてっと首を曲げている。ここから見ても足元の土がカラカラに干からびているのが分かる。
 ジワジワと反響する蝉の声が呪いじみて耳に這入る。

 私は巨大な白い建物を仰ぎながら濡れてシャツが張り付いた堀くんの背中を追いかけた。
 ここへ来るのは、本当に今日で最後になりそうだ。

「暑いわね。体調は、変わりない?」
「食欲はなくなってきましたね。米じゃなくてそうめんでも出てくれたらありがたいんですけどね。生ビールとは言わないからさ」

 へらっと崩れるように笑って、万堂は最近は面接が楽しみで仕方ないんだと言った。
「ここは冷房がしっかり効いてて、助かりますよ、実際のところ」

 悪びれずにそんなことを言う万堂だが、確かに夏バテ気味なのか少し痩せた頬に影が差して見えた。
「それは生憎だけど、今日で面接はおしまいの予定よ。ご協力には感謝するわ」

「へえ? もう僕が理解できたの。センセ、頭いいんだね」
 挑発。だがそれも今は寂しそうに見えた。この先のこの人の運命を容易に想像できてしまうからだろうか。
 私にも、もちろん万堂自身にも。

「人が人を完全に理解することなんて、できない。私は最初から、あなたを対等な人間として見ているつもり。だからきっと、私には見えなかったことも多々、あるんだと思ってる。私が鑑定書を書く前に、言っておきたいことがあるなら言っておいて。今、ここで」

 食い入るように見つめたはずだが、万堂は涼し気な顔で眉ひとつ動かさずに同じ言葉を繰り返した。

「僕は、やって、いません」

 言いたいことはそれだけか。主張はずっと一貫していた。そのことは、見事だと思う。それが事実でないのなら、なおさら。
「分かりました。あなたがそう言っているということは、鑑定書にも書いてあげるわ。必ず、ね」

「そりゃあどうも」
 抑揚のない声で言って、万堂はあの蛇のような目で私を見た。
「今日はあなたに聴かせたいものがあって」
 言いながら私は小さな録音再生機をテーブルの上に載せた。

「なにそれ。音楽でも聴かせてくれるのか。ショパンの別れのワルツか」
 万堂の乾いた笑いは無視して、私は堀くんと編集した恵利の音声を再生した。一切何も説明をせずに。万堂がいつ気がつくかにも、興味があった。
 ジィと素人の録音らしい雑音に乗せて酒焼けした女の声が響く。

「両親は厳格なクリスチャンだった。もうどっちも死んでるけど……」「イサベラっていうんだけど。笑っちゃうでしょ」「相手の親は中絶してほしそうにしていたけど、強くは言えないわよねえ。確かうちの父親が圧を掛けて、男親は不明ということにしろって言ったのよ」「高校生だもんね」「あたしにも哲人にも一切関わらないかわりに戸籍にも載せないって」「やっぱり、悲しかったなあ」「いいこともしてやらないけれども、虐待とかイジメたりとかもしない」「今さらあたしが母親ヅラしたってねえ」「オンナ同士だもん、うまくいくわきゃない」「中絶させないのに男と縁を切らせたのも全部、母親の差し金」「あてつけみたいにメロメロにかわいがって」「やっぱり女育てるより、男育てる方が楽しいわけ」「ガミガミしていつだって管理」「箸の上げ下ろしから言葉遣いに至るまで、なんでもかんでも」「でも哲人は言ってもわかんないと思う。哲人に対してはあの女は、メロメロに優しいお母さんでしかなかった」

 聞きやすいように編集された女の声に、万堂は黙って静かに耳を傾けた。
 懐かしいのだろうか。母親の声。万堂は恵利とこんなに長い時間、言葉を交わしたことがあっただろうか。

 殺風景な真四角の白い部屋に恵利の声が響く。
 顔色すら変えない万堂の感情は読むことができなかった。
 私には彼が何を思うか、何ひとつ予想すら立たない。

「DVだの借金だの、いちばんひどいのはジャンキーで」「あたしといない方がいいかもしれないって思った。哲人のためにあんまりよくない」「男は皆、あたしを置いてどこかへ行く。これで例外は一人もいなくなったわ」

 万堂恵利は決して切々と不幸を訴えるような喋り方はしなかった。淡々と、時に可笑しく心情を語るタイプの女性だった。やっぱり頭のいい人なんだろうと思う。
 やっていることが、母親として出来がいいとは言えなくても。

「哲人くんが逮捕された時は、どう思いましたか」
「あ、生きてたんだって思っちゃった。あの人にそっくりだなあって思ったの」
「……哲人くんのお父さんですね」
「全国ニュースで万堂って出て。年齢も報道されたでしょ。これはきっと、あの人にも知られちゃったかなあって、思って」
「どんな気持ちでしたか」
「ごめんねって気持ちと、あとは……あたしに連絡くれるかなって」
「連絡は来ましたか?」
「来るわけないでしょ」

 プツンと途切れるように音声が止まって、静寂がかえった。四角い部屋に四人もの成人がいるのに、物音ひとつ、呼吸ひとつ聞こえなかった。
 私は正面の万堂を観察していた。音もなく顔を上げた万堂が掠れた声で囁いた。

「やだなあ……はじめて、聞いた」
「お父さんの話?」
 万堂は何か答えようとして、困ったようにゆるく笑ってみせて、唇をわななかせて頷いた。

「しらな……った」
 知らなかった、と彼は言った。詰まったような声音で。
 蛇のような目が急に鋭さを失ってキラキラと透明な水圧が上がってゆく。
 はぁ、と湿った溜息を零して彼は力なく微笑んだ。

「そうか……うん、そうか」
 何かを噛みしめるように繰り返し、奥歯を噛んで耐えている。今にも震えそうな肩が、まるで少年のように細く見えた。

 無力で、儚い。
 すうっと一筋、雲間から差す淡い光明のような涙を流して万堂がまっすぐに顔を上げた。
 正面から見据えられて、私の息が、止まる。

「これを僕に聴かせてくれて、ありがとう」
 その声は濡れてはいたが、震えてなどいなかった。どこか晴れ晴れとした顔で彼は言う。

「知らなかったから。知っていたら、こんな風には……なっていなかったと思います」
 今までで一番素直な万堂の声だと思った。
 ひどく優しく柔らかく、夕凪の海のように穏やかな。

「先生、もし可能なら……あの人の、お母さんの住所を僕に教えてもらえませんか」
「住所」
 すぐに意味が分からなくてぼんやりと繰り返した私に、ふわりと微笑んで万堂が頷く。

「拘置所に戻ったら、手紙を書きたいんです……僕はお母さんを誤解していた」
「そう。それはきっと、喜ぶと思うわ」
 もうそれくらいしか言えなかった。

 万堂は悲しげな笑みを浮かべて、私にすっと手のひらを差し出した。
 吸い寄せられるように重ねた手から、甘やかな熱が伝わってじわりと侵食されてゆく。

「ありがとうございました。あなたに会えたこと、心から感謝します」
「あの、こちらこそ、どうも……」
 明瞭な彼の声。私の声はくぐもっておどおどとつぼんでいた。

 これではどちらが鑑定人か分からないくらいだ。
 透明なガラス細工のような瞳が乱反射して、はじめて触れた彼の手のひらは、人を殺したとは思えないほどにとろりと滑らかだった。

 白く夏のひかりの満ちた無機質な部屋。
 なんて明るい。明るすぎて忘れてしまいそうじゃないの。
 この後私がする仕事。そしてそれによって万堂は……。
 私は居たたまれなくなって先に視線を逸した。
 部屋の中、線の細い男が微笑んでいるのが白いひかりで焼き付けられる。

 こうして長かった万堂哲人の鑑定は、終わった。

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