五、見よおそろしい炎を⑥
東京拘置所内
万堂哲人様
涼しさが日に日に深まって、気がつけば上着が手放せない季節となりました。そちらの独房には暖房は設置されていないと聞いております。万堂様におかれましては、ご体調はいかがでしょうか。くれぐれもお風邪など召されませぬよう、ご自愛ください。
さて。あれからいくばくかの月日が流れ、大変ご無沙汰をしておりますが、折り入ってご報告したいことがありましたので慣れない筆をとりました。
報告書や論文、カルテの類は書き慣れておりますが、私信というのは滅多に送りませんので、どのように書いてよいか、考えあぐねております。少々、精神科医じみた内容になっておりましたら、職業に半生を捧げた哀れな女の戯言と、ご笑覧いただければと思います。
この頃になって落ち着いて鑑みますに、私は、最初からあなたの手の内で踊らされていたように思います。もともと役者が違っていたのでしょう。あなたは私よりたいそう格上のプレイヤーです。
生まれ持って人を操る才能というものがあるのなら、あなたはその天才なのでしょう。あまりに見事にあなたはそれをやってのけた。
あの日。あなたが唐突に解離性同一性障害を持ち出したあの時、私にはそれを信じる土壌がありました。精神科医としてその疾患を知ってはいたし、実際、私が今まで診断してきた中にこの病気を見過ごして誤診した患者があるいはいたのではないかと思うことも、以前からときどきはあったのです。仮に誤診だったとしても、解離性同一性障害に対する決まった療法というものはまだないはずですので、結果はそう変わらなかったとは思いますが。
改めて最初からあなたの面接の音声データを聞き返しました。今度は時間に追われず、できるだけ先入観も取り払って。
最初の面接から巧妙に布石を打って、ひとつずつ、あなたが私に一つの結論を刷り込んでいたことが、ようやく愚かな私にも分かりました。なぜあのタイミングで言い出したのかということも、おぼろげながら。
あなたにとって堀くんが不確定要素だったのですね。
彼は最初からあなたを人格障害だと診断していました。ほとんどブレることなく一貫してそう思っていたようです。未遂を含む五件の事件もすべてあなたの犯行だと確信していたことと思います。たとえ動かぬ証拠がなくとも。
そういう彼を前に解離性同一性障害を持ち出すのはあまりにも危険だった。あなたの持っている医学知識の中で、とっさに彼を納得させるだけの演技ができるかあやしかった。あなたはおそらく、この疾患について映画や小説のフィクション、一般で入手可能な範囲の図書やインターネットから知識を得たのではないでしょうか。
あなたの描いたバウムを一目見て堀くんは「出来すぎている」と評していました。私は出来すぎているからこそ、新しいオリジナルの症例なのだと言い張りましたが、今考えてみるとどうでしょうか。奇しくもあなたがロールシャッハ・テストに対して言ったように、インクのしみはいくらでも解釈をつけることが可能なのです。私が勝手な理屈を持ち出して、うまく擁護することを、あなたは知っていたのではないでしょうか。
知っていたと言えば、あれもそうですね。あなたは私があの日、追加で面接に来ることを読んでいたのではないでしょうか。移送直前の、あの日です。覚えているでしょう、あの日何があったか。あなたにとっては駒を動かすためだったあれが、私をすっかり狂わせましたね。いやらしく鼻先にちらつかせた人参で、私はあなたの期待以上によく走ったのではないでしょうか。
面接に堀くんを連れて行かなかったことまでもが、あなたの思惑の通りだったのですか。だとしたらどこから、あなたは私を操作していたのでしょう。心理職のプロが催眠にかかっていたとでもいうのならば、それは、笑えますね。
最初に出会ったのが「テッド」だという設定なのも、私をうまく混乱させるよい策略だったと思います。人間の印象は初対面である程度固定されている。先入観というやつですね。けれどこれはまた、テッドがあなたの演技だという確かな証拠にもなりました。あなたはあなたの主張する万堂哲人の状態で一度、私に律子と呼びかけましたね。私があなたにフルネームを名乗ったのは初対面の一回だけです。名刺も渡していません。必要がなかったので。そしてあれは確実に鑑定書の写しをあなたに渡す前でした。だってあの時点ではまだ数行しか書けていなかったんだから。
よって鑑定人のフルネームを「万堂哲人」は知らないはずなのです。
うかつですね? そして名前を呼ばれたことには気がついたのに、そのうかつさに気づいてもいなかった私は。私はあまりにも愚かで傲慢だった。あなたの言う通りまさしく「うすのろ」なのでしょう。今ははっきりと自覚しています。
私は人の心に化け物がいないと思っていたわけではないのです。化け物がいればそれが分かると、思い込んでしまったのです。
アメリカでも日本でも、シリアルキラーと呼ばれる人たちに会って来たのです。でも私は彼らを本当には理解していなかった。そのことが今さらながらに悔やまれます。あなたの首に鈴は確かについていたはずです。なのにその音が私には聞こえなかった。あなたの奏でた幻のカンパネッラにかき消されて、危険を知らす鈴の音が、聞こえていなかったのです。やっぱり、笑えますね。
#創作大賞2025 #ホラー小説部門 #精神鑑定人のアリア
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