五、見よおそろしい炎を⑦
控訴されていることと思いますが、次は前回よりも苦しい戦いになるでしょう。老婆心から申しますが、今度は弁護士を雇うことをおすすめいたします。弁護士はあなたを止めてくれるような人が、望ましいと思います。たやすく言いなりにできるような無能なバカではなく。
思い返すと、弁護士を早々に解任してしまったのも計算ずくだったのだろうと思います。理由は複数あったのでしょう。ひとつはあなた好みの法廷劇を演出するのに弁護士が邪魔だったということ。もうひとつは、私を追い詰める材料になったのだろうと言ったら、あなた、嗤いますか? 鑑定書にすべてがかかっている状況に追い込まれた私がどう考えて、どんな風に書くか。読み返してみましたがあの鑑定書は、文字通り黒いものを白と言い張るようなひどい文書だったと思います。何もかもがあなたの思い通りだったんでしょう?
その中で、あなたは負けたんですよ。
敗訴の原因を私や裁判員だと……あなたは本当にそう思いますか? 法廷で証言したテッドを見た時、あの時はじめて私にも犯罪の動機が腑に落ちたような気がします。
あなたはやりすぎたのです。ドラマチックが過ぎたのです。何もかもが過剰で、それは私のような愚かな女を夢から醒めさせるほどだったのです。
テッドは雄弁にあの事件の本質を語っていました。それこそ顕著な事実と認定されるほどに、誰の目からも、明らかに。
あのままうつむいて否認を続けていればまだ、合理的な疑いの余地があったかもしれないのに。疑わしきは罰せず。疑惑は疑惑のままに、極刑は回避された可能性があの時はまだあったとは、思いませんか。
この敗北はあなたの敗北です。とくと味わいなさい。
私の精神科医としての最後の仕事として、あなたを再度鑑定しました。もう医師免許は返納済みなので、これはあなたをある程度知っている女の意見として、どうぞご一読ください。あなたの今後の裁判に、あるいは残された人生に、お役立ていただけることと思います。
鑑定主文
一、万堂哲人の精神状態はまったくの正常で、なんらの精神疾患・意識障害・精神遅滞の所見は見られない。
二、犯行時も同様の精神状態であり、万堂哲人の主張する解離性同一性障害様パーソナリティーの揺らぎについては、演技性二面性、刑法三十九条を根拠とする減刑を期待した詐病であると鑑定する。
診断と考察
一、万堂哲人の主張する解離性同一性障害の奇異な点について。
解離性同一性障害は通常、幼少期からのストレスを主因として発症すると考えられ、成人してからある日突然意識が別人格に乗っ取られるというようなことは考えづらい。彼の語る幼少期からの記憶はすべてが主観であり、丹念に追いかけてはみたもののその事実を確認できる客観的事実は見つけられなかった。また、別人格を例えば自らの審理中、証言台に立っているまさにその時、というような明らかに心理的にプレッシャーのある状態で容易に呼び出すことができるというのなら、それは自らの意思で自在に人格の切り替えができるということに他ならず、別人格の行った犯行を止めるすべがなかったという主張とは相容れないものである。
二、万堂哲人の犯行に対する心理的な考察
この事件は心理的には通常のセックス殺人とは大きく異なっている。セックス殺人は性欲が根本の原因としてあり、その欲望を満たすことが優先されて犯行が随従する。しかしながら本件において主となった欲望は殺人それ自体であり、性欲の発露は偽装に他ならない。
ロングヘアの若い女性たちは皆、犯人の心理的にはある一人の女性を示している。
若き日の彼の母親その人である。
それも等身大の母親そのものではなく、彼が中学生の頃、次々と男を家に連れ込んだ奔放な「女」という虚像である。
彼には「母親はこうあるべきだ」「こうあってほしい」という強い願望があり、その像は現実の母親の手によって無残に打ち砕かれた。この理想と現実の乖離が許せないまま、彼は大人になっても母親への憎しみを燻ぶらせ続けることになる。
女性たちへの執拗な加虐は犯人にとっては「女」への「制裁」。彼女たちは犯人にとっては心理的に「悪い母親」なので、目的は性欲を満たすことではない。あくまで罰としての暴行で、彼自身の欲望とは違う次元の犯行なのである。
彼女たちの遺体が野外で晒されることになったのも、この心理で説明ができる。
あれは強姦ではなく、本質的には見せしめ。性的色彩を帯びた私刑であると言える。無論、彼女たちに罪などない。
彼の母親と同じ髪型をしていたというだけで卑劣なミソジニストの私刑の対象になってしまっただけだ。
幼い頃から母親とほとんど心理的交流を得ることのできなかった犯人は、母親に注目させたい、己の存在を知らしめたい、また自己を無視し続けた母親に対して制裁を加えたいという歪んだ愛着を抱き続けており、そのために「話題性のある事件」を起こすことを思いついた。母親にその事件を知らしめるためである。幼児が「ねえ、ママ、見て!」と忙しい母親の袖を引っ張るのと少しも変わらない。袖を引っ張られても振り向かない母親に対して彼は、より大きな害を与えようと考えた。
逮捕から裁判への一連の流れは、おそらく犯人の計算の通りであったはずだ。
ある程度の証拠は掴ませておき、決して自供はしない。逮捕とそれにともなう報道合戦は犯人の狙いのひとつであった。
これだけの大きな事件の犯人が自らの息子であるという事実を突きつけ、母親の人生を破壊しようとしたのだろう。ついでに彼の肥大化した自己顕示欲も満たされて、さぞやご満悦だったことだろう。
しかし極刑は犯人としても避けたいところである。
ここからが彼の巧妙であり特異な点であった。
彼はもっとも利用しやすいものを利用して難局を切り抜けようとしている。
ある愚鈍な女性精神科医である。
彼の中で母親は愚者の象徴、また母親と同じ性を持つ女性全般を敵視している。ゆえに「女性」精神科医を操作することは、彼にとって抗いがたい悦楽を生じさせたと推察できる。他人からは先生などと呼ばれ、社会的に地位のある女を傀儡にしたい。趣味と実益を兼ねた歪んだ欲望があったはずだ。実際、被告は精神鑑定の大家であった男性精神科医を拒否して、ある女性精神科医の鑑定を受け入れた。詐病を見抜かれづらくする以上の意図がそこに見て取れる。
意のままに精神鑑定人を翻弄している実感を得た彼は、自分が最も賢く優秀で、できないことは何もないという妄想に拘泥する。彼にとっては裁判も箱庭の遊戯に過ぎず、持ち前の自己顕示欲を存分に満たす演出を考案するに至った。
日本ではじめて、法廷に別人格を呼び出して注目を浴びる。その上で自己弁護でありながら心神喪失による無罪を勝ち取れると、おそらく被告は確信していたはずである。いわゆるプリズン・グルーピーから届いていたであろう賞賛の言葉も彼の妄想を後押ししたことはぜひ付け加えておきたい。
ショッキングな事件にはセンセーショナルな裁判を。そこからの大逆転の無罪。
ドラマを好む被告が望みそうな事件である。
惜しむらくは、この全体の心理構図が見えたのが、精神鑑定中でなく公判の最中であったこと。そして彼の思い描く世界を成立させるには、彼が最も憎みまた軽蔑する愚鈍な女たちの盲目的賞賛が必要不可欠なことである。
彼は自分が裸の王様にしかなれないことに、今もってなお気づいていない。
以上から、主文通り相違なく鑑定いたします。
鑑定主文を、もう少しわかりやすく書き下して付記する。
要するに万堂哲人は、度し難いマザコンのナルシストだということです。
私がもしもまだ精神科医であったら、パーソナリティー障害とも診断しないでしょう。マザコンにもナルシストにも治療薬はありません。いつか夢から醒めていただくことを、遠くから強くお祈り申し上げます。
最後に。この長い手紙をしたためたのには理由があります。その理由とは当然、その資格もなくなった精神治療を施すことでもなく、獄中で時間を持て余しているあなたの慰みのためでもありません。
ご報告したいことがあります。
夏に蒔いた種子が、畑で育っているようです。収穫は春、桜の頃になるでしょうか。お目にかかることはもうないとは思いますが、重要なことかと思いましたので取り急ぎ、お知らせだけさせていただきます。
あなたのお嫌いな「主文後回し」になってしまって、申し訳ありません。
それではその日までは、お元気で。 庵野律子
追伸。
ねえ、ところで私、あの人に似ていたのかしら。
あなたが心底憎み、同じ深さで愛した、あの女性に?
長かった髪はこれからの生活を考えて、ばっさりと切ってしまいました。
今はとてもすっきりした気持ちでいます。
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