六、さようなら過ぎ去った日よ

「入院したって言うから……本当のことだったんですね」
 薄桃色の花びらが流れていく川を見下ろす産院の個室で、堀くんが圧し潰されそうな声でそう言った。

 もう同僚でもなくなった彼に教える理由など何もなかったが、しつこく何度もどこにいるのかと食い下がられて、遠方だから問題ないだろうと教えたら、週末すぐに面会に来たので驚いた。

「庵野さん。で、いいんですよね?」
 恐る恐る訊くのがおかしくて、私はふくふくとした小さな生き物を胸に抱いたまま、吹き出してしまった。

「ということはそれ、誰の子なんですか」
「さーあ? 堀くんには関係ないでしょう」
 奇跡のように小さな手のひらを握りしめて、息子はすやすやと眠っていた。

 この歳にしては安産だった、親孝行な息子だ。ちゃんと五体満足に生まれてきてくれて。
 そのことを私は神に感謝すべきだ。
 十代の私を助けようともしなかった、天のいと高きところにましますお父様に。

「逃げるように研究室もやめてしまわれて、医師免許も返納されたと聞きました。この先、どうやって生活していくつもりなんですか」
「どうとでも。精神医療以外なら、なんだってできるわ。パートのレジ打ちでも、どこかの事務所の経理でも、なんだって」

「あなたは今も、優秀な研究者です。医師の資格がなくとも研究職は務まります。あなたほどの人が論文一本書かないのは、精神医学界の損失です。あなたには才能がある。俺にはない、確かな才能が」
 本気で言っているのだろうか。だとしたら、この人もたいがいだ。

「鑑定しているつもりで、鑑定されていたのは私だった。ほんとただそれだけのことよ。鑑定主文は、きっとこう……庵野律子は知能・情動に欠陥がある。精神医学を語る要件を満たさないものと、鑑定する」

「律子さん」
 悔しそうに唇を歪ませて私を睨むけれど、一度決めたことはやり通すのが私の流儀だ。悪く思わないでほしい。

 真実はずっと変わらずそこにあったのに、私はそれを見なかった。自分の見たいものだけを見て、信じたいものを信じた。そんな人間に心理職は務まらない。ましてや他人の量刑に関わる重大な鑑定など、やってはいけなかったのだ。

 頬に柔らかい風を感じて、私は窓の方へと半身をよじる。腕の中の息子がふにゃと声を出してほんの一瞬目を開けた。

 比較的安産とは言え、超高齢での初産はきつかった。覚悟していたはずなのに、こんなに辛いものかと何度も泣いた。繰り返す悪阻に体力も尽き果て、一人ではものを口に運ぶのも億劫で。

 それでも私はこの命の灯をどうしても消すことができなかった。消さなくてよかったと今は心から思っている。

「いいこね、いいこ……わたしのいいこ」
 堀くんが困ったように眉を寝かせて私の息子を見つめていた。

 ねえ、かわいいでしょ、この子。
 誰の血が通っていてもかまわない。これが私の息子なのよ。

 産んでみて、はじめて気づいたこともあった。
 人を一人産み落とすということがどれだけ大変なことなのか。
 文字通り、命を賭けて生まれた。

 殺人鬼の息子をそうと分かってこの世に生み出すことは、私のエゴなのだろうか。それとも神の意志か。
 彼の意向はまったく反映していない以上、この子を守ってやれるのは私だけだ。
 このくったりした重みが、責任の二文字を強く思い出させる。

 同時にこうも思うのだ。
 どうして私、彼女をあんなにも憎んでいたのかしら、って。

 彼女が先に疎んだのか、私が先に蔑んだのか。鶏と卵のメリーゴーランド。随分と愚かなことに時間も心も費やしてしまった。
 ただ産んだ、生まれた、そして今は生きている。それだけのことだったのに。

 これじゃ彼を笑えない。私もマザコンの気があったみたいだ。
 そりゃ鑑定なんてできるはずもない。あの鑑定文は、半分は私にも当てはまっている。私は夜な夜な若い女の子に声をかけて連れ去ったりしないけれど。

 この子の父親が言ったように、解釈は他にもあったのではないかと今さら気づいた。
 中学生の娘と本気で張り合う親がいるだろうか。

 あんたがまちがったことをしないように、ただすのが、おかあさんの、やくめ。
 服を駄目にして化粧品を踏みつけて装飾品をトイレに流したのも、もしかしたら。

 私にはない女のカンで見抜いていたのかもしれない。
 私の不慣れな恋心。これからの私の道行きを。
 だったらそう言ってくれればよかったのに。
 私がそれを素直に聞いたとも、思えないけれど。

 腕がこわばって力が入ってしまったのか、息子がふにゃーと泣いて顔を真っ赤にした。
「おお、ごめん、ごめんね。よしよし。ねんねしようね……ねんね、ねんねよ」

 消え入りそうな細い声で私は息子のために子守唄を歌う。
 耳を澄ましているけれど、堀くんはなぜこんな曲が子守唄になるのか分からないはずだ。
 分からない。私だってもう何も分からない。

 人間も子育ても何もかも、またいちから勉強し直してみよう。
 まっさらな息子の魂と、ひとつだけ果たせた約束を抱いて。

 私が出してあげる。
 女だから、こんな風に叶えてあげられたならば。
 女に生まれてみるのも、そう悪いものじゃない。
 そんなにいいものでもないけれど。

 今はまだ何も知らずに眠っている無垢な魂は、やがて私を恨むだろうか。憎むだろうか。そしていつの日か私を……。

 繰り返す、繰り返すロンド。
 陶酔の鐘の音。
 遠く離れていても。耳の奥に絡みついては、かき鳴らす……あの人のラ・カンパネッラ。
(了)

#創作大賞2025 #ホラー小説部門 #精神鑑定人のアリア

→ありがとうございました

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