三、復讐の炎は地獄のようにわが心に燃え②

「あはは、ひっでえ顔。あんたこそ、寝てないんじゃないの」
 体調はどうかと尋ねた私に万堂はそんな答えを返して声を立てて笑った。しんから可笑しそうにしている。

「もうトシなのかしらね。寝不足がテキメン、顔に出るようになったわ」
「あれ? あんたトシ幾つだっけ、そういえば」
 足首のところで小さく脚を組んで、悠々とふんぞり返って万堂が訊く。

「あなたのお母さんより少しばかり年下よ」
 そう答えただけなのに、万堂は器用に眉を片方だけ引き上げて、神経質に声を尖らせた。

「会ったの。あのクズに?」
 今まで面接したどの犯罪者よりもカンのいい男だ。いやこれは、今まで出会ったどの男よりも、かもしれない。

「クズだと思っているのね、あなたは」
「客観的にクズでしょう。そら、その息子が連続殺人で捕まってもおかしくないくらいには、ひどい母親だ」
「あら、今日は認めるの?」

「捕まってもおかしくないけど、やったとは言ってない。あくまで僕は被疑者。やってないことを証明するのって、悪魔の証明って言うんですよ、センセ? あんただっていつ捕まっても知らんぞ」
 ニヤニヤ笑って頬杖をついた。苛立っているのか、茶化しているのか、ちょっと判別できなかった。

「あの人、あなたの高校の頃のことは何も知らないって言ってたわよ」
「でしょうね」
 そっけなく鼻で笑って万堂が言う。
「でも高校は卒業しているのよね、確か?」
 私はファイルに貼った緑色の付箋を見つめながらそう訊いた。

「ああ、そういうことになっちゃってるのか。その高校、僕は卒業はしていないつもりなんだけど。通信制高校に在籍している間に高卒認定資格を取ったんだよね。面倒だから人には高校卒業、って言うことはあるけど、正確には卒業ではないんじゃないの」

「高卒認定はすぐに取れた?」
 万堂は表情を動かさずに「あっけなく」と答えた。やはり学業はこの人にとって苦でもないものなのだろう。

 ペーパー試験はお手のもの。最初の心理試験でそうしたように、狙った結果を出せるんだろう。
 これなら学歴詐称くらい造作もないし全く不審に思われないというのも、納得はできる。真面目に受験したらこの人、偏差値いくつくらいになるのかしらとちょっと考えてしまった。

「あなた、友だちとか彼女とか、いたことある?」
 その質問には少し考えてから腹のあたりに両手を重ねて口を開いた。相変わらず落ち着きがない。口調もボディランゲージも、せわしない。
 訊かれたくないことなのか?

「さあ。どうだろうね? そもそも友だちとか彼女の定義がよく分かりませんけど」
「小学校の時は、友だちと遊んだりしなかったの?」

「遊ぶって何を? 僕はカードゲームやテレビゲームに興味がない。鬼ごっこだのドッジボールはますますやりたくないね」
「じゃあずっと一人でいるの? 一人で何をするの?」
 本でも読んでいたのかと思えば、意外な答えが返ってきた。

「一人じゃないね。小さい頃はずっと毎日、母さんのピアノを聴いていた。あの人は一日に何時間でも弾き続ける。まるでそれしかすることがないみたいに、ずっとだ」
「うるさかったの?」

 いや。
 低い声で万堂は目を伏せた。長いまつげがしだれるみたいに影を差す。黒く、だけど儚く。

「悪い気分ではなかった。一日じゅう弾いているだけあって、下手ではなかったからな。僕は一度も正式にピアノを習ったことがないけど、特に苦もなく最初からそこそこ弾けた。鍵盤を見た瞬間、どこをどうすれば音になるのか理解できた。まあでもプロ級の腕前とは言えないけれどね」

「お母さんに教えてもらったの?」
 ううん、と首を振って万堂が続ける。
「一度も教えてもらわなかった。ただ、あの人が弾いているところを見てただけ。だから僕のピアノは癖がひどくて、使い物にはならない。素人の余興レベル止まりだね。あの人の方が全然、巧いよ」
「そう」

 自信過剰なこの男にしては珍しく控えめで感傷的な口ぶりだった。
「あなた、寂しかったの? 小さい頃ずっと一人で、寂しかったんじゃないの」
「さあ。寂しいっていうのもちょっと、僕にはよく分からない。そういう感情を実感したことはないと思う」

「お祖母さんが亡くなった時は? 悲しかったんじゃないの」
 万堂は首を傾げて形のいい唇を開いた。
「やっと終わったと思ったけど? あの人は日に日に弱っていたし、人が死ぬってこんなペースで物事が進むんだなあと納得できたよね。祖父の時は驚いたんだよ。ある日突然倒れたと思ったら死んだって言うから、びっくりした」

 違和感がチクチクと肌を刺す。静かな顔が口調が、かえって気持ち悪く見えた。万堂はお祖母ちゃん子ではなかったのか? こんなもんか?
「お母さんの話だと、お祖母さんが亡くなった時お母さんは家にいなかったのよね?」
「へえ。あの女、そんなことまで話したの」
 あはは、と短い笑いを漏らして万堂がぐいと瞼を押し上げる。

「それは実際、その通り。出会い系だかどっかで男引っ掛けて、朝までヤッてて気づかなかったんだと思う」
「それからあなたが口を利いてくれなくなった、って言ってたけど?」
 ぷはっ、と吹き出してますます万堂は目を輝かせた。

「バカ言えよ! そのずっと前から口なんか利いてないよ。別にそんなことが原因じゃないよ。そうか、あの女の中じゃそういう理屈になっているんだな!」
「じゃあ何が原因だったの?」
 万堂はニヤニヤと気味の悪い笑いを浮かべるだけで、その質問には答えなかった。

「お母さんのこと、嫌いなの?」
 当然、嫌いだと吐き捨てるかと思って訊いたら、万堂は目元に嘲笑を浮かべたままで不思議な答えを返してきた。
「それは僕にも分からない」

 考えるより先に私の口が勝手に動いていた。
「お母さんのこと、どう思っている?」
 同じくらい反射的に万堂はさらりと答えた。

「薄汚いバカな女だと、思ってますけど」
 私は肯定も否定もせず万堂の目をじっと見つめた。感情の読み取れない蛇のような瞳が透き通るようにキラキラと尖りながら輝いていた。
 無機質な白い部屋の中でそれだけ、なんだか妙に息づいてみえた。

「核心に近づいたんじゃないですか」
 バタンと音を立てて運転席のドアを閉めて、仏頂面で堀くんが言った。
「え?」
 私がシートベルトを締めるのを確認もせずに、堀くんが車を発進させたので驚いた。

「万堂ですよ。母親との愛着に普通じゃない問題を抱えている。でも精神障害ではないです」
「あらもう確定診断? ファイナル・アンサー?」
 喉の奥で笑った私を気の毒そうな目で見つめて、堀くんが続ける。

「精神にも知能にも問題がなくて、貧困でもないし、被虐待にも当たらない。要するに彼自身の人間性の問題でしょう」
「心理的に虐待でないかどうかは、そう簡単には……」
「このケースを虐待だと言っていたら、日本じゅう全ての家庭が児童虐待の温床ですよ」
 そう吐き捨てて、黄色信号をぶっ千切った。

「あっ……ぶないことするのね、堀さんらしくもない」
「らしくないのは、庵野さんの方では? 俺だってこれくらいのことは、平気でします」
 無表情のままアクセルを踏んだ。

 前方から降り注ぐ夏の日差し。明るく強烈。紫外線たっぷり。肌が焼けてきっとまたしみになる。
「ちょっと、何、怒ってるわけ? なんで?」
「怒ってはいません。でも、逆転移だとは思っています」

 逆転移。精神科医を黙らせるのに有効すぎる三文字を振りかざして、堀くんはいつもより十キロは速度を上げて車を走らせる。この後何か予定があるわけでもないのに。
 逆転移は文字通り「転移」の逆だ。

 精神医療の現場で起こりやすいのは、転移現象……すなわち、患者が治療者に必要以上の感情を抱くこと。プラスの感情の場合を陽性転移、マイナスの場合を陰性転移というが、実はどちらも治療の妨げになることの方が多い。陽性転移は、はじめ信頼という形で現れるが治療が進むにつれていずれ恋愛的な色彩を帯びてくることが多いからだ。

 特に治療者と患者が異性である場合に起こりやすいが、同性間の恋愛性転移もすでに多数報告されている。通常の精神医療現場では密室で対話が行われることも多く、ともすれば身体的危険もともなう。

 堀くんは私と万堂の関係性をその通常転移の「逆」、つまり治療者が患者に必要以上の関心を抱いていると見ているわけだ。
 私が、彼を。

「それは気をつけないといけないわね」
 冷たく答えた私に、聞こえよがしの溜息を吐く。
「あなたが母子愛着の問題を抱えていることは、充分分かったつもりです。だけど、あなたとあの男は違う。全然別の問題だ」

「そんなの言われなくても分かってるわよ。あのねえ、あなたと違って私は育ちが悪いの。金なんていくらあったって、母親との相性が悪すぎたの」
「相性。まさに、それですよ。単に相性の問題だと思います。あなたのことはどうだか知らないが、万堂と母親は明らかに噛み合っていない。あの母親だってよい母親だとはとてもじゃないが言えないが、祖母や祖父が万堂の世話をしていたわけですよね? あの母親でも問題なく育つ可能性はあったと俺は思います」

 それは確かに正論ではあった。
 車内の空調がうなりを上げているけれど、まだシートにたっぷりと吸われた熱気が優る。背中と言わず顔と言わず、汗が吹き出してきそうだ。
「母親は大きく分けて、二つのタイプに分かれると思うの。放任型と干渉型。そのどちらでもないのが理想だけど、ほとんどの人は程度の差こそあれどちらかに入ってしまうと思うわ」

 私の母親は過干渉だった。万堂の祖母もおそらくは過干渉タイプだ。そして万堂恵利はその反動からか極端な放任型の母親になってしまった。堀くんのところは緩やかな放任型だろう。

「万堂は干渉型の母親を必要としていたんでしょうね。私とは、違うわ。私は万堂恵利のことは直感的に嫌いではないもの」
 問題は多そうだが、私がもし万堂恵利の娘だったら、案外許せていたんじゃないかとさえ思った。少なくともあの女に育てられるよりは、マシだっただろう。

「お祖母ちゃんがいたじゃないですか。母親が駄目ならお祖母ちゃん、で、それでいいじゃないですか」
「堀くんにお姉さんがいたように?」
 自分で意図したより意地悪く響いた声に、堀くんがチッと舌打ちをした。

「誰だって完璧なんかじゃないですよ。ましてや十六で彼氏と別れさせられて産んだ子どもでしょう。育てろって言う方が無茶ですよ、そんなもん」
「あなたこそ、ずいぶん恵利に肩入れするじゃない。タイプなの、ああいうの?」

「それは律子さんが、でしょう!」
 パァンと鋭くクラクションを鳴らすから、通行人のお爺さんが驚いてこっちを振り返った。前を走っていた軽自動車が慌てて車線変更して逃げる。

「ねえってば! いい加減捕まるわよ。ゴールド免許が泣くって……」
「俺、ほんとは滅茶苦茶気が短いんですよ」
 平然とした顔で前方を睨んだまま堀くんがそんなことを言った。その横顔が急に知らない男の人に見えた。

 私はごくりと生唾を飲み込んで、引き下がることにした。
「ごめん。確かにちょっと、彼と自分を同一視していたかもしれない」
 赤信号はさすがに停車して、信号が青くなるまで重たい沈黙が続いた。切り替わった信号を確認していつもみたいに慎重に車を発進させて、堀くんがぽつりとつぶやいた。

「すみません。俺、ほんとに滅茶苦茶、気が短いんですよ」
 分厚いガラスを透過した太陽の熱で、じわじわと浮き上がった汗が容赦なく吹きつける冷房の風に当てられて変に乾く。左手の指先を首筋に這わせてみたら、汗ではなくてうっすら鳥肌が立っていたので驚いた。

 精神科医にもまだ、人間というものは不可思議で見抜けないことがある。
 何年も一緒に仕事をしてきたのに、私は堀くんの気が短いと思ったことはただの一度もありはしなかった。
 節穴もいいところだと自分でも思うけれど、それなら……。堀くんは、私の異常な執念深さには気がついているのだろうかと、胸の中でそんなことを考えていた。

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