三、復讐の炎は地獄のようにわが心に燃え③

 孝行娘。私は日本一の心優しい孝行娘。
「ただいま! お母さん、元気にしてたあ?」
「……うぐぅ」

 くぐもった返事しか返せないのは猿ぐつわを噛ませているから。虐待なんてとんでもない。認知症が進んでありもしない恐怖で叫び声を上げるから、仕方なくこうしているまで。喉を痛めては苦しい思いをするのは母さんの方なんだから。私はそれを事前に防いであげているだけ。

 ロープを外して布団を剥ぐと、もわっと生暖かい悪臭が立ち上った。
「ああ、ああ。今日もこんなに垂れ流しちゃってえ。ちょっとは我慢できないのかしら。世話が焼けるわね」

 でも私はとっても心の清い娘だから。母さんの萎びた性器を拭いてあげる。糞まみれの肛門も濡れたタオルで拭ってあげる。とはいえ。以前より食が細くなったせいか、あまり大きい方はしなくなったようだ。ころころしたウサギみたいな便がしぼんだお尻に踏みつぶされてにじんでいる。残り時間が少ないのだろう。

 ぺしゃんこのお腹。弾力のない肌が痩せた臓器に張りついているだけ。
 水分もすっかり抜けてカッサカサ。
「ねえ、母さん。四十年くらい前には、私が母さんのここから、生まれたのねえ。ふふふ、今、どんな気持ち?」

 痕に残るようなヘマはしない。してやらない。拘束するにも手足を直接縛るような素人じみた真似はしない。ヘロヘロの臭い布団の上から縛れば、身体に証拠が残らない。
 嗚咽すら上げる気力もなくなって、深い皺に染み込むように黙って涙を流している。水もたいして飲まないくせに、どこから湧いてくるんだか。

「覚えている? 私がはじめて、男の子に家まで送ってもらったときのこと。高校生だったかなあ。文化祭の他校交流企画で一緒になった男子校の子だったっけね。名前、もう忘れちゃったけど。顔はまだ覚えてるわ。今思えばあの子、ちょっとだけ堀くんに似ていたわねえ」
 クスクスと笑いながら私は上機嫌に先を続ける。

「私も悪くはないなって思ってた。真面目そうで、なかなか頭のいい子だったから。同じ年なのにしっかりしててさ。昔から私、頭の回転速い男が好きなのかも。まあそれ以前に女子校なんかにブチ込まれたせいで、男に飢えてたのかもしれないけど、ねえ?」

 女臭いあの学校。ほんとに大嫌いだった。教師も七割女だった。前を向いても後ろを向いても見渡す限りセーラー服の波、ほんとに最悪の学校だった。楽しいことなんて一つもなかった。絶対に戻ってこない私の十代。いちばん瑞々しい季節。

「あんたあの子の前でなんて言ったか、まさか忘れちゃいないよねええ」
 ひよひよの和毛を逆さに撫で上げる。ひび割れそうなほど母さんが目を見開いた。乾ききった老人らしい濁った目玉。目が曇るって本当なのね。この人の眼球はすりガラスのように曇って見える。ねえそれ、幻覚以外にまだなんか見えてんの?

「あら、その年でもうオトコ作ったの」
 私はあの日の母さんを再現して、気取った声を鼻にかける。

「どこの馬の骨だか知らないけれど。うちの子のこと、よろしくお願いしますね? ああそうそう、うちの子、小さい頃にジャングルジムで足滑らして、股を打ったことがあるんですよ。ウフフ。だから処女膜破れてて血が出ないかもしれないけど、生娘なことは間違いないから、堪忍してやってねえ?」

 ケラケラと私は笑う。
 ねえよりによって、思春期の男の子にそんなこと、言うかな? それも男子校に通ってるような一目で分かる童貞に。
 下品とか悪意とか、そういう次元を超えている。

「あの子ドン引きしてたね。私も恥ずかしくてもうまともに顔も見られなかった。別に今さら、どうだっていいけど、私、絶対忘れない」
 オムツをつけて、ももひきみたいなズボンを履かせて、私は手を洗わないままで母さんの首から顔になすりつけるようにさすった。しなしなした頼りない皮膚。おかしいね、昔はあんなに面の皮も厚かったのにねえ。

「ねーえ。あんたはいつも、私の邪魔ばっかり。女子校だし要らないでしょって言ってブラジャー一枚買ってくれなかったから、お小遣いで買ってきたよね。それもナマイキだって言って切り刻んで捨てたの、どこの鬼母のしわざだろうねえ?」

 垂れ落ちて萎びた乳首をつねってやったら、ぐぶっと声が上がった。
 世間一般で言う巨乳なんかじゃなかった。むしろ平均よりはだいぶ小ぶりの私の乳房。だけど高校生の私の方が、この女よりカップのサイズがひとつ大きかったというそれだけで。だって仕方ないじゃない、あんたは子どもを産んだ後もずうっとAカップしかなかったんだから。どう頑張ったところで、ほとんどの娘はあんたよりはおっぱいの大きな女にしかならないだろう。

「ブラジャーつけてない日に電車に乗ったら痴漢に遭ったよ? でもおかしいよね、私がしてないのに気づいたら痴漢の方がビビって手ぇ引っ込めたんだから。そりゃそうだよね。女子高生がブラジャーしないでセーラー服着てるなんて、絶対頭おかしいもん。痴女だと思われたんだろうねえ。ねえ、満足でしょ。嬉しいでしょ。そういう風に育てたかったんだもんねえ?」

 時間はもとに戻せない。
 大人になってからじゃ、埋め合わせのできないことがある。
 柔らかい子どもの精神に傷をつけるのなんて簡単なことだ。
 子どもは、親を選べない。選んでいたら、私はこんな女から生まれたはずがない。

「まだまだあるからね。私、ひとつも忘れてないから。ひとつひとつ、思い出させてあげる。あとどれだけ生きられるか知らないけどさあ、毎日がんばって、思い出そうねえ? 私も一緒に、がんばるからさ」
 酸っぱいにおいのパサパサの白髪を撫でて耳元に囁いたら、目を閉じてグズグズ泣き出した。

 この期に及んで後悔なんてさせない。
 謝ってほしいわけでもない。むしろ簡単に謝罪なんて口にされたら私、この首をへし折ってしまうかもしれない。
 そういうことじゃないんだ。そういうことじゃ。

「やられたらやり返すって、言ったでしょう? やられたくなかったら、やるべきじゃなかったんだねえ」
 たとえどんなに、娘の若さが羨ましくても。
 自分の手からすり抜けていく若さを拾い上げるように娘が身につけ始めても、それを妬むべきではなかった。

 だったらはじめから、娘なんて産まなければよかっただけのこと。それかいっそ、捨ててくれたらよかったのに。私はあんたに育てられるくらいなら、道端に捨てられて凍死でもした方が幸せだったに違いない。

「ねえ? お母さん?」
 私はこんな歳になるまで、まともな恋もしてこなかった。当然、子どもなんて欲しいと思ったこともないのだ。
 男の子も女の子も。私には育てられる気が、しない。

 歪んだ母娘の蜜月は、思ったよりも早く断ち切られた。
 いつものようにロープをほどいて布団を剥いだ時、老婆の目が一瞬ギラリと光った。まさかそんな動きをするとは思ってもいなくて。

 母さんは私を渾身の力で突き返して、オムツに汚物を溜めたまま裸足でベッドから飛び降りた。驚いた私が制止するよりも早く、弾丸のように廊下をダダダと音を立てて滑るように走った。
 たまたま玄関に施錠をしていなかった。ドアを開けて、一瞬こちらを振り返って笑ったように見えた。でもたぶん気のせいだ。笑ったところで、猿ぐつわをしていたから私に分かるはずもない。

 あっと思った時にはもう遅い。
 衰弱しきった老婆の身体は柵を乗り越えて重力に引っ張られてそのまま落ちた。ドスンと大きな音がして、私は慌てて身を乗り出した。

 どす黒い赤色が地面に広がって、無様な老婆が折りたたまれるような変な形で落ちていた。
 私は叫びひとつ上げずにじっと広がる赤を見ていた。

 猿ぐつわを外さなければ、救急車を呼ばなければ、一刻も早く駆け寄らなければ、と思うのだけれど、身体が言うことをきかなかった。

 終わったのだ、と思った。
 これでようやく、私もあの女も解放されたのだと思った。
 階下からざわめきが広がって伝わってくるけれど、私は黙って白く輝く太陽を見ていた。

 終わった。

 ああやっと何もかも、終わった。
 これで、私を傷つける者はいなくなった。
 ようやくの、レストインピース。

 あの女にではなくてかわいそうな私に、安らぎを。
 はらはらと流れていく熱い涙が、こんなにも気持ちいいと思ったのは、はじめてのことだった。

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