三、復讐の炎は地獄のようにわが心に燃え④
そういうわけで万堂との面接が一回飛んでしまった。何か事件性を疑われたわけではなかった。人が死ぬと後処理が色々と面倒だというだけのことだ。
私が気にした猿ぐつわの件も、一切不審に思われなかった。猿ぐつわをされて在宅「介護」されている老人は私が思っているより稀な事例ではなかったとのこと。
「なんで先週来なかったの」
驚いたことに万堂の方からそう訊いてきた。どういう感情で訊いているのかは、残念ながら私には読み取れなかった。
「ああ、ごめんなさい。母の葬儀があったもので」
簡潔にそれだけ答えた。万堂はへえと声を漏らして無意識にか、舌なめずりをした。
「お母さん、死んじゃったの。それは、ご愁傷さまでした」
「いいのよ別に。トシもトシだし。それに正直、睦まじい母娘なんかではなかったから」
いくらか捨て鉢に聞こえたのか、堀くんがもぞもぞと座り直すのが見えた。
「ああそうだ、教育ママで物置に閉じ込める人だっけ。あんたの母さん」
「よく覚えているわね」
「まあね。他に話す相手もいないしね」
何か考えるような間を入れて、万堂は囁き声を重ねた。
「もしかして、あんたが殺したの?」
「まさか」
私は不敵な笑みを刻んで万堂の目を覗き込んだ。
「殺さなくても、勝手に死んだわ」
それは事実だ。ということに、なってしまった。あれは転落事故。
ここへ来て、あの女のカルテが役に立ったのだ。
あれだけ手を焼いたレヴィ小体型認知症。その最大の特徴の幻覚・妄想が。おまけに寝たきりで弱った足腰にもパーキンソン症状の診断までついていた。
老婆が勝手に錯乱して、何かから逃げようとして誤って四階から転落。私は疑われるどころか、慰労さえされてしまった。認知症様さま、といったところか。
お一人で看て来られたなら大変でしたねえ。誰もあなたを責めませんよ、お気を落とさずに。今は笑顔で見送ってあげましょうよ。それが、お母さんの供養にもなるってもんだ。
だ、そうで。人情派とは別名を思考停止、想像力の欠如。
この世の親子が皆みんな、親愛の情で結ばれているとでも思っているのか? そうでない事例なら、嫌というほど目の当たりにしてきた。
「そいつは残念だね」
「残念?」
左右非対称の形に口の端を吊り上げて万堂が言う。
「もう永遠に仕返しもできや、しない」
虚を突かれて顔を上げたら、堀くんも同じタイミングで顔を上げていた。
いま、触った。
私は掴んだしっぽを離さずに口を開く。
「ねえひょっとして、仕返しがしたかったの?」
「誰が誰に?」
穏やかな低い声で万堂が訊き返す。
「あなたが、あなたのお母さんに」
学会である研究者が言っていたのを思い出した。どこの国の話だったか、ホームレスの心理研究。ホームレスは自己評価が極端に低く、世間から身を隠すように目立たない場所に住みたがる。だが時々逆に、人に見せびらかすようにこれ見よがしに往来で堂々と寝そべっている者がいる。
金を恵んでもらうためではないそうだ。
見せつけたいのだ。ホームレスに転落した自分の姿を、世間に。あるいは助けてくれなかった親兄弟に。お前のせいでこんなことになってしまったんだぞと、主張する心理があるのだと。
体を張った、当てつけなのだと。
「それで、お母さんに似た女性を選んで、あんなことしたの。四人も」
「だから僕じゃないんだって」
笑いながら万堂が言う。しらばっくれているようには、どうしても見えなかった。
「じゃあいいわよ。あなたじゃないと仮定して、あなただったら、どう思う?」
「何を」
「あの事件の犯人はどんな人で、なぜ、あんなことをしたと思う? あなたの意見が知りたいわ」
すうっと音もなく目を細めて、万堂が私をまっすぐに見つめた。睨んだ、と言ってもいいかもしれない。怒りというよりは防衛に見えるその表情が、おかしいほどに凪いでいる。
「犯人は成人男性だろうと思いますけどね」
「なぜ?」
「強姦殺人だって言ってたから」
私は静かに首を傾げる。
「でも、DNAが……まあ要するに精液が検出できなかったのよね。と、すると、案外女性なのかもしれないとは思わないわけ?」
「レズビアンの?」
ははっと声を出して万堂は笑った。声は笑っているけれど、目の形がほんのわずかも変化していなかった。
「だとしたら、その女は頭がおかしい。痴情のもつれで殺すにしちゃ人数が多すぎるでしょう。もつれている時間もないんじゃないですか」
「なるほど。じゃ、どうして短期間にこんなに殺したんだと思う?」
「話題性があるから?」
堀くんが完全に速記の手を止めていた。万堂の後頭部をぽかんと口を開けて見つめている。
「ふうん……話題性。とすると、この犯人は自己顕示欲が強いタイプなのかしら?」
「そうでなければ、死体は隠したと思いますよ。埋めるか川に流すかして」
「それも、そうね。じゃあ皆同じような年格好の女性だったのも、こう……世間の目を意識してのことなのかしらね?」
「そうなんじゃないですか。あとは美意識の問題かもしれませんけどね。被害者皆、美人だったんでしょ? ブスは殺したくないタイプの犯人なんじゃないですか」
私はカラカラに渇いた喉をペットボトルの水で潤してから、訊いた。
「ところで話は変わるけど、あなたどうしてあの晩、あの女の人に声をかけたの? それも怪我してるなんて、嘘まで吐いて」
ニタアと薄気味悪く万堂は笑った。今度は顔全体で。満面の笑みと呼ぶにはいやらしすぎるその表情に怖気立つ。
「やだなあ。僕だって男ですよ? ナンパくらいするでしょうよ。でもま、嘘を吐いたのはやりすぎたと思っていますけどね。おかげでコノザマなんですが」
「あの女の人は、あなたから見て、美人だった?」
「そうじゃなきゃ、声掛けてませんよね」
私はファイルから被害者の生前の顔写真が並んでいるページを開いて彼に見せた。
「この人たちも、あなたから見て、美人かしら。どうかしら?」
「…………」
すっとニヤニヤ笑いを引っ込めて、冷たすぎるほど平坦な表情で万堂が私を見つめた。
異常なほど整った能面の貌。
ひどくもったいぶって口を開く。真っ赤な舌、うごめかして。
「美人だと思いますよォ? あんたと、同じくらいには。ねえセンセ、あの口紅もうしないの? 紅くて奇麗な色だったのに。またつけてきてよ。あの血が滴るみたいで、すっげえ、そそるやつ」
ガン、と後ろで音を立てて堀くんが立ち上がったので万堂が振り返って小刻みに肩を揺らした。
「ねえ、やっぱりあんたら、デキてるんでしょ?」
堀くんは言い返す価値もないと言わんばかりにぴったりと口を閉じて、立ったまま早朝路上に散乱した生ゴミでも見るような目で万堂を見ていた。
その日の面接はこれで時間切れになった。
※
「この仕事、とっとと終わりにしましょう。もういい加減、診断はついたはずです。三十九条の出る幕は、ありませんよね?」
堀くんの意見ももっともだと思った。
あれは間違いなくやっている。
あの晩五人目の被害者に声をかけたことも「はっきりと」認めたじゃないか、あれは。覚えているのだ、万堂は。
これでは絶対に刑法第三十九条には該当しない。心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
彼の精神は極めて「正常」。一般的にはどうあれ、法医学的にはどこからどう見ても心神喪失だの耗弱には当たりそうもない。
「鑑定書、書いたらいいじゃないですか。犯行の理由も推定できるでしょう、充分すぎるほどだ」
今日の面接で真実に接触したとは思う。
掴んだ。さっきこの手で。
万堂は複雑な家庭環境で育ち、母親に対してアンビバレントな感情を抱いていた。何をしても一切かまってくれなかった母親に認めて欲しかった。自分の存在を。おそらくは彼の能力も。その気持が反芻されるうちに徐々に歪み、やがて母親に当てつけるために犯行を重ねるまでになった。
若き日の母親によく似た女性を立て続けに殺せば、センセーショナルな事件として報道される。彼の言葉を借りれば「話題性がある」。それで母親の目に留まるとでも思ったか。
このセンでなら、確かに説得力のある鑑定書は書けそうな気がした。教科書通りの心理分析には充分だ。判事もきっと納得してくれる。
そして彼は有罪に。
裁判官も検察も被害者遺族も誰からも。文句の出ない鑑定。
だがなぜだろう。これでも分析し尽くしてはいないと感じる。
彼はまだ、奥に何か飼っている。
人の心は形のないものだから。なんでも理屈通りにいくわけじゃない。でもある時、ふと腑に落ちる瞬間が来る。
まだ万堂にはそれが感じられないのだ。
あとひとつ、何かのキーが欠けている気がするの。
ぺらぺらとよく喋るくせに、万堂はただの一度も自白だけはしていない。ポリグラフも陰性。私にもしつこいくらいに「やってない」と言い続けている。
ただの嘘でいいのだろうか。あの全部がお芝居で?
私は額から指先を滑らせて片手で髪を掬い上げた。
「ねえ、あと一回。あと一回だけ、面接させてよ」
「これ以上何を訊くって言うんですか」
「私の研究者としての直感が、引っかかっているのよ。最後に一回、彼に恵利との対話の音声を聴かせてみたい」
「……恵利の声を?」
怪訝な顔をして堀くんが丸い指先で眼鏡を押し上げた。
「もし私の考えている通りなら、なんらかの反応があるはずだと思うの。怒るとか、笑うとか、何かはっきり反応するはずなのよ。とにかく恵利の話を彼に聴かせてみたい。そしたらちゃんと納得して、鑑定書が書けるわ」
「そこまで言うんなら、俺はかまいませんけど」
しぶしぶ私の意見を認めて、それでも堀くんがダメ押しで付け加えてくる。
「でも気をつけてくださいね。庵野さん、彼のファンタジーに取り込まれはじめているんじゃないですか」
逆転移の次はファンタジーか。
私はうんざりしながら、大人しく頷いた。
「分かった。気をつけるから。最後まで納得のいく仕事をさせて」
「俺も必ず、ついていきますからね。とりあえず恵利の音声、聞き返してみましょうか。どうせそろそろ文字起こしもしないと間に合わない」
そう言われて私は研究室のカレンダーに視線を走らせる。
堀くんの言う通り、公判までに提出する約束になっている鑑定書の執筆に、取り掛かる頃合いだった。
「ねえ、堀くん」
またくん付けのまま呼んでしまったことにも気づかずに私は続けた。
「理由もなく人を殺す人なんて、いないのよ。特にああいう秩序型の殺人者にはあるはずなの。彼の中でだけ通じている、理屈のようなものが」
私はまだそこにたどり着いていない。
あのタイプは衝動で人を殺さない。ましてや性欲でもない。そうせずにいられなかった強い理由は、絶対にあるはずだ。あるはずなのだ。
真実への扉は固く閉ざされている。
この時無言で私の横顔を見つめていた堀くんの表情を、私は見てもいなかった。
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