一、ハバネラ(恋は野の鳥)③
「クソ。全然使えねえじゃん、これ。あー、もう!」
バリバリと音まで立てて髪を掻きむしり、堀くんは深々と重たい息を吐き出した。万堂の心理試験の結果が出たようだ。肉がついているせいで猫背に見える背中が一段と丸くなっている。
「どうしたの? やっぱり受験態度に問題が?」
「ありますね! とてもじゃないけど真面目な回答とは思えません。ナメられてますよ、完全に」
ミネソタ多面人格検査は特に質問数の多い試験だが、その中には被験者の性格ではなく受験態度を見る項目も多数含まれている。
「ただ真面目にやっていないというよりはもはや、何も見ずにランダムに反応しているように見えるわね」
私は苦笑をこらえきれなかった。特別よく見せようとか、逆に悪く見せよう、整合させようという意志さえも見られず、まるでコイントスでもしたかのようなひどい回答が並んでいる。この傾向は人格検査だけにとどまらなかった。
「知能検査はどうだった?」
「一言で言えば標準値なんですが……これもアテにはできませんよね」
「なるほど」
IQ試験もお気に召さなかったと見えて、ケアレスミスで済まない量の誤答が並んでいる。かと思えば、よほど考えないと答えられないような高度な問題は連続して正解していたりして、どうも彼は問題を選んで回答しているようだ。
「まともに測定したら、なかなかの好成績が期待できそうね」
「かも、しれません」
神妙な顔で堀くんが頷いた。
旧式のエアコンが頭上でガーガーと嫌な音を立てる。私は一応来客用にしている、クッションの潰れたソファから天井を見上げた。
古臭い天井をスクリーンにあの男のいやらしい嘲笑が浮かんで見えた。
「まあいいわ。知能には問題がなく、性格には何らかの偏りが見られる、ということにしておきましょう」
「いいんですかそれで。試験した意味が……」
「だって仕方ないでしょう。心理試験は、まともに受験しない人間を分類できないわ。わかることは、彼が非常に非協力的だということ。そしてそれは、最初っから予想していたことだからね」
万堂のために用意した新しいファイルはまだ厚みが少ない。表紙に貼られたシールの万堂哲人という文字を指先で軽く弾いた。
「先が思いやられます」
「そう? 私はちょっと興味が湧いてきたんだけど」
あの男、取り澄ました顔の裏にどんな怪物を飼っているんだろう。
私たちに見られたくないような、一体何が、あの中に眠っているんだろう。
あるはずだ。そうでなければ、ここまで反抗的な態度に出ない。
美しい殺人鬼の奥に巣食う、怪物……。
「うわあ、悪い顔」
堀くんが目を細めて唇をひしゃげさせた。
「堀さんは興味ないの?」
「んー。そうですね。庵野さんほどは、ないと思いますけど。でもこんなにいい加減なヤツの精神鑑定なんて、実際どうやって進めるつもりなんですか? 何か秘策でも……?」
「正攻法で行くわよ」
どうやら彼はひどく性格の歪んだ、頭のいい人間のようだから。
「正攻法とは?」
「対等でいようと思うの。解釈するんじゃなくて、させるわ。彼自身にね」
彼の中の化け物を引っ張り出すには、それが一番早いように思われた。
あまり意味のなかったロ・テストの反応記録のコピーに穴を開けながら続ける。こんなもんでもデータはデータだ。
「それこそインクのしみと同じことよ。この試験結果だって、解釈をつけようと思えばどうとでも言える。でもすればするだけ、ありのままの万堂哲人からは遠ざかっていくでしょうね」
耳元でごくりと堀くんが唾を飲む音が聞こえた。それから囁くようにかすれた声で言う。
「庵野さん、万堂のことずいぶん気に入ったんじゃないですか」
「そうかな」
「俺はあいつ、大嫌いですけどね」
「それはまた、どうして?」
「俺、ツラのいい男って嫌いなんです。しかもあいつ、俺と同い年なんですよね」
へえと答えて私はもう一度万堂の生年月日に目を留めた。満二十九歳。私よりひとまわり以上も年下なのか。
そういえば堀くんと初めて出会ったのって何年前だったんだろう。確かあの時は堀くんは学生だったはずだが、あれは学部生だったんだっけ、それとも院生にはなっていたのか。
あの頃は私もまだ研究者として正式採用されていたわけでもなく、たまたま私の論文を読んだ教授の紹介で国立大学の研究室に出入りしていたのだ。当時は当然のように堀くんと呼んでいたのだけれど、私が医務官を辞めて研究者になった後、数年かけて研究室をもらえるようになった頃に研究者同士として再会した。正式にうちの職員に採用してからは一人前扱いしてやらねばと思って堀さんと呼ぶように意識している。
本人のいないところではまだ堀くん堀くんと言っているせいで、気を抜くとつい昔の癖が出てしまう。軽口を叩く時は特に。
私は意識しなおしてまた、口を開いた。
「ねえ、参考までに訊かせてもらいたいんだけど、堀さん、これ、何に見える?」
机の上に一枚残されていたモノクロのロールシャッハカードにちらりと視線を寄越して、堀くんは力強く言い切った。
「インクのしみ、ですね。以上でも以下でもありません」
「まったくの同感よ」
「……喉渇きましたね。お茶淹れてきます」
乱雑に積み上がった資料の中から二つのマグカップを発掘した堀くんが、足音も立てずにそろそろと給湯室へと吸い込まれて行った。
※
東京女子連続強姦殺人事件の被害者は三か月という短期間に四名にも上った。犯人がターゲットを選んで凶行に及んでいるのは明らかで、被害者はいずれも若く美しいお嬢さんばかりだった。
年齢は二十五歳から二十九歳までの範囲に収まり、全員が仕事熱心で勤務態度も真面目な女性だったと言う。こういう犯罪の被害者を悪くは言わないということを差し引いても、彼女たちは皆、善い女性であったことは間違いない。夜な夜な繁華街や飲み屋に現れるようなタイプは一人もおらず、学生時代は学級委員や美化委員をやっていたような優等生然とした女性ばかりが作為的に選ばれている。
犯行手口は完全にパターン化されていると見られる。
夜十時を過ぎた頃、住宅街のある比較的大きな駅の裏手で会社帰りで独り歩きの女性が狙われる。
「急に、すみません。可能なら少しだけ手を貸していただけないでしょうか」
丁寧なしっかりした口調で若い男が声をかけてくる。
女性が立ち止まると、そこには足に大げさなギプスをした松葉杖の男が立っている。
「怪我をしていて不自由なものですから、荷物を運ぶのに苦労してしまって……」
見ると確かに傍らには大手電器メーカーのものらしきダンボールが置いてある。
「重いものではないんです。パソコンのモニターなんですよ。車はすぐそこなんですが、さっきからどうしてもうまく運べなくて困っていまして」
そこから目の届く距離の小さな有料駐車場に車が数台停まっているのが見えている。
「これ、運ぶだけでいいんですか?」
それくらいなら、と手を貸す女性を、男は申し訳なさそうに見ている。
「助かります。あの、もしよかったら後日お礼を……」
「いえそんな。これくらいのこと、大げさですよ」
傍らの箱は重いものではなかったが、かさ張るので松葉杖をつきながらでは確かに難儀するだろう。一応は精密機器だから落とすわけにもいかない。
「本当に、ありがとうございます」
杖をついてぎこちなく歩みを進める男に並んで女性が箱を持って付き従う。
その先にはありふれたワゴンカー。何もおかしなところはない。女性は特に疑問を持たない。
そしてスライド式の後部ドアが開き
「ここで、いいですか?」
箱を車に積み込もうとした女性の後頭部はしたたか打ち付けられて身体が前に倒れる。男はギプスをはめていたはずの足をしっかりと地につけて、大きく振りかぶって再度、女性の後頭部を殴りつける。凶器と化した松葉杖と不要になったギプスを共に車中に放り投げ、男は意識を失った女性を雑に押し込んでドアを閉める。
悲鳴ひとつ残さずにワゴンカーは走り去る。
その持ち主と同じくらいにありふれた車体は、静かに夜の街、誰にも見咎められることもなく消えてゆく。あまりにも手際のいいその犯行に目撃証言はほとんど出なかったという。
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