五、見よおそろしい炎を⑤
ベルトコンベアーに載せられた荷物のように運ばれるまますべての手続きが終わり、判決の時は音もなくやってくる。
見届けなければならないのか。
私は真黒いスーツに袖を通して、いつもより一段薄い紅を差すけれどそれでも鏡の中でその色だけが浮き上がって見えた。顔面がこわばって、血の気が完全に引いていた。
精神力だけでまっすぐに首を伸ばして見つめた被告席には、あの男が余裕めいた表情で座っていた。
万堂哲人。
彼もまたダークスーツを身にまとい、目の覚めるような赤色のネクタイを誇らしげに締めていた。
裁判員と裁判官が揃い、着席を促されても万堂は一人だけ一拍ぶん遅れて椅子に座った。その挙動さえ、今はわざとらしく思えた。
証言台で今一度本人確認を済ませた後、判決書から顔を上げて、裁判長は一度万堂を正面から見つめた。万堂がそれにどんな反応を返したかあるいは返さなかったかは、私の席からは分からない。万堂の後頭部は微動だにしなかった。
「では。被告人は」
その一言だけで、傍聴席が色めき立った。
主文、後回し。
誰かが足早に法廷を出てゆく。報道関係者なのだろう。
分かっていたはずなのに、私の頭が締めつけられるようにズキズキと騒いだ。
「何の落ち度もない春秋に富む女性たちを己の欲望のままに蹂躙し、またそのかけがえのない生命を奪った事実は」
ずらずらと並べられる重いはずの言葉が頭に一つも入って来ない。万堂は声一つ立てずに大人しくそれを聴いていた。私はそれを意外だと感じた。
私の方は目が回って、さっきから吐き気がやまないのに。
「結婚を二ヶ月先に控え、人生の最も希望に満ちた瞬間に、まったく無関係の被告にそれを断ち切られたその悔しさ、無念、怒り、また遺族の父母、兄、婚約者など遺された者の心情は察するにあまりある。かかる悲劇を」
だがまだ分からない。主文後回しで、無期懲役が言い渡された例が過去にはあったのだとどこかの弁護士が書いていた。
日本の刑事事件では有罪率は九十九パーセント超とも言われるが、その中で死刑判決が出るものもまた極めて稀なのだ。年に数件から、多くても二十数件。万堂のように議論の余地のある事件ではそうそう死刑は出せないだろう。もっと確実な場合にさえ無期の判決が出ている。自白していても温情判決の場合だって。
「その生育環境においては同情すべき点もいくらか見られる。しかし被告はすでに成人であり、また社会人として通常の権利を有した生活を営んでおり、一人の人間としてその責任は重大と言わざるを、得ない。複数の女性たちの生命と尊厳を相次いで踏みにじった被告の行為はとうてい許されるものではなく」
それにだ。これはまだ第一審。どのような結果が出てもそれで確定するわけではない。どちらに転んでも控訴はあるものと考えた方がいい。万堂がするか、検察がするかの違いだけだ。それならばぬか喜びするよりはいっそのこと。
ああ駄目だ。考えがまとまらなくなってきた。
「一切の反省の色が見られず、法廷においても目に余る態度を示した。かかる行動が被告の主張するような精神疾患によるものでないことは当法廷に置いて顕著な事実であり」
ぎゅんと視界が暗くなって法廷が一層遠く感じた。耳にざわざわと血の流れる音が聞こえる。遠い海鳴りのような、虫の地鳴きのような、低い音。
顕著な事実か、そうか……。専門職としては屈辱を感じるべきなのかもしれない。だが私だって鑑定人ではなく裁判員としてこの法廷を見ていたら、あるいは。
いちいち議論するまでもなく自明、という意味の法律用語一語だけで、私の鑑定書は打ち捨てられた。時間も労力も惜しみなくかけたつもりだった。それが、顕著な事実。この裁判に続きがあるのなら、今度は別の精神科医に鑑定を依頼すればいい。彼または彼女がどんな診断を下すか、私だって知りたい。
「よって、被告人を死刑に処す」
切り裂くような叫びが法廷を真一文字に貫いた。
「はああああああああァ?」
万堂だった。
「ふざけるなよ、ふざけてんじゃねえぞ、僕が死刑? はァ? はああァッ?」
遠くで、静かにしろとか退廷させろというようなことを言っているようだった。
万堂はドンと証言台を拳で叩き「おかしいだろそれは!」と一喝した。
左右から取り押さえられるのに抵抗して振り向き、声を張り上げた。
「おかしいとあんたらだって思うだろ! なんだこれは、陰謀か? 誰かが僕を陥れている!」
「静かにしなさい」
「お前か、お前か、それともお前か。誰だ僕に死刑票を投じたヤツは! いるんだろうが! 分かってんだぞ。出て来い、話をつけよう! いや殺してやる! お前ら全員、殺してやるからなああああっ」
裁判員に牙をむき、ぐるりと見渡して傍聴席の私を見つけた。
「あンの、役立たず! お前のせいだぞ、お前! どうしてくれるんだ、この無能! うすのろバカ女ッ」
あの日無音のカンパネッラを奏でた繊細な指先が私を一直線に指して喉が破れるほど絶叫している。
万堂の顔は左右非対称に引き攣れて吊り上がって、ギラギラと燃え盛っていた。
「なんとか言えよこのゴミがああああッ!」
フラッシュのように明滅し始めた頼りない視界の中で、引きずられるように万堂は退廷させられた。それでもなお言い足りないのか、廊下からおよそ人間のものと思われぬような咆哮が響いていた。
なんという、茶番!
この法廷だけでなく、もっとずっと以前から。そして私はこの茶番を演じきった薹の立った助演女優なのか。
急に私は自分で自分の身体が支えきれなくなって、その場に音を立てて崩れ落ちた。
本物の解離性同一性障害の患者はこんな風に意識を手放しているのかしらと、そんなことを、思った。
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