〇、恋とはどんなものかしら
一目ぼれなんて、信じない。
信じられるわけがない。
なのにその男を見た瞬間、グワッと瞳孔が開いたのが自分でも分かった。腹の奥深くから沸き立つように血液が発泡して逆流するみたいな違和感と、駆け上がる心拍、指先がわずかに揺らいだのがたまらなく恥ずかしかった。
「はじめまして? あの、僕の顔に、なにか」
女のそういう反応には慣れていると言わんばかりの余裕めいた口ぶりがまた、憎たらしかった。私は書類に軽く視線を落としてから、一段低く「いいえ?」と答えた。
「写真で見るより、なんていうか、タレントみたいね」
震えないようにと意図的に押し殺した声に、男はクスッと息を漏らした。
「写真? テレビじゃないんだ」
「ごめんなさい私、ワイドショーなんて見ないもので」
「ニュースも?」
「CNNでは、やってなかったわよ、あなたの事件」
大人げないとは思ったが、それで場の空気は私の方に傾いた。男はニタニタした笑みを引っ込めて私を見つめた。
爬虫類のような目つき。鋭く尖って、若干目頭が離れている。薄い口元はやや横に広く見えるが、顎は細く尖っていて、全体の印象はシャープな逆三角形を印象付ける。
さっぱりと短く刈られた髪はおそらく東京拘置所の規則だろう。差し入れらしき私服はシンプルな白いシャツで、首元のボタンはいちばん上が開けたままになっていた。規則違反なのかどうかはよく分からないが、今はそんなことはどうだっていい。
身体は縦にも横にも大きくはなかった。線は細い方だろうと思うが、特別背が高いというわけでもない。業界でしか聞かない中肉中背をやや痩せの方に傾けたような体格だ。
どこにでもいそうな普通の青年。やたらと顔が整っては見えるが、その割にあっさりしてしまって突出した特徴に乏しく、不思議と印象には残らない。夜道にいても不審者には、見えない。これは目撃証言がなかなか出なかったというのも、頷ける。
整った顔立ちというのはもっとも平均化された顔のことであるという学説を思い出した。あれは誰の書いた論文だったっけ。
「私は庵野律子(あんのりつこ)。裁判所に任命されて、あなたの精神鑑定を行うことになりましたので、よろしく。こちらは助手の堀さんです」
「堀、洋介(ほりようすけ)です。よろしく」
仏頂面で堀くんが軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします、僕は……」
意外と丁寧に会釈をして、男が微笑む。
「って。今さら自己紹介もないですね。知っているんでしょう、僕のことはなんでも。プロフィールはそちらのファイルにある通りなんで」
顎をシャクって男が笑った。
万堂哲人(ばんどうあきと)、二十九歳。
東京女子連続強姦殺人事件の被疑者が今、私の目の前で音もなく笑んでいた。
とてもでないが四人もの無辜の市民を殺したようには見えない平凡な男が、手を伸ばせば届く距離で私を見ていた。
私はその爬虫類じみた瞳を見つめ返して、出来る限りゆっくりと、微笑みを返した。
一目ぼれなんて、絶対に信じない。
若い女の子ならいざ知らず、精神科医としても中堅にはなりつつある私がそんな恋に落ちるものですか。
そもそも私は安易に恋愛感情に流されたりしない。今までもそして……これからも、そんなことはあり得ないのだ。
→NEXT
