一、ハバネラ(恋は野の鳥)①


 数年前に東京郊外に新設された法務センターは思ったよりも広くて、早めに車に乗り込んだつもりだったのに指定された部屋に辿り着く頃にはすっかりギリギリの時間になってしまっていた。安い椅子の背もたれに寄りかかってようやく一息ついた堀くんがうんざりした様子で言った。

「いやしかし、なんて広さなんだよ」
「それだけ収容人数が多いってことなんじゃないの」

 私たちがいるのは医療刑務所で、まずこの棟に来るまでにいくつもの施設を越えなければならなかった。婦人補導院、少年鑑別所に矯正なんとかセンター、案内図を見ただけではどこに何があるのか把握もしきれない。
 それだけ犯罪と犯罪者がはびこっているのだ、この東京には。

「こんなことなら東拘の方がよかったんじゃないですか」
 きちんと折り畳んだハンカチで顎に溜まった汗を拭きながら堀くんが早くも後悔を口にしている。

「嫌よ、あなた行ったことないんでしょ。あそこ行くとなんかこう、気が滅入るのよね。光量あるのに薄暗いっていうか、圧迫感っていうかさ」
「古くて汚いんでしたっけ? 狭いとこに寿司詰めで押し込められて」
 ははは、と笑って堀くんがファイルを並び替える。

「あれ? 新東拘の方、行ったことないわね、さては」
「ああそうか、新棟できたって言ってましたね、そう言えば」
 そう言えば、どころかもうずいぶん前の話だ。時の流れの早さに思いを馳せて、ちょっとくらくらしてしまう。

「全然旧舎と違うから。見て損はないわよ」
 今度連れて行かなくては。この仕事をやっていくには必要な洗礼だ。私もずいぶんとあそこにはお世話になっている。無論、収監されたことなどは一度もないが。

 東京拘置所は今やハイテク要塞に生まれ変わっている。臭いメシ、なんて言われていたのは一昔も二昔も前の話だ。

 完全に管理されて清潔なはずの空間は外部と隔絶されていて、受刑者が季節を感じられるのは食事のメニューと多少の暑さ寒さだけだろうと思う。

 海外と違って東京拘置所の囚人はおとなしいのか、基本的には静かで規則正しく、掃除も入浴もよく管理されているから生きていくのに何の支障もない空間なのだが、それでもあの息詰まる圧迫感は独特だ。
 権力というものに終始のしかかられている感覚がある。空気が、やたらと重いのだ。それでいて変に機能的というか、余計なものを極力排しているので居心地はよくない。もっとも、居心地のよい快適空間なんかに設計しては刑務所の意味がなくなってしまうのでそれが正解なのは間違いないだろう。

 たとえば何の味もにおいもしないパサパサに乾いたビスケット。塩を振らずに握られた具のない古米のおむすび。新東拘はそんなものに似ている。それでも囚人の汗や涙の染みついた臭くて煮しめたような旧舎に比べたらずっとずっと快適なはずなのだが。

 トントン、とノックの音がしてまだ充分新しい白いドアが開いた。
「失礼します、お連れしました」
「ご苦労さま」
 地味な制服の職員の後ろから、万堂哲人の姿が見えた。

 あれが世間を騒がせた連続殺人犯。

 はじめて殺人犯に会う時はいつも心のどこかが高揚している。誰だってそうだとは思うけれど。私が出会った殺人犯の大半は男だったから、なおさら。力では絶対に勝てない。人を殺すのに躊躇のない男。少なくとも一度以上、それをやった男。

 日本の警察は優秀だ。逮捕状が出るというだけでそれなりの確信があってのこと。そしてその先の刑事裁判に回されたということは、それはもうほとんどクロなのだ。有罪率九十九パーセント超は伊達じゃない。

 殴る蹴る暴行上等で自白を取っていた頃とは違って今は警察も検察もだいぶお上品になった。ゼロにはならなくても、冤罪は確実に減っている。仕事で仲良くなった弁護士たちもそれには全員が同意していたくらいだ。

 これだけ大きな事件で誤認逮捕はまずないだろう。
 実際私が鑑定してきた被告の中には、冤罪の人間なんて一人もいなかった。今までは、一人も。

 私は男を真正面から見つめてやった。四人もの女の子を殺した凶悪犯は、どんなツラをしているんだろうと意地悪な気持ちで。
 怖くないとは言わないけれど、それより好奇心の方が強く働く。

 私はすでに女の子というような年齢ではないし、ここには堀くんも法務センターの職員もいて、安全なのだ。

 私は見た。

 世間から憎まれ恐れられている、連続殺人犯の顔を、まっすぐに見つめた。
 瞬間はっとするほどの圧が私の目に飛び込んで来て心臓に刺さった。


 万堂哲人は、何かの間違いじゃないかと思うほど若くて美しい外見を、していた。


 私が知る殺人犯の中ではぶっちぎりの容姿だ。
 写真では知っていても婦女暴行犯ならどうせ見た目が「そう」なんだろうとタカをくくっていたことは認める。だが、それにしたって……。

 人は見かけによらないとは言うけれども、これだけ外見に恵まれているなら無理強いなんてしなくても、いくらでも思慮の浅い女が引っ掛けられそうなものじゃないの。私はよく知らないけれど、そこらへんの飲み屋でもクラブでも。やりようはいくらだってあるはずなのに、どうして、わざわざ?

「僕、やってないですよ」
 簡単な挨拶の後すぐに、訊いてもいないのに万堂の方からそう言ってきた。
「調書に書いてあることはほとんどがデタラメなんです。警察の作ったストーリーに当てはめて、無理やり、僕がやったことにされているんです」

「そうなの」
 肯定にも否定にも聞こえないようにわざとフラットな相槌を打った。
 万堂は堀くんなんて目に入らないというように、私だけを見据えて続けた。

「信じてくれないんですか。僕、やってないんですよ。たまたまそこにいただけ。何の証拠もないんですよ。それなのにずっと拘置所に閉じ込められて、ようやく出られたと思ったら今度はこんなところで、精神鑑定って。なんなんですか、ほんとに」

「精神鑑定に不服なの?」
「昨日まではね。でも庵野センセーになら鑑定されてもいいかなあ」
 調子のいいことを言ってチロリと舌先で軽く唇を舐めた。

 ゾクンと背中に何かが響いた。快感よりは嫌悪感に近いと思うが、顔に出さないようにでも目は逸らさずに答えた。
「それはどうも」

「ねえ、センセ?」
 絡めとるような甘ったるい声音で、万堂が身を乗り出した。
「僕のこと信じてくれます?」

 ああ、この男。分かってやっている。
 自分が若く美しいことをよく知っていて、それを利用して生きている。
 そういう種類の狡猾さが全身から滲んでみえた。

「この仕事に、信頼関係は必要なので。あなたの言ったことを全面的に信用するわけではないけれど、理解しようと努力はしますよ」
「ハッ! 努力!」
 急に顔をひん曲げて万堂が声を張り上げた。目が大きく見開かれている。

「努力ってなんだよ、努力って、さああああ!」
 そこまで激昂することだっただろうか? 私は左右で高さの変わった彼の眉の形に目を留めた。

「そんなんじゃ全然、信頼する気になんてなるわけないよね? つうかなんだよ、精神鑑定って。僕のこと頭おかしいとでも思ってんのか、あァッ?」
 声をひっくり返して怒鳴りつける万堂に、監視役の職員が動こうとしたので私はそれを視線で制して続けた。

「正常かどうか、これから時間をかけてしっかり鑑定してあげるわよ」
「はあァ? ナメてんのか、お前!」
 バンッ、と音を立てて机を叩いたので、堀くんが積み上げていたファイルの山がずるりと滑った。一番上に置いた薄っぺらい書類がふわりと舞い上がってリノリウムの床に着地する。

 キラキラと気持ち悪いくらいに輝きはじめた万堂の双眸が私を射抜く。さっきから極端に瞬きの回数が、少ない。

「ねええ。信じてよぉ」
 うるうると染み渡る子どものような無垢な瞳から私は目を離さなかった。

「信じて、せんせえ。僕じゃないんですう」
 はっきりと分かるほど涙を溜めて、万堂は顔を歪めて肩を震わせた。

「どうして信じてくれないの。僕は無実だ、無実なんですよ、ねえええ」
 書類を拾ってきた堀くんが息を呑んだのが分かった。

「うっ……うっ……ぼくもう、たえられないよ」
 俯いてしゃくりあげているかと思ったら、ぼた、ぼたりと、実際に机の上に水滴が落ちてきたので目を見張った。

 泣いているのか、本当に?

「え」
 堀くんが先に声を上げてしまって、それを待っていたかのように万堂が勢いよく顔を上げた。短い前髪がぱっと散るように踊る。

「ギャハハハハ! 引っかかった? ねえ、引っかかったァ?」

 ギラついた目玉、ニタニタと吊り上がった口元から真っ赤な舌が覗いている。すっと通った鼻筋は真っ白で、ピクピクと鼻孔が広がっていた。
 爛々としたその目玉は二つとも、涙なんて無縁に見えるほど嗤っていた。

「ギャーッハッハッハ! ああ、おかしい。ねえ、おっかしいね、センセ?」
「おい」
 制服の職員が肩を掴もうとするのをハエでも追うように払い落として、万堂は机をコツコツと拳で叩いた。

「さあて、センセー? 僕は正常でしょうか、それとも異常な変質者でしょうか!」
 チロリとまた舌先が薄い唇を這う。

「調べ甲斐がありそうで、腕が鳴るわ」
「涼しい顔しちゃってえ。鑑定できるもんなら、してみろよ!」
 万堂哲人のツバが飛んできた。

 近距離でけたたましく張り上げているのだから当然だが、飛沫を浴びた瞬間、背中を嫌悪感が駆け上った。今度は確実で明確な不快感だ、それ以外ではあり得ない。そのことに私はなぜか少し安心した。

「では早速明日から、いくつか心理試験を受けてもらいますね。それが終わったら、面接。そういう予定でどうかしら」
「拒否権はなさそうだな」
 フンと鼻を鳴らして万堂は靴先で床をトトンと突っついた。
「そうしてくれるとありがたいわね」

 万堂は口先で嗤いながら睨みつけた。顔の上下で表情が食い違っている。鋭い目には敵対を、薄い唇には明らかな軽蔑を宿して。
「お前なんかに、僕がわかるものか」
 今日はじめて本音を聞いた気がした。

「初回ですし、今日はこのくらいにしておきましょうか」
 堀くんが声をかけてくるまで、私は万堂の顔を見つめていた。吸い込まれたみたいに、バカみたいに見つめ続けた。

 万堂は椅子から立ち上がらされ、チッと舌打ちをしている間に素早く逃走防止の紐を結び付けられて、どこかへ連行されていった。

 彼もまた最後まで恨みがましく、私のことを睨み続けていた。
 ねっとりと絡みつくのに、まっすぐに射貫く視線。暗闇に燃える蛇のような目玉で。

#創作大賞2025 #ホラー小説部門 #精神鑑定人のアリア

NEXT


いいなと思ったら応援しよう!