ヒポクラテスの盲点 パート4:陰謀よりも陰湿な「戦略的盲点」そして「無知」という希望
「無知は力である。自由は隷従である。戦争は平和である。」
はじめに
あなたは「知らなかったんだ」という言い訳を、いつ最後に使っただろうか?
職場で、家庭で、あるいは社会の中で──私たちは時折、自分の無知を盾にして責任を回避しようとする。だが不思議なことに、この戦術は万人に平等には機能しない。権力者が「知らなかった」と言えば免責される一方で、市民の無知は罰せられ、嘲笑され、政治的権利を奪う口実にすらなる。
この非対称性こそが、社会学者リンゼー・マクゴーイが『The Unknowers』(無知なる者たち)で暴く、現代社会の核心的な病理である。彼女が提示するのは単なる「エリート批判」ではない。むしろ、無知という人間の根源的条件を、支配の技術として利用する精緻なメカニズムの解剖図だ。
本稿では、この野心的な著作を通じて、無知がいかに権力の道具となり、また同時に、抵抗の武器ともなりうるかを伝え、そして、新型コロナワクチン、パンデミックと戦略的無知(盲点)との関連性を探っていく。
書籍・著者紹介
『The Unknowers: How Strategic Ignorance Rules the World』(無知なる者たち:戦略的な無知が世界を支配する仕組み)(2019年、Zed Books刊、約350ページ)は、エセックス大学社会学准教授リンゼー・マクゴーイによる、現代社会における「無知の政治経済学」の包括的研究である。

著者は以前、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団、慈善資本主義の権力構造を暴いた『No Such Thing as a Free Gift』で注目を集め、Noteでも昨日、紹介したばかりだ。本書はその延長線上にありながら、対象を製薬業界から政治・経済・メディア全般へと拡大し、「戦略的無知」という概念を中心に据えた理論的野心作となっている。
なぜ今この本なのか?
パンデミック後の世界では、「専門家」「エビデンス」「科学的コンセンサス」といった言葉が、かつてないほど政治化された。ワクチン政策、ロックダウン、公衆衛生措置をめぐる論争は、単なる医学的議論を超えて、誰が「知る資格」を持つのか、誰の無知が許され、誰の無知が糾弾されるのかという、根源的な権力闘争を露呈させた。
マクゴーイの著作は、この状況を理解するための概念的道具箱を提供する。彼女が描くのは、政府や製薬企業CEOが「知らなかった」と主張して責任を逃れる一方で、一般市民がワクチンの安全上の懸念を訴えても「無知」として無視される──そんな構造的暴力の全体像である。
無知は武器である──「戦略的無知」の定義と機能
「権力者は言う、『我々は最善を尽くしている』と。だが被支配者は問う、『ならばなぜ我々は苦しんでいるのか』と。この問いそのものが、権力者の無知──あるいは無知のふり──を突く。」
マクゴーイが本書で導入する中心概念、戦略的無知(strategic ignorance)とは何か?
彼女の定義によれば、それは「過去の行為に対する責任を回避するため、あるいは将来の政策を正当化するために、未知の状態を意図的に作り出し、拡大し、利用する行為」である。重要なのは、これが単なる「知らないふり」ではないという点だ。戦略的無知は、しばしば合法的な手続きや制度的枠組みの中で機能する。
製薬業界における戦略的無知は最も典型的である。製薬企業グラクソスミスクライン(GSK)は、抗うつ薬セロクサット(パキシル)が子どもに自殺傾向を引き起こす可能性を示す臨床試験データを隠蔽した。規制当局に問い合わせを受けても「追加データはない」と虚偽の回答をし、後に内部メモが流出して初めて真相が明るみに出た。

ここで注目すべきは、GSKが単に嘘をついただけではないという点だ。彼らは法的抜け穴を最大限に活用した。英国の1968年医薬品法では、「通常の使用条件下」で検出された副作用のみ報告義務があるとされていた。セロクサットは18歳未満への使用が正式に承認されていなかったため、小児臨床試験のデータは「通常の使用条件外」として報告義務から逃れたのである。
さらに、試験が英国外で実施されたため、英国規制当局への報告義務もなかった。結果として、数百万人の子どもが不必要なリスクに晒されたにもかかわらず、GSKは刑事訴追を免れた。
この事例が示すのは、戦略的無知の真の恐ろしさである。それは必ずしも「隠蔽」や「陰謀」という形を取らない。むしろ、法律、制度、専門知の複雑性そのものが、無知の隠れ蓑として機能するのだ。
エリート無知の構造──「知らないこと」の権力
「我々がこの件について何を知らなかったかを証明することはできない。だが我々が知るべきだったことは明らかだ。」
一般に「無知」は個人の欠陥と見なされる。だがマクゴーイは、この通念を逆転させる。エリートの無知こそが、最も破壊的な社会的帰結をもたらすと彼女は主張する。
なぜか? 答えは単純だ。権力を持つ者の無知は、権力を持たない者の無知よりも、はるかに大きな影響力を持つからである。
具体例:ルパート・マードックと「知らなかった」戦略
ルパート・マードックは世界最大級のメディア帝国を率いる人物である。FOXニュース、ウォール・ストリート・ジャーナル、英国のサン紙など、多数の報道機関を所有し、世界の世論形成に絶大な影響力を持つ。
2011年、英国議会はマードック率いるニューズ・インターナショナル社を召喚した。同社の『ニューズ・オブ・ザ・ワールド』紙が、殺害された13歳の少女ミリー・ダウラーの携帯電話を不正に盗聴していた事実が発覚したためである。この盗聴により、少女の家族は「娘がまだ生きている」という誤った希望を抱かされ、捜査も混乱した。英国社会は激怒し、同紙は廃刊に追い込まれた。
議会での証言で、マードックは繰り返し「知らなかった」と主張した。彼は自社で何が起きているか「知らなかった」し、部下が違法行為を行っていることも「知らなかった」という。

議会報告書はマードックの姿勢を「故意の盲目」(wilful blindness)と断じたが、彼は刑事訴追されることなく、CEOの地位を息子たちに引き継いだ。2015年、米国司法省は静かに捜査を打ち切った。
なぜマードックは逃げ切れたのか?
マクゴーイは、これを「無知の免責特権」と呼ぶ。CEOや政治家といった権力者は、組織の複雑性を盾に取ることで、「知らなかった」という主張を信憑性あるものにできる。彼らは意図的に情報経路を遮断し、後に責任を問われた際には「部下が隠していた」「報告を受けていなかった」と言い訳できるような体制を構築する。
対照的に、グレンフェル・タワー火災の住民たちは、何年も前から火災リスクを訴え続けていた。彼らは「知っていた」。だが彼らの知識は、専門家や自治体によって「無知」として却下された。結果、70人以上が焼死した。
グレンフェル・タワー火災とは何か?
2017年6月、ロンドンの公営高層住宅グレンフェル・タワーで大規模火災が発生し、72人が死亡した。24階建ての建物全体が炎に包まれ、英国史上最悪の住宅火災となった。

火災の原因は、外壁に取り付けられた可燃性の高い断熱材だった。住民団体は2013年から繰り返し警告を発していた。「火災が起きたら全員が死ぬ」とまで書かれたブログ記事も残っている。だが自治体と管理会社は、これらの訴えを無視した。住民たちは「専門知識のない素人」として扱われ、彼らの懸念は「根拠のない不安」として却下された。
ここに権力の非対称性がある。
権力者の無知は免責される。
無力者の知識は無視される。
「知識人による統治」という幻想──エピストクラシー批判
「民主主義の偉大な敵は独占である──あらゆる形態における独占、巨大企業を含む。」
近年、欧米の一部知識人の間で「エピストクラシー」(epistocracy)──「知者による統治」「エリートによる統治」を擁護する運動が台頭している。その代表的論者、ジョージタウン大学のジェイソン・ブレナンは、著書『Against Democracy』で、有権者に「政治知識テスト」を課し、合格者にのみ投票権を与えるべきだと主張する。

彼の論拠は単純だ。「無知な有権者」がトランプやブレグジットといった「愚かな選択」をもたらした。ならば、より「知的な」エリートに意思決定を委ねるべきだ──と。
だがマクゴーイは、この議論の根本的欠陥を指摘する。
第一に、ブレナンは「誰が無知か」を判定する権力そのものを問題化しない。政治知識テストは誰が作るのか? その基準は誰が決めるのか? 歴史的に、こうした「知識テスト」は常に支配的イデオロギーを反映してきた。
19世紀の英国では、労働者階級は「無知」とされ、参政権を剥奪された。米国南部では、識字テストが黒人有権者を排除する道具として使われた。ブレナンの提案は、こうした抑圧の歴史を無視している。
第二に、エピストクラシー論者はエリート自身の無知を過小評価する。マクゴーイが引用するJ・S・ミルの言葉は痛烈だ。
「ベンサムの哲学には、真実でないものはほとんどない。悪いのは、彼が見ないものすべてを断固として否定する点だ──彼が認識する真実以外のすべての真実を。」
専門家は自分の専門領域では優れた知識を持つが、しばしば自分の無知に気づかない。そして権力を持つ専門家の無知は、一般市民の無知よりはるかに危険である。
2007-08年金融危機がその証明だ。
世界最高峰の経済学者、金融専門家、規制当局が揃って「市場は効率的だ」と信じていた。彼らは危機を予見できなかった。いや、予見しようとしなかった。なぜなら、それは彼らの理論的枠組みと矛盾したからだ。コロナパンデミックでは、このことが決定的証明になったが、それはまた後半で詳しく見ていくことにする。
オックスフォード大学のイアン・ゴールディン教授が指摘するように、「専門家や権威に挑戦することは、必ずしも非合理的ではない。証拠を否定するのは非合理的だが、専門家に疑問を呈することは正当である。」
製薬業界の「有用な未知」──RCTの限界と疫学的証拠の無視
「我々は知っていた。PPDも知っていた。アヴェンティスも知っていた。」
マクゴーイが本書で最も詳細に分析するのが、製薬業界における戦略的無知である。彼女は、抗生物質ケテック(Ketek)とSSRI抗うつ薬の事例を通じて、規制当局と製薬企業がいかに「知らないふり」をするかを暴く。
ケテック事件──「数学者に詐欺を調べさせる」戦術
2004年、FDA(米国食品医薬品局)は、アヴェンティス社の抗生物質ケテックを承認した。だが承認の根拠となった臨床試験(Study 3014)には、深刻な不正があった。

ある開業医、アン・カークマン・キャンベルは、400人の患者を試験に登録した。同じ町の別の医師はわずか12人だった。登録1人につき400ドルの報酬が支払われていたことを考えれば、これは異常である。
臨床試験受託機関(CRO)のスタッフ、アン・マリー・シスネロスは、カークマン・キャンベルのデータに多数の不正を発見し、上司とアヴェンティスに報告した。だがアヴェンティスは、統計学者にデータ分析を依頼した。
統計学者は「問題なし」と結論づけた。なぜか? 彼はコンピュータ化されたデータのみを見たからだ。手書きの同意書の偽造、インクの色の違い、存在しない病歴──こうした不正の痕跡は、紙の記録にしか残らない。
シスネロスは後に米国議会で証言した。「頭を砂に突っ込んでいなければ、この不正に気づかないはずがない。」
だがアヴェンティスは「知らなかった」と主張し、刑事訴追を免れた。それどころか、不正を犯したカークマン・キャンベル医師は、アヴェンティスに92万5000ドルの賠償金を支払うよう命じられた。
この事例が示すのは、「無知の外注」戦略である。
企業は、問題を「発見できない」専門家に調査を依頼することで、合法的に無知を維持できる。そして後に「専門家が問題なしと言った」と主張できるのだ。
アダム・スミスは「自由放任主義者」ではなかった──忘れ去られた『国富論』の警告
「商人階級の提案には、常に疑いの目を向けるべきである。それは公共の利益ではなく、彼ら自身の利益から発せられるからだ。」
経済学の「父」アダム・スミスといえば、自由市場の提唱者として知られる。「見えざる手」という言葉は、政府の介入を嫌う市場原理主義者たちの合言葉になってきた。

だが、スミス本人は本当にそんなことを言っていたのか?
マクゴーイは、これを「歴史的詐欺」と断じる。実際の『国富論』を読めば、スミスが繰り返し主張していたのは、企業権力への警戒と政府規制の必要性だった。
削除された第5編──スミスの本音
多くの簡約版『国富論』から削除されている第5編で、スミスはこう書いている。
「少数の者による自由の行使が、社会全体の安全を危険に晒す場合、それを制限することは法によって拘束されるべきである。これは最も自由な政府においても、最も専制的な政府におけるのと同様である」
スミスは利子率規制を支持し、それを建物の防火壁規制に喩えた。銀行規制は火事を防ぐ防火壁と同じく、公共の安全のために不可欠だと考えたのだ。
さらに彼は、東インド会社の独占と暴力的搾取を痛烈に批判している。
「独占を設立する唯一の目的は、一国の小さな階級の小さな利益を促進することである。それは他のすべての階級の利益を、そして他のすべての国のすべての人々の利益を損なう」
スミスが警戒していたのは、政府による介入ではなく、企業による独占だった。
19世紀の書き換え──限界生産性理論の登場
ではなぜ、スミスは「自由放任の守護聖人」に祭り上げられたのか。
マクゴーイは、19世紀の新古典派経済学の台頭を指摘する。特に限界生産性理論の普及が、スミスの遺産を書き換えた。
この理論の主張は単純である。完全競争市場では、各人の報酬は社会への貢献度に自然に一致する。つまり、富裕層は富に値するから富んでいるのだ、と。
経済学者ジョーン・ロビンソンは1950年代、これを「誤教育の強力な道具」と呼んだ。右派の経済学者フランク・ナイトでさえ、1920年代に「競争市場による報酬は、相続と運に大きく依存する」と指摘している。
にもかかわらず、この理論は今も主流だ。
ハーバード大学のグレゴリー・マンキューは、ベストセラー教科書で世界の富の3分の2を上位1%が所有する現状を「限界生産性の自然な結果」として正当化している。
忘れられた警告
スミスの真意は明白だった。市場は有用な道具である。だが企業権力は常に自己利益を追求し、公共の利益を装って独占を求める。だからこそ、彼らの提案には「常に疑いの目を向けるべき」なのだ。
この警告は、250年後の今こそ読み直されるべきである。
ロックフェラーとカーネギー──「自作の神話」の裏側
「歴史は多かれ少なかれ、たわごとだ。」
19世紀末から20世紀初頭にかけて、米国は「金ぴか時代」(Gilded Age)を迎えた。Noteでも何度か紹介してきた、ジョン・D・ロックフェラーとアンドリュー・カーネギーは、この時代の象徴的存在である。
彼らは「自作の億万長者」として称賛された。だが彼らの富は、本当に「自由市場」がもたらしたものだったのか?
答えは否だ。
カーネギーの鉄鋼帝国は、1トンあたり28ドルの輸入関税によって保護されていた。この関税がなければ、英国製鉄鋼との競争に敗れていただろう。
ロックフェラーのスタンダード・オイルは、鉄道会社との秘密のリベート契約によって競争相手を駆逐した。彼は鉄道会社に大量輸送を約束する代わりに、運賃の75%割引を受けた。小規模業者は同じ条件を得られず、次々に倒産した。
さらに重要なのは、彼らの「知らなかった」戦略である。
カーネギーは、労働組合を弾圧するためにピンカートン探偵社(民間武装集団)を雇った。1892年のホームステッド製鉄所事件では、労働者との武力衝突で多数の死傷者が出た。だがカーネギーは当時、ヨーロッパに滞在しており、「何も知らなかった」と主張した。

実際には、彼はパートナーのヘンリー・クレイ・フリックに詳細な指示を電報で送り続けていた。だが彼の「不在」は、後に「無知の免責」として機能した。
ロックフェラーも同様だった。彼は子会社を多数設立し、それぞれに元の社名とレターヘッドを使わせた。内部通信は暗号や偽名で行われた。こうして彼は、自分が所有する企業の活動を「知らない」体制を構築した。
歴史家ロン・チャーナウは、これを「ロックフェラーの生涯にわたる習慣──自分の痕跡を消し、重要な決定が下される際には他の場所にいたふりをする」と評している。
法の二重基準──「故意の盲目」と「無知は免責せず」の使い分け
ここで法律の話になる。英米法には、相矛盾する二つの原則がある。
「無知は免責せず」(Ignorantia legis neminem excusat)
法律を知らなかったことは、違法行為の言い訳にならない。
「故意の盲目」(Wilful blindness / Ostrich instruction)
意図的に事実を知ろうとしなかった者も、知っていた者と同等に有罪である。
では、なぜCEOたちは「知らなかった」と言って逃げられるのか?
答えは、法の適用が非対称的だからである。
マクゴーイが指摘するように、米国の法制度では近年、ホワイトカラー犯罪に対して「無知は免責せず」原則が意図的に緩和されてきた。
「メンズ・レア改革法」──富裕層への贈り物
2015年頃から、米国議会では「メンズ・レア改革法」(Mens Rea Reform Act)が議論されている。この法案は、複雑な規制違反については、「被告が自分の行為が違法であることを知っていた、または知っているべきだった」ことを検察が立証しなければならないとするものだ。
表面的には「過剰な刑罰化を防ぐ」ための改革に見える。だがシャロン・デイヴィス法学教授は、これを富裕層への法的贈り物と呼ぶ。
なぜなら、この「改革」が恩恵を与えるのは、主に金融犯罪、環境犯罪、企業犯罪の被告だからだ。薬物犯罪や移民法違反──貧困層が主に問われる犯罪──には適用されない。
つまり、法律は二重基準を制度化しつつある。
貧困層:「法を知らなかった」は言い訳にならない。
富裕層:「法を知らなかった」は正当な抗弁である。
デイヴィスは、この傾向が過去数十年で「前例のない規模」で進行していると指摘する。だが学界はこの問題をほぼ無視してきた。
なぜか? マクゴーイは、学界自身が企業資金に依存しているからだと示唆する。
日本における同様の構造
この法の二重基準は、日本も例外ではない。日本の刑法体系では「故意」の認定が企業犯罪の立件において重大な障壁となっている。
たとえば、薬害事件や公害事件において、企業幹部は繰り返し「知らなかった」「予見できなかった」と主張し、責任を回避してきた。森永ヒ素ミルク事件、水俣病、薬害エイズ、薬害肝炎──そして新型コロナワクチン…いずれのケースでも、組織的責任の所在は曖昧化され、刑事責任を問われた経営者はごく少数である。
米国では1965年から2014年まで、タバコの使用による予防可能な早死が2,000万人以上あったと推定されている。
— Alzhacker (@Alzhacker) September 10, 2022
タバコは依然として合法であり、何十年もの間、メンツを重んじたタバコの経営者は誰も刑事責任を問われたことがない。
対照的に、一般市民や零細事業者には「知らなかった」という弁明は通用しない。税法違反、労働法違反、軽微な経済犯罪において、「複雑で知らなかった」は抗弁として認められず、厳格に処罰される。
さらに日本では、検察の起訴裁量権が極めて広範である。この裁量が、社会的地位や組織の規模によって異なる基準で行使されている実態がある。大企業の不正会計、インサイダー取引、談合などでは、刑事立件されるケースは氷山の一角にすぎず、多くは行政指導や課徴金で終わる。
この構造を支えているのは、官僚機構と大企業の回転ドア人事、財界からの政治献金、そして検察・裁判所における「社会的影響への配慮」という名の階層的司法運用である。法律学界もまた、企業法務との密接な関係から、この問題を正面から批判することは稀である。
ハイエクの「知識の僭称」──そして彼自身の僭称
「市場の美徳は、誰も全体を知る必要がないことだ。」
ここで話は20世紀の経済思想に移る。フリードリヒ・ハイエクは、ノーベル賞受賞講演を「知識の欺瞞」(The Pretense of Knowledge)と題した。

彼の主張は明快だった。中央計画経済は失敗する。なぜなら、どんな天才的計画者も、社会全体の知識を把握することはできないからだ。知識は分散しており、市場価格メカニズムのみがこれを効率的に調整できる。
これは重要な洞察だった。
だがマクゴーイは、「ハイエクの盲点」を指摘する。彼は政府の無知を批判しながら、企業の無知を無視した。
ハイエクは、労働組合が「労働供給を独占する」ことを批判した。だが民間カルテルには寛容だった。シカゴ大学の経済学者ジェイコブ・ヴァイナーは、この二重基準を痛烈に批判している。
さらに皮肉なのは、ハイエク自身が「知識の欺瞞」を実践していた点だ。
マクゴーイが暴露するのは、ハイエクと彼の同僚たち──ミルトン・フリードマン、ジョージ・スティグラーら──が、企業資金への依存を隠蔽していた事実である。
彼らは「自由市場の擁護者」を名乗りながら、大企業や富裕層の財団から多額の資金を受け取っていた。だが彼らはこの利益相反を公にせず、あたかも「中立的な学者」であるかのように振る舞った。
ハイエクは『隷属への道』で、トクヴィルを英雄視した。だがトクヴィルが「産業階級は、他のどの階級よりも、規則、監督、抑制を必要とする」と書いていた部分は、ハイエクは無視した。
これは単なる学問的不誠実ではない。
それは意図的な歴史の書き換えである。そしてその結果、18世紀・19世紀の古典的自由主義者たちが重視していた「権力への抑制と均衡」という原則が、20世紀後半には忘却された。
トクヴィルが見なかったもの──「神の意志」では説明できない革命
「女性作家は大嫌いだ」
19世紀の偉大な思想家アレクシス・ド・トクヴィルは、民主主義の到来を「神の意志」だと考えた。貴族制が支配する世界で、なぜ平等主義が勝利したのか。彼はその答えを、人間の営みではなく、神の摂理に求めた。
「私には衰退に見えるものが、神の目には進歩である。私を苦しめるものは、神には受け入れられる。平等は高貴さでは劣るかもしれないが、より正義である。そしてその正義にこそ、偉大さと美しさがある」

だが歴史家マクゴーイは、この説明を「社会学的に不誠実」と断じる。なぜなら、トクヴィル自身の回顧録に、まったく別の説明が隠されているからだ。
女性作家が予言した革命
1848年、フランスで労働者蜂起が起きる数ヶ月前のこと。トクヴィルは女性作家ジョルジュ・サンド(George Sand)と夕食を共にした。彼は後にこう記している。
「私はサンド夫人に強い偏見を抱いていた。女性作家は大嫌いだからだ」
それでも彼は耳を傾けた。サンドはパリ労働者の組織化、武装、そして蜂起の必然性について詳細に語った。彼女は警告した。
「あなたの友人たちに説得してほしい。人々を刺激したり苛立たせたりして、街頭に追い出さないように。私も自分の友人たちに忍耐を教えたい。もし戦いになれば、あなたたち全員が滅びるだろう」
数ヶ月後、蜂起は現実となった。トクヴィルは、女性たちが男性と並んで戦い、最後まで降伏しなかったことに驚愕した。
見えていたのに、見なかった
マクゴーイが指摘する決定的な「盲点」がここにある。トクヴィルは、ジョルジュ・サンドという具体的な人物から、革命についての具体的な知識を得ていた。彼女は蜂起を正確に予測し、その構造を説明した。それは「神の意志」などではなく、抑圧された人々の組織的な行為だった。
だが彼は、この教訓を一般化しなかった。サンドを「女性作家」というカテゴリーに閉じ込め、彼女の知識を個別の例外として片付けた。革命は依然として「神の意志」のままだった。
もし彼が、サンドやホームステッド製鉄所の女性労働者たちを、単なる例外ではなく歴史を動かす力の担い手として認識していたら。もし彼が、革命を神秘的な摂理ではなく、人々の集合的な行為として理解していたら。歴史の見方は変わっていただろう。
なぜ私たちは今でも同じ過ちを繰り返すのか
この話が現代に突きつける問いは重い。
私たちもまた、目の前にある証拠を「例外」として処理し、構造的な力を「運命」や「時代の流れ」に帰していないだろうか?変化を起こす人々の声を聞きながら、その声を「特殊なケース」として無視していないだろうか。
「トクヴィルの盲点」は、19世紀の偏見だけの問題ではない。それは今も私たちの認識を歪め続けている。
ロード原理──権威は知識を独占しても無知は独占できない
「私たちが分断されているのは、偶然ではない。それは意図的だ。だが私たちが団結するのも、偶然ではない。それもまた意図的だ。」
マクゴーイは本書を、ロード原理(The Lorde Principle)という概念で締めくくる。これは、詩人で活動家のオードリー・ロードにちなんで名付けられた原理であり、以下のように定義される。
「人間の無知の力は無限である。なぜならそれは、いかなる権威も独占できないからだ。」

これは何を意味するのか?権力者は知識を独占できる。特許、企業秘密、国家機密──これらはすべて、知識の独占である。
だが無知は独占できない。
なぜなら、無知はすべての人間に普遍的だからだ。どんな天才も、どんな独裁者も、何かを知らない。そして彼らが知らないことが、彼らの支配を揺るがす。
ジョルジュ・サンドは、トクヴィルが知らないことを知っていた。
グレンフェル・タワーの住民は、建築専門家が知らないことを知っていた。オードリー・ロードは、白人フェミニストが知らないことを知っていた。
そして彼らは沈黙しなかった。
マクゴーイが引用するロードの言葉は、この原理の核心を突いている。
「私たちの沈黙は守ってくれない。」
無知を認めることは、弱さではない。それは力である。
なぜなら、「私は知らない」と言えることが、対話の前提だからだ。そして対話こそが、支配に対する最も強力な抵抗だからだ。
エピストクラシーへの最終反論──平等な不知者たち
「愚者は自分が賢いと思い、賢者は自分が愚者であることを知っている。」
ここで、エピストクラシー論への最終的な反論を提示できる。
エピストクラシー擁護者は、根本的な誤りを犯している。
彼らは、知識を測定できると仮定する。だが無知は測定できない。
あなたが何を知らないかを、どうやって測定するのか?
あなたがまだ発見していない盲点を、どうやってカウントするのか?
答え:不可能である。
そして測定できない以上、人間を「知識の多寡」によってランク付けすることは、原理的に不可能である。
マクゴーイは、アダム・スミスの「観察者」(spectator)概念を引用する。スミスは、道徳的判断を下すには、自分の視点を意図的に拡大し、他者の立場から物事を見る想像力が必要だと主張した。
これは、知識の量ではない。視点の柔軟性である。そしてこの柔軟性は、しばしば「無知」とされる人々──社会の周縁に追いやられた人々──により強く備わっている。
なぜなら、彼らは生き延びるために、支配者の視点を理解せざるを得なかったからだ。
黒人は白人を理解しなければならなかった。
女性は男性を理解しなければならなかった。
労働者は資本家を理解しなければならなかった。
だが逆は真ではない。
トクヴィルはジョルジュ・サンドを理解する必要がなかった。
マードックはグレンフェル住民を理解する必要がなかった。
ハイエクは労働者を理解する必要がなかった。
ゲイツは農民を理解する必要がなかった。
これが権力の本質である。
権力とは、他者を理解せずに済む特権である。
そして無知の平等を認めることは、この特権を剥奪することである。
新型コロナワクチンの戦略的無知から見えてくる権力者の正体
「コロナワクチンは危ないですよ!僕一回も打ってないですよ!」
この本を手にとったのは偶然だったが、読みながら、先日、Noteで紹介した映画「ヒポクラテスの盲点」を思い浮かばずにはいられなかった。
映画『ヒポクラテスの盲点』は、新型コロナワクチン後遺症被害をテーマにしたドキュメンタリーだ。タイトルが示す「盲点」とは、社会・メディア・医療・政府の推進者たちが抱えていた「認識の盲点」を指す。ヒポクラテスの誓い「何よりもまず、害をなすなかれ」に反し、未曾有の新技術を「救世主」として急速に推進した結果、潜在的リスクを見落とした医療倫理の転倒を暴く。
だが映画は暗示はしていたが、戦略的無知(盲点)に明示的には踏み込んでいなかった。マクゴーイの著作は、権力者の無知が計算された無知であり、権力者のツールとして積極的に利用されてきたことを明らかにしていることだ。
ここには大きな違いがあることを認識しなければならない。過失致死と計画的殺人が大きく異なるように、単なる無知と戦略的無知では、その「犯罪的性質」はまったく異なる。それは、権力者が父性的擁護者なのか、自己利益を追求する搾取者なのか、彼らの正体についての捉え方が全く異なってくるからだ。
新型コロナワクチン展開は、マクゴーイが分析した戦略的無知のあらゆる手法が総動員された、史上最大規模の事例である。一つか2つの無知を作り出す仕組みであれば、偶然ということも考えられるかもしれないが、何十もの仕組みがすべて無知を作り出すことは偶然では考えられない。製薬企業と規制当局は、不都合な情報を「発見されない」体制を「意図的に」構築したのだ。ここに議論の余地はない。
具体的にどのような「戦略的無知」が大規模展開されたかをこれから見ていこう。
ここから先は
この投稿が役に立った、面白かった、応援したいと思っていただけましたら、チップでのサポートをいただけると大変励みになります。いただいたチップは今後のコンテンツ制作の糧とさせていただきます。金額に関わらず、あなたの温かいお気持ちが何より嬉しいです。
