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善意だけでは国を守れない──移民政策と多文化共生が揺るがす日本の信頼社会

はじめに──メルカリが映し出した「信頼」の脆さ

メルカリで商品を出品し、購入者から「説明と状態が違う」と返品を求められ、取引のキャンセルに応じた。ところが、返送された箱に入っていたのは、自分が発送した商品ではなく別の品や故障した同型品だった──。こうした「返品すり替え」の被害が相次いでいるという。

だが、これは単なるフリマのトラブルでは終わらない。「見知らぬ相手でも、そこまで悪質なことはしないだろう」という信頼の前提である。それが失われれば、出品者は発送前に商品の状態を記録し、購入者は偽物を疑い、運営側は監視と審査を強化する。少数の悪意によって、善良な利用者全員が不便とコストを負担するのである。

日本は、治安の良さ、清潔な街、落とし物が戻る社会として評価されている。しかし、この信頼は、自然に生まれたものではない。長い歴史のなかで形成された規範と自制の積み重ねである。異なる規範を持つ人々を急速に受け入れながら、信頼を従来どおり維持することは難しい。

国家は慈善団体ではない。政府が差し出しているのは、受け入れを唱える者の私財ではなく、国民の税金、治安、医療、教育、地域社会である。外国人受け入れは、善意や理想論で決めるのではなく、日本社会を持続させられるかどうかを基準に判断されなければならない。

第1章──日本を動かしてきた「見えない資本」

日本社会を支えてきたのは、「見知らぬ他人でも、基本的にはルールを守ってくれる」という暗黙の信頼である。だからこそ、至る所に警備員や監視カメラを置き、保証金や厳格な本人確認を求めずに済む。信頼は単なる精神論ではなく、社会を低コストで円滑に動かす基盤なのである。

社会の信頼は、一部の者がルールを破るだけでも揺らぐ。無人販売所で盗難が続けば店は姿を消し、置き配が危険になれば対面受け取りへ戻る。重要なのは、被害の多さ以上に、「他人を無条件には信用できない」という意識が広がることである。一度この心理が定着すれば、「念のため疑う」という行動様式は社会に残り続ける。

日本社会の人情や阿吽の呼吸も、他人も義理を返し、信用を失うことを恐れるという相互性の上に成り立つ。その前提を共有しない者や制度を悪用する者まで、情けをかければそれに応えると期待するのは、現実を顧みない願望にすぎない。

第2章──多文化主義は「良いとこ取り」できない

多文化主義をめぐる議論では、異文化交流や人材の多様化がもたらす利益ばかりが強調される。だが文化は、料理や音楽だけでなく、宗教、家族観、契約意識、衛生観念、公共空間での振る舞いまで含む社会規範の総体である。異文化を受け入れる以上、その魅力だけでなく、規範の違いから生じる摩擦も避けられない。好ましい部分だけを選ぶことはできない。

移住者が少人数のうちは、生活するために受入国の言語と規範を身につける必要がある。ところが集団が大きくなれば、同じ言語や宗教、親族、出身地域を基盤とする共同体が形成され、仕事や買い物、教育、生活支援の多くがその内部で成り立つようになる。受入国に適応する必要性が弱まる一方、集団としての発言力は強まる。そこで関係は、「日本に住む以上、日本に合わせる」から、「日本社会の側も我々の規範に合わせるべきだ」へと変わっていく。

多文化主義は、この変化を文化的権利として正当化し、受入国の規範に相対化を迫る。その結果、共通の秩序に従うよう求めることさえ「差別」「排外主義」とされ、移住者の適応より日本側の譲歩が優先される。これでは共生ではない。受入国による自己解体である。

第3章──利益の私有化とコストの社会化

日本の在留外国人数は2025年末に初めて400万人を超え、外国人労働者も過去最高となった。これは将来の仮定ではない。日本社会はすでに急速な人口構成の変化のなかにある。

外国人労働者の増加は、人手不足への対応として語られる。しかし、受け入れによって企業が得る利益と、社会が負担するコストは一致しない。企業は不足する労働力を確保できる一方、日本語教育、子どもの学校教育、医療通訳、住宅問題、治安対策、行政手続、地域摩擦への対応といったコストの相当部分は、自治体と地域住民へ回される。利益は企業へ集中し、負担は社会全体へ転嫁されるのである。

利益は短期的で見えやすいが、地域社会の変質、定住後の社会保障、外国人共同体の形成は、数年から数十年をかけて現れる。人手不足や経済効果は数値で示せるが、失われる社会的信頼や文化の連続性は容易には数値化できないのである。

外国人労働者も、働くだけの存在ではなく、家族関係や将来設計を持つ生活者である。受入れが長期化すれば、家族の呼び寄せや定住を求める動きも生じる。労働力だけを受け入れ、社会への影響を切り離すことはできない。政府が「移民政策ではない」と呼んでも、定住者が増えれば実態は変わらない。

第4章──犯罪と善意の限界

外国人犯罪については、偏見を恐れるあまり、その特徴や増加傾向まで語りにくい空気がある。犯罪統計だけで移民政策を論じるのは粗雑だが、無視するのはさらに粗雑である。

警察庁によれば、来日外国人による刑法犯・特別法犯の検挙件数と検挙人員は、2023年から3年連続で増加した。2024年の刑法犯検挙件数に占める共犯事件の割合は、来日外国人が41.1%、日本人が12.5%である。出身国を基盤とする組織化、多国籍の構成員による役割分担、海外の指示役から国内の実行役への指示も確認されている。

犯罪組織にとって、日本人の親切さや無防備さは利用できる弱点でしかない。制度や本人確認の甘さにつけ込めば利益を得られると思わせてはならない。制度の悪用には、処罰、在留資格の取消し、退去、再入国禁止が伴うと明確に示してこそ、国家の抑止力は成立する。

日本への移住を望む人がいるとしても、誰を、何人、どのような条件で受け入れるかを決めるのは日本である。各国の社会問題は、まずその国の政府と社会が解決すべきであり、日本が移住者の受入れによって肩代わりすることはできない。受入れには財政、治安、社会統合上の限界がある。人道上の一時的な保護と恒久的な定住も分けて考えなければならない。国家は国民の税金と安全に責任を負う。善意だけを国家運営の原則にはできない。

第5章──「排外性」という国家の自己防衛

現代日本では、「排外的」という言葉が否定的なレッテルとして使われている。しかし、国家は本来、排他的な共同体である。国境を設け、国民と外国人を区別し、誰を内側へ入れるかを決める権限がなければ、国家は成立しない。排他性は国家の欠陥ではなく、その成立条件である。

外国人の流入を制限し、日本文化を守り、犯罪者を退去させ、自国民を政策上優先することまで「排外主義」と呼んで封じるのは、国家の自己防衛を道徳的に無力化する言葉の操作である。身体に免疫系があるように、社会にも境界と選別機能が必要だ。問うべきは「排外的か」ではなく、何を守るために、誰をどの基準で受け入れ、あるいは排除するかである。

このように、守るべきものを先に定め、変化をその許容範囲内にとどめることこそ、保守主義の本質である。保守主義(conservatism)とは、単なる懐古や変化の拒絶ではない。長い時間をかけて形成され、現に社会を支えている制度、文化、秩序、信頼を、抽象的な理想や一時的な利益のために軽々しく壊さない態度である。保守主義者(conservative)は、受け継いだ社会を容易には取り戻せない財産と考え、変化によって失われるものと、失敗した場合の責任を問う。

移民受け入れも、この順序で考えなければならない。多文化共生という理念に合わせて日本社会を作り替えるのではなく、まず日本の文化、治安、信頼社会を守る。その土台を損なわない範囲と条件においてのみ外国人を受け入れる。それこそが保守主義者の態度なのである。

第6章──日本の内側へ入る覚悟を問え

日本社会の内側に誰を受け入れるかは、日本が自らの意思と基準によって決めるべきことである。受け入れるにあたっては、日本社会の一員として生きる覚悟があるかを、本人に問わなければならない。

入国と在留は当然の権利ではない。日本が自国の利益と安全を基準に、受け入れの必要性、本人の能力と素行、社会への影響を総合的に判断したうえで認めるものである。在留中は法律を守り、税と社会保険料を負担し、日本の秩序と規範に従わなければならない。

永住許可は、単に長く滞在したことへの褒賞ではない。十分な日本語能力と安定した生計を備え、納税と社会保険料の負担を継続し、良好な素行と社会的信用を積み重ね、日本社会に適応してきた実績があり、将来にわたってその安定に寄与すると認められる者に限って与えるべきである。

帰化は、便利なパスポートを得るための手続ではない。日本国民となり、日本の歴史と将来に責任を負うという意思表示である。居住年数、日本語能力、日本の歴史と法制度への理解、納税実績、犯罪歴、安全保障上の問題、日本国への忠誠について、厳格に審査すべきだ。重大な虚偽や不正な手段によって帰化を得た者に加え、帰化後に日本の安全と秩序を著しく害する重大犯罪を犯した者についても、帰化を取り消せる制度が必要である。

権利だけを語り、義務や違反した場合の責任を曖昧にしてはならない。制度を悪用する者には厳正に対処し、定めた条件を例外なく一貫して適用する。それこそが公正である。

むすびに──外殻は堅く、内側は温かく

日本が目指すべきなのは、誰に対しても無条件に開かれた国ではない。外殻は堅く、内側は温かい国である。入口では厳格に審査し、滞在する者には、日本の法律と社会規範を守り、課された義務を果たすことを明確に求める。境界が堅固であるからこそ、その内側では深い信頼と寛容を保つことができる。

反対に、入口が無防備であれば、本人確認や防犯設備、警備、契約によって社会の内側を固めざるを得なくなる。やがて日本人同士までもが互いを疑うようになる。入口の無防備さは、内側の自由を奪うのである。

日本社会の素晴らしさは、誰もが無条件に享受できる無料のサービスではない。日本人が長い歴史のなかで築き、規律と自制によって守り続けてきた共同体の結晶である。その内側に入るのであれば、法律を守り、日本語を学び、税を負担し、日本の文化と秩序を尊重する覚悟が必要だ。

日本は親切である。しかし、甘くはない。日本は寛容である。しかし、無防備ではない。多文化共生という理想に合わせて日本を作り替えるのではなく、日本の文化、治安、秩序、相互信頼を損なわない範囲でのみ外国人を受け入れる。それこそが保守主義の態度であり、国家を願望ではなく現実として捉えるリアリズムである。

日本を守るために必要なのは、世界から「善良な国」と見られることではない。日本人が、これからも日本を自分たちの国だと確信できることである。

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