大田区・世田谷区の古墳(荏原台古墳群)
下記前報で、相模国と武蔵国を繋いだ東山道に関して触れてきました。
武蔵国について調べていく中で、『日本書紀』に記録された武蔵国における国造の地位を巡る内乱があったことが分かって来ました。それは、安閑天皇元年(534年)に発生したもので、国造の地位を巡る争いに、大和朝廷が介入したというものです。
当時の武蔵国は、大和王権の東国支配の要であった様です。その様子は、現在に残された武蔵国府の遺跡の規模から類推されます。


国造は地域の政治・軍事を担う重要な地位だと思われますが、今の日本でも選挙でえらばれる国会議員でさえ世襲も多い状況で、古代の地方の重要ポストの国造の地位も世襲されることが多かったと考えられますが、その地位を巡る争いがおこることは十分予想されます。
武蔵国造の乱は、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の笠原直小杵(かさはらのあたいおき)との間で発生したとされています。笠原直使主と笠原直小杵は、武蔵国造の地位を巡って対立し、小杵は、群馬方面に勢力を有していた上毛野君小熊(かみつけののきみおぐま)の支援を得て、使主を殺害しようと企てたとされています。この企てを知った使主は、大和王権に事の次第を訴え、王権の介入を求めた様です。大和王権は、使主を武蔵国造に任命し、小杵を討伐したとされています。使主は、この援助に応えるべく、武蔵国の四ケ所の地区を、朝廷の直轄地を意味する屯倉(みやけ)として設置し、大和王権に献上したとされています。すなわち、この介入を切掛けに東国支配を強化した結果となった様です。
笠原直使主の拠点は、下の図によりますと、埼玉の現在のさきたま古墳群のあたりとされており、一方、小杵は、東京都の多摩川沿い付近を本拠地としていたことになっています。

その多摩川沿いには、荏原台古墳群が存在しており、これらの古墳が、笠原直小杵の一族の墓であることが予想されます。荏原台古墳群は、武蔵野丘陵と荏原台の上に多摩川縁に作られていることが特徴的で、東は、東急東横線の多摩川駅から、西は、東急田園都市線の二子玉川駅付近まで並んで造営されています。代表的なものは、浅間山古墳、亀甲山古墳、宝莱山古墳、丸子山古墳、野毛大塚古墳、御岳山古墳、上野毛稲荷塚古墳などですが、約50基と多くの墳墓が見つかっているそうです。


まず、東端に存在する浅間山古墳ですが、現在は荏原台の端に作られた浅間神社と一体化しており、古墳としての外観は分かりません。浅間神社は、下の写真のように鳥居から50段に及ぶ階段を登った上に座し、多摩川から川崎方面を望む見晴らし台も設置されており、もしここに古墳が存在したならば望むべき光景が分かります。後にも議論しますが、多摩川へりの段丘上に古墳が造営された意味が予想されます。


ここで余談ですが、上の鳥居の写真ですが、鳥居の左側の木の葉の一部と右側ののぼり旗の一部の画像が乱れています。これは、加工ではなく、乱れを意図していないものであり、ちょっと不思議です。
この浅間神社から出土したとされる馬頭の埴輪(下写真)が、多摩川台公園古墳展示館に展示されています。この時期、渡来の新しい文化である馬使用が、この武蔵まで来ていたことが理解されます。

荏原台に設けられた多摩川台公園を進むと、途中に大小の古墳が現れますが、公園の西端に現れるのが、亀甲山古墳です。

亀甲山古墳は、4世紀末~5世紀初頭に作られた前方後円墳だそうで、墳丘長が107メートルに及ぶ多摩川流域で最大規模の前方後円墳で、副葬品として刀剣、玉類、鏡が見つかっており、大和王権との関係性が見いだされます。今回話題とさせていただいている笠原直小杵が係わる武蔵の乱が534年ですので、ここが本拠地であったとしても、数代前の世代の墓でありましょう。亀甲山に先駆けて作られたとされるのが、多摩川台公園を進んだ先にある宝莢山古墳です。

この古墳は、墳長100メートル弱の多摩川流域では最古級の前方後円墳とされています。副葬品としては、下の鉄製武器や玉類の装飾品が見つかっています。これらからも、この地区と大和王権が、4世紀中から強い結び付きを有していたことが分かります。

多摩川台公園から台地を多摩川沿いに3キロメータ程遡って行くと、野毛大塚古墳、御岳山古墳があります。野毛大塚古墳は、玉川野毛町公園の中にあり、墳丘も再現され全容が保全されています。


野毛大塚古墳は、5世紀前半に築造されたと考えられる帆立貝式前方後円墳で、墳長約82メートルの規模を有しています。その規模は大きいですが、前方後円墳ではない点がポイントです。前方後円墳の造営が、大和王権から許されなかった可能性があります。墳丘の表面は多摩川の自然石である葺石で覆われ、後円部の頂上には、写真のような配置で4つの埋葬施設が確認されたそうです。これらは同時期ではなく、約50年の間に順に築造されたと考えられているそうです。第1埋葬縦穴からは、多数の鉄製刀や槍に加えて、鉄製の甲冑も出土しており、また、第三埋葬縦穴からも、多数の鉄製刀が見つかっていることから、武闘派の首長一族が埋葬されたことが予想されます。

お隣の御岳山古墳(下写真)出土の鉄製レプリカの写真を示します。この御岳山古墳も、帆立貝式前方後円墳であるそうです。


ここで取り上げた野毛大塚古墳、御岳山古墳に加え、この付近には、上野毛稲荷塚古墳、八幡塚古墳、狐塚古墳、稲荷丸古墳等が、多摩川と並行した一直線上に並んで存在している模様です。
さて、ここで論じたいのは2点です。それは、1.これらの古墳が、笠原直小杵の一族の墓であるのか? 2.多摩川沿いの高台に造営した意味、の二つです。
今回触れてきた荏原台古墳群の内、世田谷の等々力、野毛に点在する古墳群は、その造営時期が先に触れた「武蔵国造の乱」が起こった時期に重なることと、南武蔵が彼らの勢力域とされておること、加えて、古墳から出土品で鉄製の武器類が多いことから考えると、これらの古墳がそれであるのではないかと考える次第です。古墳時代前期には、各地の有力者が前方後円墳を築造した経緯があります。即ち、今回も紹介した荏原台古墳群の大田区側の前方後円墳がそれに当たると思われます。一方、古墳時代中期に入ると、大和王権がその規模や形状に一定の規制を加えたと考えられて来ているそうです。それは、大和王権の権威を高め、各地の勢力を統制する意図があったと推測されています。このような規制の下で、前方後円墳の要素を残しつつ、より小型で簡略な帆立貝式前方後円墳を築造することで、自らの地位や権威を示そうとしたことが考えられます。見方によっては、大和王権に敵対してしまった笠原直小杵の一族は、帆立貝式前方後円墳を築造するしかなかったという見方です。
次に、多摩川沿いの台地に巨大古墳を造営した理由は、即ち、高い所に巨大古墳を作り、その勢力を誇示したものと考えるのが妥当と思います。下図は、国土地理院の地形データから、川崎の武蔵中原駅から大田区の田園調布駅までの地形高低差を描いたものです。

即ち、荏原台地に古墳が存在すれば、川崎側から見るとランドマークのように見えたのではないかとの意見です。今では、この場所に大きな木々が立っていますが、これを取っ払ってしまい、加えて古墳が、多摩川の丸石で敷き葺かれていたら、目立つと思います。現在は、双子多摩川の繁華街のビルが、川崎側の低地からは望まれるわけですが、当時は、古墳がその対象になっていたのかもしれません。川崎の低地では、稲作が展開されていた可能性がありますし、この地を支配するための力の誇示のために造営した可能性を考えます。この地区は、「武蔵国造の乱」後に、橘花屯倉として大和王権の直轄地になったという流れもあります。
以上、現地を回って得られた遺跡の情報に加え、それに合わせて考えた私的考察でした。
