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リハビリ職の「在り方」を考えます――村上藩士が守ったもの(連作・後編)




▲この記事の つづき となります

話が長くなりそうなので(←いつものこと
いきなり本題に入ります
よろしくお願いいたします






幕末を語る――わたしの " トーン "




戊辰戦争って


ご存じですか?




少し 幕末のときの

村上藩 について

お話したいと想うんです





地元で聞いた話ですから

史実かどうかは わかりませんよ?

そこは よろしくお願いしますね



幕末

戊辰戦争って 歴史の授業で習いました?


あ さすが ご存じ 優秀



わたしは 学生時代

幕末が 好きではありませんでした


今でも あまり 好きではありません

当時のそれは 感覚的なものでした



ですが

渋沢栄一 や

栗本鋤雲 が

後に好きになるので



どうも

" 何らかのフィルター "
を通して見せられた

あの時代の歴史が

好きではなかったようですね?



あくまでも 個人の意見ですが

わたしが これから話す

トーン

を 予め お知らせしておきました



一般的な

あの時代の 語り方と

ちょっと 違うのかもしれません



あなたが 西日本の

あっちの方の ご出身だったら

ごめんなさいね






長岡の苦境――新発田の事情





村上藩ってね

江戸時代 すっごく大きな藩になったり

縮小したりを してきたんですけど




幕末のその時は

弱小 小藩


でした




零細企業

みたいな 立場ですね



近くには

会津 米沢 庄内
という大きな藩があって

みんな佐幕派として同盟を組んでいた


「奥羽越列藩同盟」

という名前です




この同盟を組んだ藩たち

その 態度は

あまり褒められたものではなくて

非常に

猜疑的 で
威圧的 だったと

伝わっています



村上藩は 彼らの圧力には逆らえず

その同盟の中にいて

新政府軍と戦うことを

余儀なくされました




新潟には

長岡

という場所がありまして



当時そこは

長岡藩

という藩がありました




河合継之助

という人がいました



彼は 当時の日本の中で

スイス みたいに

武装中立国でありたいと願い

行動していました



彼は ガトリング砲など最新鋭の武器を購入し
自衛の力を付けていました

そして

「会津藩への説得猶予」と
「長岡藩領内への進軍停止」

を 新政府軍に 涙ながらに訴えるのですが


新政府軍は 30分で
すべて拒否


進軍を開始します



やむなく 長岡藩は

同盟に加盟し

新政府軍と戦うこととなりました



当然 村上藩も

長岡の近くまで来て
戦いました



当初は 互角以上に戦ったそうです

新政府軍は あまりの劣勢に

西郷吉之助という男を
前線に呼んだほどだったそうです



ちなみに この西郷という人については
わたしは

「よく知らない人」

とさせてください

歴史はど素人なんでね 笑




ところがね

新潟県民 越後人って

戦国の世から

「まとまることが苦手」

なんです



どこか

イギリスの

イングランド
スコットランド
ウェールズ
アイルランド

の関係

っぽいんですよね




新発田藩

新発田って

「し・ば・た」

って 読むんですけどね



その新発田藩が

同盟を離反してしまいます



新発田藩も

奥羽越列藩同盟に
半ば強制的に加盟させられていて

しかも 同盟諸藩は

新発田藩の忠誠を疑い
藩主まで人質に取ろうとしてしまうんですよね


そんなもんだから


新発田藩は 新政府軍に寝返る


で それで戦況が大きく変わってしまうんです


わたしは観ていないけど
こんな映画もあったようですね

▼映画『十一人の賊軍』





河合継之助は負傷し
戦線を離脱します



新政府軍は
長岡市を
灰燼にしてしまう



長岡というところは
その後
第二次世界大戦でも
大空襲を受けて
再び焼野原になってしまう
大変な街なんですよね…



河合継之助の評価って
新潟県でも
別れているんです



新政府軍が

" そういう戦い方 " をすることは

自明のことでした



新発田藩が
新政府軍についた理由にも

「領地を戦火から守りたい」

という 領民の意思が強かったから
ともいわれています




河合継之助を

長岡を守ろうとした英雄とみるか?

結果的にだけど

長岡を焼野原にした者とみるか?


難しい問題ですね



その後 長岡藩の

小林虎三郎


長岡藩の窮状を救おうと贈られてきた
米を

学校(国漢学校)の設立資金に換え

長岡の教育と人材育成の礎
を築くんですよね




小林虎三郎は 佐久間象山に学んだ人です
(河合継之助もそうなんですけどね)

吉田松陰と共に

「象門の二虎」

と 言われたほどの優秀な人です




ちなみに さっきのお米の話は

「米百俵の精神」

と呼ばれていますね



え?


誰かがこの言葉を

政治利用してた?



あぁ!

あの人ね!



「米百俵の米というのはですね、
 百俵の米なんですよ。

 だからこそ、
 今の痛みに耐えるということは、
 今ある痛みに耐えるということなんです。」



って言ったんでしたっけ?




それは 息子さんの方?


そんなこと 言ってない?

でも 言いそうですよね?



はははは







藩主の急死――藩士の分裂





脱線しちゃった ごめんなさい


話を戻しますね





いずれにせよ

村上藩は

苦しい状況となります






村上藩の藩主

内藤信民という人は

ここで亡くなります


病死ともいわれるし


この状況に耐えかねて
自殺したという話もあります


若い方だったそうだし

心労に耐えかねたことは
事実だったと想います




藩の意見は 真っ二つに分かれます


新政府軍に降る 恭順派

徹底抗戦の 抗戦派


まとめる 藩主はいなくなったばかり



新政府軍は

村上藩に 最後通牒をつきつけ

城下へ迫ってきます






ふたつの行動――ひとつの了解





ここからは 本当に

いろいろな解釈があるから

「ひとつの 歴史の見方」

だと 想って聞いてほしいんだけどね



戦が近いと知った

恭順派の藩士たちはね

城下を去っていきます



城には 抗戦派が残っていました

人数 約200人


彼らを率いるのは

最年少家老の


鳥居三十郎


という人





普通はね


武士ってのは


「城を枕に討ち死に」


を 美徳とする生き物です




でも


彼らは それを

" なぜか "


選択しなかったの




鳥羽三十郎は

城に火を放つんです



「籠城はしない」



そして 城を降り



抗戦派藩士を引き連れて

庄内藩の兵と共に

北の国境へ向かって行きました







恭順派を 指揮したのは

江坂與兵衛

という人



彼は徹底して 新政府軍に反抗せず

村上の街からも 出ている



中途半端に街に残っていれば

新政府軍に

「まだ戦意がある」

言いがかりをつけられる恐れがあったから

と言われています






女性たち――もう一つの応戦





そして

村上に新政府軍がやってきます



出迎えたのは

残された女性たち


彼女たちは

毅然とした態度で

こう言ったそうです



「見ての通り

 ここには 戦える男はおりません

 あなたがたの相手は

 北へ向かいました

 どうぞ 穏やかにお通り下さい」



堂々とした 応対だったと

わたしは 聞きましたよ


それに関しては

紛れもない歴史的事実

だと

わたしは 信じざるを得ません



だって

村上の女性って

強いんですよ?

マジで! 笑




それはさておき



これで 村上は

戦場となることが

避けられました



村上の街と領民は

長岡のように

焼かれることなく



新発田のように

藩としてまとまることは
できなかったけど

武士らしく義理を通すことは
できました






負け戦とふたりの死――守られたもの





鳥羽たちは

新潟と山形県の境にある

鼠ヶ関(ねずがせき)

という場所を
戰場(いくさば)
としました



わたしは 新潟から盛岡へ
師匠のセミナーを受けるために
そこを通り

よく
休憩したものです



あそこに行くと わかるけど

あそこで戦ったのならば

さながら 映画の

「300(スリーハンドレッド)」

の世界です



少ない軍勢が

大軍を迎え撃つには

絶好の地形だと 想いますね


Googleマップ






絶対的不利の中

彼らは1カ月以上応戦するんです



戦う相手の先方には

恭順したばかりの

村上兵もいたそうです



かつての仲間と戦う

彼らの気持ちを想うと

胸が締め付けられます…




新政府軍らしい

" やり方 "

ですね…



その後

庄内藩は 降伏します


鳥羽たち 抗戦派は

村上へ戻り 謹慎します



新政府軍は

首謀者の首を差し出すように

要求してきました



鳥羽三十郎は

「責任は自分一人」

として

首を差し出します



新政府軍は

「斬首を」

と命令するが



村上藩は

無視します



鳥羽三十郎は

「切腹」

を 許されます



その日は


明治2年6月25日

だったそうです



享年29



若い…






恭順派を率いた

江坂與兵衛は

鳥羽三十郎の切腹直前に

暗殺されます


これ以上の
恭順派の粛清は無かった
と聞きます



抗戦派からの恨みは


江坂ひとりが

抱えていったのかも

しれません





村上の 街と領民は

そして 最初にお話したような

文化と伝統は

こうやって 守られたそうです







価値観の中で――迷えるか?






パフェ美味しかったですね


コーヒーにします?

紅茶?


あ じゃぁ 紅茶にしましょう

えぇ わたしも 紅茶で


何にします?

ダージリン?


いいですね

じゃぁ わたしも







リハビリの話なんですけどね



リハビリの世界にいると


いろいろな

価値観の中に

身を置くことになります




あなたも

仕事をしているうちに



あなたの中に

「大切なもの」

できるはずです



でもね

その 大切なもの



破棄するか

守るか




選択を 迫られることが

あるかもしれません



きっと

迷う


と 想います




そこで 迷える

セラピストであってほしい


と 想います





でもね


一番に 優先してほしいことが

あります



それは


新政府軍に

恭順するか

抗戦するか


の村上藩に

通じる話だけど



彼らにとっての

「村上の街と領民」


と 同じように


あなたの


「患者さん 利用者さん」



大切にしてほしいと


想うんです






信念――責任





患者さんを大切にするって


「最後まで自分が

 責任を持って

 リハビリをする」


ということでは


ありません


そういう責任感も

大切ですけど


「自分がこの組織を去っても

 この患者さんが困らないように」



と 想いながら

今日 リハビリをすることです



これは

「最後まで自分がリハビリを担当する覚悟」

よりも

実に 難しい マインドです



無責任になることでは
ありません


他人任せでよい とは
決して言っていません



あなたは 能力の全てを注いで

その患者さんを 治療したとしても


明日 あなたが その組織を去り



他の人がリハビリをすることになっても
困らないようにしておく


カルテやその他記録をしっかり書いておく
ことは基本です


患者さんを
自分に依存させず


患者さん自身が
回復する意識を持ってもらう


あなたが去ったときに


患者さんが被る不利益を

なるべく小さくする



これは

心がけてほしいし


そういう

リハビリスタッフとしての


「在り方」



大切にしてほしいなって

想います



信念は

大切にしてほしい



信念を曲げたスタッフの

リハビリは

善いものには

なりようがありません



でも どのような信念であろうと



患者さんを

本質的な意味で

いちばんに想ってほしい



本質的な意味で

責任を持ってほしい



そう 想っています



人の「在り方」について

わたしは アドバイスなんて

絶対にできないけど



少しだけ 先輩として

いえることは

こんなことですね




結び――え? これ続けるの…?



ふぅ…



これで 答えに なっていますかね?


かえって

わからなくなった?


あはははは

そーかもー



それでいいんですよ

わからなくて いいんです


今から そんなこと わかっていたら

人生 味わえませんもん



それにしても

これから 日々


こんな風に わたし

質問に答えていくんですか?



こりゃまた 大変な日々が

続きますなぁ~~



はははは


とういうことで


じゃぁ また今度ね



それまで どうぞ


あなたに


善い日々が


つづきますように



話を聞いてくれて


どうもありがとう!





リハビリ職の「在り方」を考えます
 ――村上藩士が守ったもの(連作・後編)










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