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松本・野麦——深志でいるのか②

そばも深志だった

深志神社を出たあと、
松本で、そばを食べた。

野麦のざるそば。

竹のざるに、手打ちのそばが、
少し無造作に、けれど凛として盛られていた。
豪快というほど大げさではない。

でも、遠慮もしていない。

そこに置かれたそばが、
ただ静かに、主役として佇んでいる。

水切りされたばかりの麺には、
ほのかな艶があった。

細い麺なのに、口に運ぶと、
思ったよりも力があった。

手打ちのそばらしい気配を残しながら、
麺は、意外なほどきれいにそろっている。

噛むと、しっかりとした歯ごたえがあり、
そば粉の香りが、口の中にふっと広がった。

まずは、そばだけで食べてみる。

余計なものを足さなくても、
ちゃんとおいしい。

それは、少し強いことなのだ。

飾らなくても、
説明しなくても、
そこにあるもので、十分に立っている。

つゆは濃いめだった。

鰹の風味がしっかり残っていて、
そばの甘みと、つゆの旨みが、
静かに重なる。

ねぎ。
わさび。
大根おろし。

薬味を少しずつ添えると、
同じそばなのに、また表情が変わる。

でも、どれも主張しすぎない。

そばを引き立てるために、
そばのそばにいる。

そんな感じがした。

最後に、蕎麦湯をいただいた。

つゆの中に注ぐと、
それまできりっとしていた味が、
少しずつほどけていく。

そばの香りが、もう一度立ち上がる。

食べ終わる、というより、
そばの余韻を、ゆっくり飲み干すような時間だった。

深志神社で見た、
「深い志」という言葉が、まだ心に残っていた。

深志とは、
大きな声で志を語ることではないのかもしれない。

静かに、そこにあること。

余計なものを削ぎ落として、
それでもなお、自分の芯を失わないこと。

松本のそばは、
そんなふうに見えた。

派手ではない。
急がない。
媚びない。

ただ、まっすぐに、
そばである。

それは、深志神社で感じたものと、
どこか似ていた。

松本には、
深志神社だけではなく、
そばの中にも、深志があった。

深志でいるのか。

そんな問いを持ったまま歩いていると、
土地は、思いがけないところで、
小さな答えを返してくれる。

このざるそばも、
そのひとつだったのだと思う。

松本・野麦にて。
深志神社を出たあと、
このそばの中にも、深志を感じた。

杜野 灯 (もりの あかり)

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