その風、台風より先に到着。
このお話は、「その風、8月に到着予定。」の続編です。
僕が一か月半も待ち続けた風と、誰も待っていない風が、同じ日にやってくることになった。
そう、我が家にようやく新しいエアコンが届くその日、よりによって関東地方に台風が接近する予報が出ていたのだ。
なんというタイミングだろう。
台風にも年間スケジュールというものがあるだろう。よりによって、僕が一か月半も待ち続けた日に、関東見物へ来なくてもよかろう。
前日の夜から、僕は何度も天気予報を見た。画面上では、雨雲が赤や黄色の物騒な色をまとい、じわじわとこちらへ近づいてくる。しばらくすると消えているので安心するが、また見ると復活している。雨雲というやつは、人を翻弄するのがうまい。
「雨が降ったら、工事はできませんね」
あらかじめ下見に来た業者さんの言葉が、呪いのように耳の奥でリフレインしている。
冗談じゃない。こちとら一か月半も、灼熱の部屋で耐え忍んできたのだ。
そもそもこの一か月半、僕は隣の部屋をエアコンでガンガンに冷やし、サーキュレーターで仕事部屋へ冷気を送るという「風のインフラ」で生き延びてきた。
隣室は冷蔵室、廊下は輸送路、仕事部屋は末端の集落である。そこへサーキュレーターが、冷気という救援物資を懸命に運んでくる。
しかし、風はまっすぐ進ませても僕の机まで届かない。そこで途中に衝立を置き、冷気を反射させることで強引に進路を曲げた。
最初は「おお、届く」と感動した。しかし、隣室を出発したときには元気だった冷気も、僕の足元へ着くころには、炎天下を歩いてきた人のようにすっかり弱っている。
サーキュレーターの角度が少し変わるだけで物流は滞り、衝立が動けば集落への供給は途絶える。妻のトラ子さんも、冷気が少しでも多く届くように、サーキュレーターと衝立の角度をたびたび調整していた。
僕が仕事に集中している間は、暑さもそれほど気にならない。ところが、ひと区切りついて手を止めた途端、身体中から一斉に暑さの報告が届く。
「額、発汗しています」
「背中もです」
「喉から追加の水分要請です」
集中力によって一時保留にされていた苦情が、まとめて処理されるのである。
だから今日を逃すわけにはいかない。延期になれば、いつ終わるとも知れない「風のインフラ」生活へ逆戻りだ。
スマホの雨雲レーダーをリロードする指が震える。画面の中では、赤い雲の塊がじわじわと関東に迫っていた。
朝の8時。スマホが震えた。
「昼前には降りそうなので、今から行っちゃっていいですか!」
業者さんからの連絡である。
いいも悪いもない。心の中では玄関から仕事部屋まで赤い絨毯を敷き、歓迎の楽団まで待機させている。
「もちろんです! お待ちしております!」
僕は即答した。
電話を切るやいなや、家の中は急に慌ただしくなった。
「トラ子さん! 業者さん、もう来るって!」
妻に向かって叫びながら、机の周りを最終確認し、空を見上げ、また雨雲レーダーを見る。別に僕が工事をするわけではないのに、落ち着かない。
ほどなくして、ファン付きのベストを着た業者さんが到着した。
台風が近づいているためか、風が適度に吹き、猛暑のころより気温も低い。皮肉なことに、エアコン工事には台風の気配が少しだけ役立っていた。
さあ、ここからが第二の難関である。
今回の工事は、ただ古い機械を外して新しいものをつければ終わり、という簡単な話ではない。
エアコンを設置する仕事部屋は二階にある。そして室外機は一階に降りた先の隣家との狭い隙間に設置されている。事前に行われた下見の際も、業者さんが腕組みをして唸っていたほどの難所である。
本当は、もっと作業しやすい場所へ移してほしかった。しかし、配管の都合で室内機の真下に設置する必要があるという。
結局、隣家との境界にあるフェンスをいったん取り外し、そこから室外機を搬出入するという大掛かりな作戦が採用された。
エアコン一台を交換するだけなのに、事前の現地調査が行われ、境界線を一時撤去し、狭い場所へ大型機器を運び込む。家電の取り付けというより、狭い海峡を通過する大型船の曳航計画である。
僕が窓からハラハラしながら見守るなか、業者さんは迷いのない手つきでフェンスを外し、狭い隙間へ入っていった。
ドン、ガコン、と音が響く。
僕は何を手伝えるわけでもなく、仕事部屋と窓際を行き来しながら、意味もなく雨雲レーダーを更新していた。
「雨、まだ大丈夫ですね」
「ですね」
そんな会話を交わしながら、業者さんは黙々と作業を進めていく。
やがて古い室外機が運び出された。そして、新しい室外機が隣家との狭い隙間へ入っていく。金属が擦れる音、何かがコンと当たる音。姿は見えないのに、隙間の中で起きていることが音だけで伝わってくる。
その間にも、台風は関東へ着実に侵攻している。頼む、降るなよ。まだ降らないでくれ。僕は心の中で祈り続けた。
次に、古い室内機が壁から取り外された。
十五年間、僕の仕事部屋を冷やしてきたエアコンである。動かなくなった途端、僕はずいぶん恨めしく見上げていたが、外されてしまうと、なんだか少し頼りなく見えた。
業者さんが次の作業のために外へ出ている間、僕は十五年間エアコンに隠されていた壁の汚れを拭いた。人目につかなかった部分というものは、発見された途端、急に汚れていることを主張し始める。
新しい室内機が取り付けられ、残すは外の配管作業とフェンスの復旧である。
そのとき、僕のスマホが、
ビイイイー!
と、けたたましく鳴った。ストームアラートである。画面には、もうすぐ激しい雨が降る可能性があると表示されていた。
いやまだだ。外の配管の取り回し作業が残っている。僕はただ、雨雲レーダーと業者さんの背中を交互に見つめることしかできない。もう少し持ちこたえてくれ!
作業が始まってから、およそ三時間。
外でポツ、ポツ、と雨の音がし始めたころ、ファン付きベストの低い音とともに、業者さんが二階の仕事部屋へ戻ってきた。
「ギリだったね。ちょっと降り始めたけど終わりました」
間に合った!
室外機は収まり、配管もつながり、フェンスも元へ戻った。そして仕事部屋の壁には、真新しいエアコンが白く輝いている。
「じゃ、試運転しますね」
業者さんがリモコンのスイッチを押した。
ピッ。
設定温度は17度。
さあ、こい。
一か月半待った冷たい風よカモン!
僕とトラ子さんは両手を広げるような気持ちで待ち構えた。
しかし、エアコンは沈黙したままである。
フラップが開かない。
一分経過。
二分経過。
室内機は「ウィーン……カチッ……」と内部で音を立てながら、何やら考え込んでいる。
僕は不安になった。まさか、お前まで沈黙する気じゃないだろうな。こちらはすでに、沈黙するエアコンにはひと夏分たっぷりつき合っているのだ。
不良品なのか。それとも、あの狭い隙間で配管がどうにかなってしまったのか。さまざまな最悪の展開が、頼んでもいないのに頭の中で組み上がっていく。
何も起きない五分間。
だが業者さんは「はしご片付けてきますねー」と、なんの心配もない明るい声で部屋を出ていってしまった。
えっ、置いてかないで。これ、壊れてないよね?
トラ子さんと二人で説明書をめくりながら、何度もエアコンを見上げる。
そのとき、足首を冷たいものがすっと撫でた。
ん?
見上げると、フラップが長い眠りから目を覚ますように、ゆっくりと下がり始めていた。
「動いてる!」
僕が声を上げた次の瞬間、フラップが一気に全開になった。
ブワァァァッ!
間違いなく冷やされた、力強い空気が吹き出してくる。
「うおおお!」
僕は思わず叫んだ。
隣にいたトラ子さんも、首に巻いたタオルで汗を拭きながら、「やったぁぁぁ! 涼しい!」と歓喜の声を上げている。
冷たい。ただそれだけで、こんなにうれしい。
フラップが開いただけで、映画のクライマックスである。風のインフラで耐えた一か月半が、体に当たる冷気によって報われていく。
台風より先に僕の待っていた風がついに届いたのだ。
取り付け費用は、フェンスの脱着などもあって予定よりだいぶ高くなった。それでも、これで暑さに体力を奪われず、安心して仕事ができる。風のインフラも、本日をもって運用終了である。
業者さんが帰ったあと、僕は改めて真新しいエアコンを眺めた。
我が家へやってきたのは、パナソニックのエオリアEX。グッドデザイン賞を受賞した、なかなか賢そうな顔のエアコンだ。
その賢さは、機能の数にも表れていた。冷房、しっとり冷房、除湿、衣類乾燥、AI、スマホ連携、電気代表示、ナノイー。
僕は冷たい風を一本注文したつもりだったのに、届いたエアコンは湿度を見張り、洗濯物を乾かし、電気代を報告し、花粉やニオイにまで口を出すつもりらしい。
そもそも「しっとり冷房」とは何なのだ。冷房に「しっとり」という世界があることを、僕は今日まで知らなかった。冷たいか、冷たくないか。その二択だけで十五年間を生きてきた男である。
リモコンも、以前のものより倍近く大きい。最初は「でかいな」と思ったが、バックライトがつき、文字も表示も見やすくなっている。進化とはすごいものだ。
でも、数ある最新機能の中で僕が一番感動したのは、AIでもスマホ連携でもなかった。
「温度設定が0.5度刻みでできる」ことだった。
以前のエアコンでは、26度に設定すると寒く、27度にすると暑かった。そのたった1度の間に広がる永遠のようなジレンマを、僕は十五年間、どうにかできないものかと思い続けていたのだ。
新しいリモコンの画面には、当たり前のように「26.5℃」と表示されている。そうか。僕が長年探し求めていた真の快適さは、26度と27度の「間」に隠れていたのか。
隣家との狭い隙間に室外機を押し込み、台風が来るまでわずかな晴れ間をくぐり抜け、そして26度と27度の隙間を見つけた。
今年の夏、僕が探していたものは、全部どこかの隙間にあった。
エアコンの心地よく冷たい風が僕の机までまっすぐ届いた。もう、衝立に風の道を教えてもらう必要はない。僕はついに、本当の勝利を手にしたのだ。
……ところが。
その日の夜から、雨脚は本格的になった。
窓の外ではバラバラと激しい音が鳴り続け、気温はぐんぐん下がっていく。
酷暑の部屋にすっかり慣れきっていた僕の体にとって、台風が連れてきた空気はひんやりとしていて、なんだか涼しいくらいだ。
「……エアコン、切る?」
トラ子さんの言葉に、僕は静かに頷いた。
ピッ。
一か月半待って、台風と競走して、フェンスまで外して迎えた新しい風は、初日から出番を失った。
僕はまた、夏に少しだけ負けたのである。
相生エッセイ
▽ 今回のお話の前編です。こちらもぜひ!
▽ note創作大賞2026に応募したエッセイ作品はこちらに収録しています。ぜひ読んでみてください。

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他にも、創作大賞にも応募している 日々の何気ない瞬間を切り取ったエッセイを綴っています。よかったら覗いてみてください。
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